後編 ゼロ/∞
封龍の胸郭に埋まった魔核が、鼓動のたびに蒼黒の火花を吐く。街路は熔鉄の川と化し、遠景の塔が溶け崩れる音がシンバルを連打するように肺を揺らした。
私は短剣を握り直す指の震えを、合唱隊の囁きで誤魔化す。
〈かわいい? その首輪、まだ噛みつく?〉
「噛ませてやるさ。咎も呪いもまとめて、ね」
桜井 心愛は血塗れの肩を押さえながら、なお孔雀のリボン羽を広げていた。焼肉の様な匂いが風に紛れ、胸が軋む。
「終楽章を歌うには、まだ声帯が足りない」
「じゃあ、世界ごとスピーカーにしようぜ」
私の冗談に彼女は笑わない。ただ眉端の汗が雫をこぼし、夜光で蒼く光った。
宰相の骸が残した緋鱗杖を拾い上げる。杖頭の宝珠は蜘蛛の巣のような罅を抱え、それでも内部に渦巻く赤黒い可愛性値は脈動を止めない。
私はリボンを喉へきつく巻き直し、杖を焦点に魔力を穿流す。熱が骨膜を焼き、視界が皿状に歪む。
双月が頂点を越える刹那、心愛が合図。
「ゼロ/∞プロトコル、起動」
彼女のコーラスが空気を震わせ、亡霊少女たち――女児形影――が瓦礫の影から湧き、輪唱を重ねる。
♪かわいい かわいい
♪壊して 産まれて
♪ゼロ ∞
音はやがて光へ転じ、封龍の脊椎を弦に変えて共鳴した。都市全体が共振箱となり、私たちの叫歌を拡声する。
魔核が悲鳴をあげる。琥珀めいた殻が茨棘のように裂け、幼生光が暴れだす。
その光が頬を撫でた瞬間、幼い頃の自分が脳裏に閃いた。
親指ほどの小さな私が、誰かに「かわいいね」と頭を撫でられ、ただそれだけで世界を赦せる気がしていた頃。
胸骨が痛い。
でも同時に、あの掌が囲った檻を今も憎んでいる。
「かわいさは嗜虐だ」
呟きがマイクを通し拡散され、双月の軌道まで届くような錯覚。
心愛が微笑む。傷だらけの唇が、硝子の破片を咥えるみたいに震える。
「じゃあ、壊せ。ゼロから∞へ」
私は杖を掲げ、魔核へ直線を描く。蒼黒火が奔り、空気が悲鳴をあげる。
刹那、封龍が吼えた。獣なのか楽器なのか判別不能の轟音が夜織を裂き、観衆の残骸が宙へ舞う。
巨大な翼骸が展開し、私たちを風断面で切り裂かんと迫る。
「腕貸せ!」
私は心愛の手を掴んだ。
リボン羽が白孔雀の尾のように広がり、風圧を削る。
亡霊少女たちが私たちの周りを衛星軌道し、悲鳴音で封龍の視界を攪乱。理屈ではない、情緒の暴走だ。
胸のリボンが溶断し、私の首筋に火傷。だが痛覚は甘い。
掌と掌が触れあい、血と汗が入り混じる。匂いは鉄と甘藍、そしてかすかな沈丁花。
「行くぞ」
「共犯だもの」
私たちは同時に地を蹴り、龍の咆路へ突入。
杖を突き立て、リボンを鞭に、短剣を針に。
魔核へ届く。汚濁と欲色が混ざった光球。
「可愛性値、リセット」
刃が光へ沈み、杖が共鳴する。
世界が一拍、無音になった。
◆ 後の世界
再生ボタンのような朝日が地平を押し広げ、新しい影を街に伸ばす。
瓦礫の帝都は砂絵のように静まり返り、空には∞の紋だけが薄白く回転している。
私は喉を撫でた。黒曜のリボンは無い。代わりに紅の痕が残り、潮騒のように痛む。
隣で心愛が欠伸。「生き延びたね」
声はかすれ、けれど甘い。
私は街を見下ろす崩塔の縁に腰掛け、小石を落す。石は無限大の影を引いて落ち、無音で砕けた。
〈リピート?〉
頭の奥で合唱隊が低く問いかける。
私は笑う。歯茎から塩辛い血が滲む。それでも、もう甘い鉄の味はしない。
「リピート。だけど次は私たちの拍で」
心愛が頷き、孔雀の羽根だったリボンを風に解かす。布は雲雀の鳴き声を拾って空へ昇り、朝陽の中で虹に透けた。
可愛さの呪いは終わらない。
だが、指揮者は奪い返した。私たちの声で、再生ボタンを押し続ける。
──ゼロから∞へ、輪唱は続く。