前編 廃都子守歌
黎明と暁のあいだ、空は灰蒼と葡萄鼠がまだらに混ざり合い、双月の残光が瓦礫の街を燐光で縁取っていた。私は崩塔の庇で桜井心愛の肩傷を縫いながら、燭香と甘藍、そして遠い熔鋳炉の鉄臭が絡む夜気を肺に収める。胸骨の裏側がじわりと冷え、鼓動が針の振り子のように細かく揺れた。
針先が肉を縫うたび、彼女の微かな呻きが潮騒のように耳殻を湿らす。縫合糸を結びながら私は自嘲する——この街では“かわいい”を示す赤も、ただの血痕だ。
〈かわいい? まだ飢えている?〉
合唱隊が頭蓋の奥で輪唱する。私は雑音を振り払い、黒曜のリボン痕へ無意識に指を添えた。ひりつく感触が、かつての首輪という檻をありありと思い出させる。
「封龍の嚥込んだ可愛性値、どこへ行ったと思う?」
心愛が低く問いかける。沈丁花と銅粉を溶かしたような声色は健在だが、瞳の奥には昏青の痛みが張り付いていた。
答える前に、廃都の遠景で白線が閃いた。——星檻。天空から降下する光の檻が円筒状の壁を構築し、帝都アズル=ローの中心を断面図のように封じ込めてゆく。薄膜越しに見える夕雲は、蛍光琥珀となって波打った。
地面の震動に甘樫の葉が擦れ、そこへ混じって焼油の柘榴の酸っぱい匂いが立つ。私は喉奥が痺れ、胃液が逆打ちした。
駆ける影。背丈三尺ほどの玩具兵——反響王の私兵である収声兵——が瓦礫を蹴立てて近づく。顔面は鏡面仕上げで、映る私は蒼白、唇の血色まで奪われていた。
「こっちだ、鎮罪歌姫」
低い少年声が瓦礫の隙間から湧く。白鷺珈平が残響罐を背負い、油と檜の匂いを纏って姿を現した。その匂いは鉄錆を瞬時に上書きし、不思議な安心をもたらす。
珈平が星檻へ指を差す。「檻の中心で可愛性値が再構築されてる。奪われたままじゃ、また誰かが首輪を巻く羽目になる」
私は短く頷き、足場の鉄骨が啼く音へ耳を澄ます。——来る。収声兵たちの靴爪が火花を散らして迫る。血に飢えた玩具の行進は、まるで歪んだ子守歌だ。
心愛が肩を震わせつつ、孔雀のリボン羽を展開する。蒼と紫の翼膜が夜気を割って伸び、鉄臭を沈丁花の甘さで包む。「逃げ道は——上」
刹那、空気が青磁の板を割るような音で裂け、星檻の外壁が半透明状態へ変質した。空へ伸びる円筒は、都市を呑み込む嵐の喉元。《獣鈴》のように内側から低い咆哮が漏れ、私の鼓膜を揺らした。
私は心愛と指を絡めて立ち上がり、踵で崩塔の床を二度鳴らす——合図。珈平が頷き、残響罐から走査虫をばら撒く。無数の翅音が闇へ散り、直後に雛罠の警告光が頭上で花開いた。
「今回は逃げ道、上だ——」
心愛が再度囁く。声は震えていたが、瞳には確固たる不屈が灯る。私は短剣を逆手に握り直し、喉元のリボン痕を撫で、静かに息を吸った。凍薔薇の棘のように冷たい空気が肺を刺す。
私たちは同時に瓦礫を蹴り上げた。鉄の匂いが遠ざかり、かわりに星檻の光が網膜を灼く。世界が反転し、血の味は甘露に、恐怖は高揚へ転じる——子守歌はまだ終わらない。