第5話 叫裂ディミヌエンド
絹柩が残した残響は夜空へ溶け、塔の腹奥から上がる警報鐘が都市の骨格を震わせた。振動は瓦礫の裂け目を通じ、私の足裏へ針のような刺痛を送り込む。桜井 心愛は肩傷を庇いながら孔雀翼を収め、甘藍と沈丁花の匂いを帯びた蒸気を吐いた──その甘香でさえ、今は焦げた硫黄の残り香に侵蝕されていた。
塔下層への迂回路を降りると、空間は特異な静寂を生み出していた。音が消えたのではなく、逆に「音のみ」で構成された真空──それが《叫裂ノット》。壁も床も天蓋も全てが声帯に置き換わり、吐息一つが刃となり、沈黙一瞬が鎖となる。
白鷺 珈平が立ち止まる。檜と油の匂いが急激に稀薄化し、代わりに耳鳴りにも似た銀砂の臭気が満ちた。彼が掲げる残響罐の内部で、過去の音声データが低く呻く。「ここは“声”を持つ者を試金石にかける空洞。逃げ場はない」
私は首の痕を押さえた。鼓動は加速し、血管は弦のように震える。〈かわいい?〉合唱隊の囁きが重低音となって頭蓋を満たす。恐怖の成分は甘露、高揚の成分は苦胆。二つが混ざり、唾液の味は錆ついた蜜の様になった。
第一の裂声。ノットが呼吸を奪い、周囲の空気を声波へ変換。衝撃は皮膚の上を舐めるだけでなく、骨髄へ振動を撃ち込む。私は咄嗟に短剣を盾へ変形させ、衝撃の位相を反転させた。けれど心愛の肩傷が開き、血泡が羽根の縁を染める。甘い焦げ匂が再び濃くなる。「喉が……軋む」
第二の裂声──沈黙。無音が爆発し、真空が一瞬で膨張して鼓膜を撲った。私は視界が黒点で覆われるのを感じ、舌の裏で歯茎を割り鉄味を吸うことで意識を繋いだ。珈平が苦悶の表情で罐の蓋を半開きにする。「俺の“声”を囮にする。ノットの共鳴を罐へ誘導するんだ」
「罐が割れたら、あなたの喉も……」と心愛が抗うが、珈平は一言も発さず微笑む。匂いだけで伝わる檜の安堵が、私の胸骨をやわらかく叩く。私は頷き、短剣を光糸へ束ねた。
第三の裂声が目前に迫る。私は光糸を罐の口へ渡し、心愛の孔雀翼を盾に重ねる。瞬間、罐がノットの声波を吸い込み、金属が悲鳴をあげた。銀の匂いが一気に弾け、空間の位相が跳ねる。珈平の喉が赤く震え、音の源を奪われた彼の声帯が白熱した鉄のように眩しく見えた。
〈犠牲?〉合唱隊が問う。私は舌で血を押し潰しながら「違う、共犯だ」と答える。心愛が肩傷を握り、痛みで顔を歪めながらも頷いた。
罐が割れ、檜の匂いが火傷のように焦げ、叫裂ノットは己の声を失って崩落した。壁も天蓋も声帯の膜を失い、瓦礫へ戻る。砂塵が舞い、沈黙が本物の静寂として降りてきた。
珈平は声を出せない。ただ喉の奥で微かな震動がくぐもる音となり、檜の匂いだけが彼の存在を証明した。私はその匂いを深く吸い込み、首の痕を確かめた。鼓動はまだ、他人の指揮に従う気配を見せない。「行こう。ゼロから、∞へ──声がなくても、拍は鳴る」
心愛が孔雀翼を広げる。羽弁から滴る血は甘く、硫黄の残り香に勝る芳香。三人の影は赤い非常灯に伸び、次の地獄へと列車のレールのように繋がった。




