第7話 無声円環
夜と朝のあいだにひそむ灰蒼の瞬間、私たちは方舟の残骸が撒き散らした虹泡を踏みながら、海上に漂う無音帯へ舵を切った。水平線に近づくほど風は痩せ細り、波は拍動を忘れた臓器のように凪いだまま。
やがて水面が楕円に歪み、中心部へ向け吸い込む渦が現れる。そこは《|無声円環》――音を喰い、沈黙を増幅する結界。白鷺 珈平の胸に刻まれた音刻紋が淡光で応え、結界と同調して脈を速めた。
〈怖い?〉合唱隊が蝉声のように囁く。私は首の火膚を撫で、鉄砂の味を舌に呼び込む。
「怖い。でも拍は止めない」
結界へ足を踏み入れた瞬間、鼓膜が内側へ凹み、肺が空気を忘れた。呼吸は音にならず、心臓の鼓動は胸骨の奥で空振りする。桜井 心愛の孔雀翼が羽音を立てたはずだが、世界は無音――いや、無音だけが“音”として支配する。
珈平の音刻紋が脈を跳ね、彼の喉から淡い光が噴き上がる。沈黙を吸った光は結界の縁をなぞり、私たち三人を円環の中心へ導く。そこに吊るされていたのは時音鐘――音の亡骸を鎮める監獄の鐘。
鐘守を務める漆黒の影が現れ、手足ではなく長く裂けた“口”で私たちの拍を盗もうと迫る。声なき世界で戦うには、自分の内に鳴るリズムを武器に転じるしかない。私は短剣を骨導管へ変形し、鼓動を刃へ送り込む。
心愛の羽根は虹鎌となり、色だけの刃が無音の空気を裂く。しかし斬撃は吸い込まれ、影はひときわ深い黒へ沈む。
〈左零拍〉合唱隊の指示。私は骨導槍を時音鐘へ突き立て、珈平の音刻紋と共鳴させる。刹那、鐘の内部で無音が飽和し、沈黙そのものが爆ぜた。
音無き轟音――世界が反転し、私は自分の心拍を“聞いた”。コツ、コツ。小さいけれど確かな拍。
影は輪郭を刃のように伸ばして最後の襲撃を試みるが、心愛の孔雀翼が朧の虹で包み込み、珈平の銀糸がそのまま時音鐘へ縫い留めた。
「ゼロから――!」私の口は無声。だが胸骨で鳴ったビートを心愛が「――∞へ!」と輪唱し、影は光も音も残さず崩壊した。
結界が割れ、一滴の雫が弾けたように世界へ音が帰った。波が、風が、心臓が、名もない鳥が、同時に鳴き始める。
珈平の唇が震え、空気を求める。ただ洩れたのは声ではなく、木立を駆け抜ける木霊のような吐息。けれど十分だった。彼の拍が私たちの拍と重なり、獣鈴が新しいリズムを刻み始める。
円環の水面には虹色の輪が浮かび、一拍遅れて蒸発した。




