第10話 襲月オペラ・リグレット
藍墨の夜空に一条の裂け目が走り、そこから欠けた双月の破片が雨粒めいて海へ降り注いだ。雫は水面に触れる刹那、《歌劇船》へと姿を変える。漆黒の船体には十六のバルコニー席が並び、鎧戸の隙間から漏れる仄紅い光が波に祇音を刻む。
香坂 美流久――私は甲板の手すりに掌を置き、汗で湿る黒曜痕を撫でた。火膚の熱が脈を打ち、心臓の鼓動は船のエンジンとずれるたびに変拍子を奏でる。
〈後悔は甘い? 苦い?〉合唱隊が頭蓋でハミング。
「両方噛み分ける。呑み下せば毒でも、歌えば薬だ」
バルコニーが開き、面隠歌手たちが姿を現す。仮面に彫られた口は笑い、目は哀しみの涙を琥珀で固めたかのよう。彼女らの声はリリカルなアリアへ溶け込み、聴く者の胸に眠る悔恨を蒸留する。
桜井 心愛は孔雀翼を半展開。蒼紫の羽弁が船灯を受け虹を孕み、しかし肩傷の痛みが背筋へ電流を走らせる。
「少しだけ……怖いわね。あの声、過去を引き裂く刃だもの」
私は短剣の柄をぎゅっと握り、黒曜痕の熱で正気を繋ぎ止めた。「声は奪わせない。奪われたら、奪い返すだけだ」
船首に建つ硝子の舞台が白光を放ち、面隠歌手たちのオペラが開幕する。
――第一幕〈告罪〉
私たちの名が織り込まれた歌詞が夜風へ散り、首輪を巻かれた日々の映像が帆綱の影に投影される。血の匂い、焦げた甘藍、沈丁花……胸骨の獣鈴が悲嘆の拍を刻む。
心愛の翼が虹鎌へ変わり、一息で三枚の仮面を斬り裂く。蒸留しかけた後悔が蒼紅の霧となり、甲板を彷徨う。
白鷺 珈平は声を持たぬまま、胸の音刻紋を淡光で震わせた。無声の鼓動が霧を吸収し、私の耳にうっすらと檜の優しい匂いを届ける――「まだ立てる」と。
――第二幕〈嘲笑〉
面隠歌手は私の影を舞台へ引きずり出し、黒曜の首輪を再び締めようと歌い上げる。影の私は鉄鎖を引きずり、泣き笑いで「かわいいですか」と繰り返す。
〈影ごと抱け〉合唱隊が命じる。
私は光糸を影へ投げ、刃でなく抱擁の輪を作った。自分の喉痕を撫でると同時に影の首輪を外し、影が泣き崩れた隙へ心愛が虹鎌を叩き込む。
――第三幕〈解放〉
仮面がすべて剥がれ落ち、歌手たちの顔は空洞。そこから真珠色の涙が溢れ、甲板に落ちた途端声種子へ変わる。
私は胸骨で二拍、心愛が「ゼロから――!」と叫び、珈平が音刻紋で「――∞へ!」と鳴く。
歌種子が虹光に爆ぜ、船は静かに沈み始めた。オペラは終わり、後悔の匂いは潮へ書き換えられる。
水面へ落ちる前、私は振り返った。硝子の舞台には誰もいない。ただ薄緋のカーテンが風に揺れ、観客のいない喝采を受け止めていた。




