おもちさんと脱出
賢者たっちが海外の可能性を無視したのは「転移の限界距離はおよそ1000km」という定説と、公式非公式噂話のどれにもそれ以上の記録がないから。なのはその当たり前を推察して、だから心に引っ掛かったみたいね。体温ほかに誰も居ないのに、少し声を潜めてカウンター越しに身を乗り出す。
「転移の魔道具ってバカでかくて魔力燃費悪いじゃない? 小型化に成功して同じ魔力消費の設定だったら暴走するんじゃない?」
「安全回路を組み込むようアドバイスしましたよ?」
「確認はしたの?」
「事前の小規模実験で間違いなく。おもちさんは独立させても問題ないレベルですし、最近の納品分も半分近くが彼女の仕事でしたけど問題なかったでしょう? だから今回の実験前は確認していませんが、まさか?」
「うっかりてへぺろであの子の右に出る者を、あたしは知らないわ」
「「くしゅん!!」」
遠く離れた地で、あなたとおもちが同時にくしゃみをした。
「ゲスどものお部屋が並んでいまふわ。気を付けて下さいまひ」
「おもひさんこほ。鼻水出てうひ」
あなたは突っ込みながら小脇に抱えたおもちと自分の鼻を拭いた。
あなた達が今いるのは砲台が並ぶ空間で、等間隔にある操作員の詰所らしき小部屋を避けながら、砲台の陰から陰へと慎重に移動しているところ。砲口を突き出す木戸の向こうの波音が聞こえるくらい隙間風があるから、厚手の上着でもないと寒いでしょう。
「私はきっとぱいせんが噂したのですわ」
おもちは未発見の身体が綿やテイッシュに包まれているため寒さを感じないそう。あなたはチラッとおもちを見下ろして、視線を戻した。
「あたしは風邪気味なのかなー」
「それだと私だけがうっかりくしゃみした様なニュアンスですの」
「寒くないならうっかりじゃん。波の音で消えただけだから気を付けてよね」
おもちがムッと頬を膨らませた。
「ふむ。密着してるからわかるのですけど」
思わせ振りな言葉にあなたはジト目で見下ろす。
「なによ」
「ちーちゃんの体温も脈拍も呼吸も脇の匂いも全部正常ですわ」
「んなっ!? 匂いなんてしないもん! セクハラだよえっちーーー!!」
あなたは思わず叫んでしまい、小部屋の扉が一斉に開いた。どこだ、砲台の陰を探せ、と声が聞こえる。
「この状況で叫ぶのは予想外でしたわ」
「えーえー、うっかりしていましたとも! 片棒担いだも同然のくせしてなに冷静にコメントしてんのっ」
その会話を遮るような声が、遠くから聞こえる。
「いたぞ!! 3番の陰だ!」
「あら。見つかったみたいですわぁ」
「しらっじらしい! もーーっ! 走るからね!!」
文句を言いながらでもおもちを置き去りにしようとしないあなたを、おもちが目を丸くして見上げていた。
制約の儀によって結ばれただけの絆は、緊急時に強制力が発動する。本能的に自分を守ろうとするからなのだけど、この期に及んでその気配がないことに驚いているの。
「ちーちゃん……あなたって子は」
「なに!? あとで聞くから! 舌噛まないように気を付けてね!」
おもちは自身に重量軽減の魔法をかけていて、あなたにも体力向上の魔法をかけていた。戦闘の心得があれば切り抜けられるほどに。だけど、おもち自身が全ての魔法を修めたハイエルフ。この程度敵にはならない。そしてあなたを巻き込みたくない。だから。
「敵が多すぎますわ!! 私を投げなさい! 魔法で」
蹴散らしますわと言いかけた瞬間、強制力が働くのを感じた。あなたは離す事を拒否したけれど、わずかなラグの後にそうしなければという意識になった。
「なんか知んないけどわかった!!」
あなたはアスリートをはるかに上回る身体能力を発揮して、理想的なフォームでおもちを投げた。
閉じられた木戸に向けて。
「そぉおおおじゃないですわああああぁぁぁぁ!!」
絶叫の尾を引きながらバコーンと木戸を突き破るおもち。
魔力操作で抵抗する間もない速度だった。
「ん? 違うの? どゆこと?」
木戸の吹き飛んだ穴から差し込む日差しが、まるで光の道の様に床を照らしている。
そこを、あなたは駆け出した。
「え? なになになに!? どゆことおおおおおおお!?」
勝手に動く体に逆らう間もなく、穴から外へ身を踊らせたのはすぐだった。
賢者たっちは、なのの言葉に大きく頷いて飛行船含む全ての港に人を送ると約束した。
「ところでなのさん。私に緊急依頼が来ています」
「それとあたしになんの関係が――まさか!?」
――ズドン!!
いきなり振るわれた巨大なメイスがカウンターを破壊しつつ賢者たっちを正確に捉え、木製の床に埋まった。
「あたしが捜索に出向かないよう捕まえに来たのね?」
「……ちっ、これだから脳筋痴女は」
床下からの辛辣な台詞とともにメイスが持ち上げられて、よいしょ、と穴から出てきたのは勿論、賢者たっち。
「違ってたらどうするんですか。死んじゃうところでしたよ?」
「あなたは死なない気がするけど」
「正気ですか?」
短く問われて妖しく笑うなのの瞳が、水色からピンクに変わる。
「もちろん正気よ。だけどそうね、たっちを討伐《●●》するならあたしはメンバーに選ばれるかもね。ためしに王宮へ出向いてあなたの正体を明かして来ようかしら」
それが何を意味するのか。
賢者たっちから表情が消え、2人の間に緊張が走る。
「この手は使いたくなかったのですけどね」
たっちの手がふわりと舞い、なののメイスが振るわれた。
――ズドン! ドン!
たっちが躱し、それを追って再び振るわれたメイスだけど、三度目は振りかぶったところで止まって――なのはたっちが翳したものを凝視していた。
「!? なっ! どうしてそれを!?」
「誰も手離さないA先生のプレミア作品。なのさんが喜ぶと思って手に入れたのですけど」
「あなたの正体は墓まで持ってくわ」
「そうですか。それは良かった」
なのはメイスを仕舞い、やけに厚みの少ない冊子を受け取って満足そうに微笑んでいるけれど。
「今なのさんに離れられるのは国の損失ですから」
ひゅっ、と風音が鳴り、たっちの横にメイスが現れた。遅れて風がぶわっと吹き抜ける。
「たっち。それとこれとは話が――」
「B先生の個人本を入手する伝手があ「――もちちは強い子よ。運もね。あの子を信じてここで待つわ。もちちがんば!」
メイスが消えて右手が差し出され、たっちは冊子を渡した。
「いい取引が出来ました。今後もよろしくお願いします」
「ええ、もちろん。ずっと友達で居ましょうね」
たっちがくすりと笑い。
「まるで私が振られたみたいに言わないで下さい。傷付くじゃないですか」
「あら。そんな感情を持ち合わせていたの?」
「無いですね」
「だと思った」
なのもニッコリ笑った。
平和に事が運んで、たっちはいつもより弛んだ頬を引き締めないと、考えてしまうほどに安堵している自分を客観視する。もう少し荒れるかもと覚悟していたから、逆にこれで良かったのだろうかと気になってしまうのでしょうね。
大丈夫。
冷静になればなのにだって分かるはず。
賢者たっちが弟子入りを認めた5年前、おもちは既にAランク冒険者として登録されていた実力者だったのだから。
たっちは会釈すると。
「それでは、私もおもちさんの豪運を信じていますので、お互い余計な心配はしないようにしましょう」
自分に言い聞かせるみたいに言った。なのがじっと見つめて、ふと笑う。
「ま、もちちを1番心配してるあたしだけど、1番信じてあけられるのもあたしだからね。大人しくしててあげる」
「その言葉が聞けて安心しました。月単位で空けるのでなければ普通に冒険者活動をして頂いても構わないですよ」
「太っ腹な条件ね。最初からそう言ってくれたら良かったのに」
なのは修復の呪文を唱えた。
それだけで破壊の痕跡は無くなり、「うん」とひとつ頷いて直したばかりのカウンターに手をつく。その指がタタンっと表面を叩いたのを、たっちは見逃さなかった。
(相当我慢して頂いているのですね)
心のなかで呟いて。
「反応が可愛いからですよ」
憎まれ口を叩いたけれど、なのは肩をすくめるだけで何も言わなかった。