第9話 鼓動測地
暁前、かすかな橙が東雲を染める頃。私たちは虚聲海を渡る真珠航路の地図を描くため、珈平の銀糸を水平線へ投げた。糸は脈を打つたび淡光を放ち、海流・風向・温度、そして可愛性値の濃淡を座標に変換する。
「拍で地図を描くなんて前代未聞ね」心愛が笑う。肩傷はまだ瘢痕を滲ませるが、孔雀翼の色彩は夜明けを映して鮮やかだ。
私は黒曜痕を撫で、海図に浮かび上がる空無礁――“存在しない島”を見つめる。その輪郭はまるで心電図の停止線。
「可愛性値が自律して作った無響の塊。あそこを越えないと次の航路は書けない」
小舟で島へ近づくと、砂浜が私たちの影を吸い取り黒首輪へ変質した。自らの過去が具象化し、刃を向ける試練。《自己解剖》――影を斬れなければ拍は進まない。
私は短剣を逆手に構え、影の私と対峙した。彼女は黒曜の首輪を巻いたまま、甘い嗤いで喉を裂き、血を真珠胎に注ぐ幻を見せる。
〈贖う?〉合唱隊が問う。私は舌で歯茎を割り、鉄味を己に戻す。
「贖うんじゃない。上書きする」
短剣を光糸へ変え、一拍遅れで影を貫く。同時に心愛の虹鎌が私の影へ交差し、珈平の銀糸が二つの影を束ねて島の核心へ縫い付ける。
「ゼロから――!」
「――∞へ!」
光と虹と銀が共鳴し、黒首輪は白い砂へ還元された。島そのものが海霧に溶け、代わりに海図には空白の円環が刻まれる。そこは“自由水域”――誰の首輪も届かない座標。
私たちは胸骨で新しい拍を鳴らす。獣鈴が空白を渡り、海風が小節線を引く。
「準備は整ったわ」心愛が微笑む。その瞳には双月の欠片も、灯台の残火も、方舟の炎も映っていない。ただ次の襲月歌劇へ向かう意志だけが煌めく。
珈平の音刻紋がリズムを跳ね、私は舵を取り直す。波は再び鼓動を帯び、海図の空白は無限大の記号へ変わった。ゼロから∞へ――“存在しない島”の不在そのものが、新たな航路の標となる。




