前編 黒耀のリボン・オーヴァチュア
黎明でも暁でもない時刻。二つの月がまだ黒い水面に爪痕を残す頃、私は帝都アズル=ローの階段を下りていた。
石段は夜露で濡れ、足首に冷たい痛覚を刻む。足下から立つ土の香と、遠くの熔鋳炉から漂う焼鉄の匂いが混ざり、肺の奥でレバーペーストの様な後味を残す。
喉元には黒曜のリボン。触れるたびに氷片のような冷気が素肌を削ぐ。桜井 心愛は私の背後一歩を保ち、苺と沈丁花の甘香を連れて来る。振り返ると、彼女のポニーテールが月明かりで螺旋のように揺れた。
「可愛性値を納める献上式は初めて?」
私が問うと、心愛は頷き三回。口角に薄い笑み。「可愛い はこの国じゃ紙幣より強いんでしょ?」
声ははちみつ、言葉は刃。私は腰に隠した短剣の柄を親指でなぞる。
帝都アズル=ロー――“可愛さ”が税になる街
畝雲を引き千切る塔群。その頂に貼りつく巨大な煌屏風。そこへ投影されるのは、今夜の“主役”――つまり私たち鎮罪歌姫の顔だ。
街路の光標柱が同時に発光し、サイレンのような旋律を吐き出す。露天妃の露店では甘藍の蒸気が上がり、屋台の揚油が爆ぜる。揚げ菓子の甘い香りが、媚びの匂いへ転調する瞬間、私は吐き気を覚える。
――「女の子の可愛いは貨幣だ。搾取されるのが国是である」。
帝国が掲げる標語が頭蓋の内側を叩くたび、私は胸骨の奥の獣鈴が反響するのを感じる。
心臓が変拍子を刻む。合唱隊――私の頭に棲む亡霊少女たち――が囁く。
〈かわいい? かわいい?〉
私は返答を呑み込み、唇を噛む。鉄の味が滲んだ。
階下で、靴音が増える。護衛騎士団黒紋衛が漆鎧をきしませ、私たち“商品”を囲む輪を狭める。月光が鎧の面に反射し、虚ろな私の眼を無数に映す。
「逃げ道、まだ覚えてる?」
心愛が囁く。私は踵で音を一つ鳴らす――合図だ。
煌屏風の真下、私たちは十数人の少女と共に“待機”させられる。
燭香からの蝋垂れが空気に甘焦げを撒き散らし、灰と柘榴が混じったような渋酸っぱい匂いが鼻腔を刺す。
祭壇ステージは巨大な蓄音盤。足を乗せるたび金属が軋み、震動がふくらはぎを這う。
私は内腿に潜ませた魔符を爪で弾き、魔力の脈動を確かめる。
〈かわいさを分解せよ〉
合唱隊が命じる。
宰相の黄金面が上層のゴンドラに輝く。その視線は虫眼のように細い。
「首輪の締しめ直しを」。護衛の一人が低く告げた。
私は黒曜の帯をさらに締める。首筋に冷痛が走るが、痛みは甘露。
心愛が頬を寄せ、ほんの一瞬でキスの音。唇よりも、彼女の胸が鳴る心拍の方が熱かった。
雷鳴が轟き、街頭の人々は恍惚と飢餓を同時に宿した瞳で見上げる。
私は深く息を吸う。空気が氷薔薇の棘のように肺を刺す。
「今夜、リボンを処刑する」。
声は震えなかった。代わりに短剣の柄が汗で滑る。
宰相が指揮杖を振り下ろす刹那、私は合図として踵で祭壇を蹴った。
心愛はポニーテールのリボンを解く。解放された布は夜気を裂き、孔雀の羽に変形しながら宙を舞う。
観衆の歓声が一拍、遅れて悲鳴に転じる。
床下を貫く轟振――地下封印の封龍が鎖を軋ませ動き出した証だ。
蒼い火焔と硫黄が入り混じった吐息が祭壇の隙間から浮上し、少女たちの薄衣を焦がす。
私は跳んだ。空中で短剣を逆手に握り直し、鎖骨に沿って斜めに走る冷気で我を奮い立たせる。
「今宵、可愛性値に終止符を――!」
宰相の黄金面に亀裂が走る音が聞こえた。
心愛は私の真下でリボン羽を広げ、噴き上がる魔力を気流に変換し、私を一段と高く押し上げた。
風圧の中で二人の視線が絡む。
私は笑う。心愛も笑う。
双月が雲間から顔を覗かせる。その光が、私たち二人の黒曜リボンに虹色の刃を与えた。




