第4話 双月蜃気楼
海昏む宵、水平線に浮かぶはずのない双月が二つ、互いの輪郭をかすかに撹ぜ合わせながら昇ってきた。うち一つは明らかな幻――可愛性値が海面で凝縮し、光の皮膜となって映し出す蜃気楼。それでも月光は胸骨の奥深く、かつて首輪で締め上げられた鼓動の痕へ冷たく浸みてくる。
「映るのは“かわいい”に憑り付かれた心。その虚像を放っておけば、また首輪を鍛える連中が寄って来るわ」
桜井 心愛が囁き、肩傷を庇う指先で孔雀翼を広げる。蒼紫の羽弁が月光を返すたび、沈丁花と焦げ鉄の様な匂いが混ざって夜気を染めた。
幻月から滴る光は水面を飛沫に変え、少女の輪郭を持つ鏡面人形を次々孕む。彼女らは見る者の影を身に纏い、その人間が抱く「かわいい」の形を奪い取る寄生体だ。
私は短剣の柄を撫で、火膚の痕を指で確かめる。
〈恐怖? 甘露?〉頭蓋に棲む合唱隊が輪唱。
「両方だ。でも味わう余裕くらい、こっちにある」
私は光糸へ姿を変えた刃を投げ、鏡娘の胸に突き刺す。鏡面が砕け、映っていた“私”の欲望が鉄臭の蒸気になって夜空へ溶けた。
だが蜃気楼は消えない。白鷺 珈平の銀糸が軌跡を描き、幻月と潮流の位相を解析。彼の喉はなお沈黙したままだが、檜と油の匂いが《了解》を告げる。
「月の根を断ち切る」
心愛が羽根の輪郭を鋭角に研ぎ、私たちは三拍で跳躍。
夜空に高く投げた銀糸は蜃気楼に触れた瞬間、裂け目となって月影の核を露出させる。そこには海中から膨れ上がった声凝晶――少女の声が固化した結晶――が脈動していた。
「ゼロから――!」私が叫び、心愛が「――∞へ!」と輪唱。珈平の銀糸が核を縫い留めたところへ、私の光糸が雷鳴めいて突入した。
結晶が砕け、蜃気楼は月華を散らして崩落。残った“真の月”はわずかに欠けながらも、静かな青を取り戻す。
しかし胸骨の獣鈴は告げていた。幻月の破片はまだ海を漂い、次なる災厄の導火線になると――。




