第6話 輪転ノクターン/序奏ゼロ
地下最深──《転声輪転機》。蒸気機関車の心臓部を思わせる巨大ローラーが六基、赤黒い油膜を滴らせながら回転し続ける。ローラー間の隙間には少女の声帯から抽出された可愛性値インクが流れ込み、淡紅の軌跡を刷りつけている。その匂いは焦げた飴細工の甘さと、失神寸前の酢酸が混ざった様な胸焼けの香。
心愛が孔雀翼を半ばしか展開できずに膝をつく。肩傷は裂け肉が覗き、焦げた肉と沈丁花の匂いが絶望的な甘さで混在した。「可愛いを刷らせたら、また首輪が……。でも珈平を——」
珈平は喉の奥を押さえ、声にならない声で首を振る。彼の走査虫も罐の破裂で半数が焼失し、残る銀糸は震えながらも輪転機のローラーに絡みつく座標を描いていた。
〈拍を贄に〉合唱隊が私の頭蓋で輪唱する。私は頸の火膚をなぞった。そこに残る鼓動こそ、私が未だ所有している数少ない“資産”。奪わせないためには──差し出すしかない。矛盾が甘い毒で喉奥を満たす。
「私の拍を輪転機の逆相インクにする。ローラーを“白紙”で上書きするんだ」
声が震え、心愛が顔を上げる。「それじゃあなたが——」
「生き延びるさ。でも世界が首輪だらけなら、拍なんて死んだも同然だろ?」
私は短剣を地へ突き立て、刀身を骨導管へ変形。刃を通して自分の心拍を輪転機のリズムへ同期させる。骨伝導で流れ込む鼓動はローラーの地鳴りと混ざり、内臓を共振で揺さぶった。
瞬間、ローラーが悲鳴のような甲高い金切り音を上げる。インクの流路が逆流し、淡紅が蒼黒へ変調。焦げ飴の様な匂いが冷たい錆臭さへ塗り替えられた。
心愛が孔雀翼で気流を操り、インクを撹拌して散らす。銀糸がその旋回を補助し、《逆相結界》を形成。珈平の喉が白く光り、ひときわ大きな脈動が輪転機を殴った。
ローラーのジョイント部へ亀裂が走る。私は拍を送り込み続け、骨導管を通じて感じる鼓動がだんだん他人のもののように遠ざかるのを認識した。意識の端で合唱隊が囁く〈消える?〉。私は舌の裏で血を潰し、鉄味を最後の錘に保って答える。「消えない。転写するだけだ」
最終ローラーが破砕した。淡紅インクが蒼黒の霧になり、天井の蒸気管から吹き出す高圧蒸気がそれを拡散、《星雲》のように工場天蓋を染めた。可愛性値が溶けた雲は一瞬虹を孕み、次いで透明なガラスめいた粒子となって落ちる。首輪の素材は完全に“無害化”された。
気づけば私は膝をつき、心愛の抱擁に支えられていた。耳鳴りの彼方で珈平が咳込み、檜と油の様な匂いが弱々しく漂う。それでも確かに、生きている。私の拍は──胸を探ると、おぼろげながらコツコツと新しいリズムを奏でていた。失われていない。印刷を拒絶し、自己帰還したのだ。
ローラーが崩れて生じた穴から朝の薄桜が差し込む。瓦礫に撒かれた透明粒子が光を散らし、無数の∞の影を床に描く。私は首の痕へ手を当て、そこに残る火膚の熱を確認する。「指揮棒は折れた。けど拍は……私たちの中で続く」
珈平が声にならない笑みで頷く。心愛が孔雀翼を高く掲げ、残った血を払う。羽根は朝日を透かし、虹色の刃を垂直に切り裂いた。「リピートじゃない」彼女が囁く。声はかすれ、けれど甘い。「ここからは——序奏」
私は立ち上がり、瓦礫の上で靴底を二拍鳴らす。獣鈴が胸骨で小さく震え、それに続けて合唱隊が微かなハミングをうつ。ゼロから∞へ、私たちの輪唱はまだ始まったばかりだ。朝靄の匂いが焦げ飴の残り香を薄め、遠くで崩れる塔の影が新しい拍に合わせて静かに揺れていた。




