中編 星檻交響
鮮明な光壁を抜けた瞬間、世界は上下左右の概念を失った。宙には逆さ吊りの街路、足元には虚空の夜海。反響殻はあらゆる音を反転し、空気そのものを楽器に変える巨大な残響器だ。
指先を鳴らすと微かな拍が二重三重に折り返し、遅延した自分の鼓動が背骨を震わせた。私は一瞬、身体の境界が溶ける幻覚に襲われる——が、喉のリボン痕が火のように疼き、意識を現に引き戻す。
心愛は肩傷を庇いながらも孔雀翼を半展開し、漂う音の粒子を風へと編み込む。「奥へ進むほどノイズは濃くなる。耳より心で定位よ。」
白鷺珈平は残響罐を肩に移し替えると、手首を捻って蓋を弾いた。走査虫が無数の銀糸となり、宙に螺旋の座標軸を描く。
「母巣核は殻を二重にして中心に鎮座している。そこへ辿り着くには——」
言葉を遮るように、天蓋が脈動した。雛罠だ。裂けた天井から垂れ下がる肉色の花弁、その一枚一枚に新生児の顔が貼り付けられ、乳と血の匂いを垂らす。
心愛が翼をきつく振ると、羽根は哭音盾へ変形し、襲い来る哭声波を前方へ押し返す。私は短剣を光糸に変え、茎へ無数の針を投げた。花弁が崩れ、乳白汁が霧散すると同時に視界が白濁——酸味が胃を焼く。
「急げ!」珈平の声を頼りに無重階段へ飛び移る。重力は拍ごとに向きを変え、私たちの身体を回転木馬のように振り回すが、胸奥の獣鈴がリズムを保つ。
闇の中心で黒い卵が脈動していた。母巣核——表面を走る可愛性値の符号が水銀の蛇となり、胎内から胎響が漏れ聞こえる。その前に立つ反響王は幼児のシルエットに億の声管を背負い、私たちの足音をそっくり真似た嗤い声に変換した。
〈声を奪い返せ〉合唱隊が私の頭蓋に命じる。私は心愛と視線を交差させ、三拍子を口の中で取った。
* 一拍——心愛の孔雀刃が空に弧を描き、王の声管を束ごと切断。蒼紫の音血が霧化して周囲の音場を荒らす。
* 二拍——私は光糸を束ねて雷矢とし、残る管を杭打ち。王の絶叫が書架を崩し、回廊が反転して天と地を交換する。
* 三拍——珈平が残響罐を逆相で破裂させ、母巣核の殻へ蜘蛛の巣状の亀裂を刻む。
しかし殻は割れず、裂け目から無限胎児——声帯だけの赤子——が溢れた。刃を入れるたび時間が巻き戻り、切断前へ自動復元される無限ループ。
心愛の肩傷が開き、血煙とともに痛みが私の視界を赤に染める。焦りが喉で脈打つが、私は舌で歯茎を噛み、鉄味で正気を繋いだ。
「罐の時限を反転!」
珈平が歯を食いしばり、逆再生の符を叩き込む。走査虫の銀糸が胎児に絡み、ループ構造の位相が反転——再演機構が自己否定を始める。
胎児が胎響の超圧波を放ち、胸骨が音叉のように震えた。だが私は短剣を穴へ突き刺し、魔力を流し込む。
「ゼロから——」心愛が輪唱を重ねる。
「——∞へ!」三つの声が重なると、母巣核の殻が蒼紅に炸裂し、黒い卵は虚白の光へ溶けた。
空間が激しく歪み、私たちは吹き飛ばされながらも互いの手を離さなかった。音は一瞬の静寂に収束し、次の刹那、新たな鼓動を産声のように打ち鳴らした。