第22話 百腕の刺胞動物
ユウトは、これが現実だとは受け入れたくなかった。魔獣などよりも、よほど戦いたくない相手だ。
倍に膨れ上がったヘリトミネは、エクジースティとは比べものにならないほどの強敵だった。
ユウトの顔めがけ、正面から斧が振り下ろされる。どうにか盾で防いだユウトだが、その直後に低空を矢が飛んできて、右すねに刺さった。ちょうどそこは、腰鎧とブーツのどちらにも守られていない弱点だ。
「うああぁぁぁぁ!」
あまりの痛さに怯むユウト。そこに槍と剣が左右から襲い掛かる。思わず右の槍を盾で防ぐも、左の剣には注意がいかなかった。左腕を剣で斬られてしまう。血が噴き出し、盾を持つ手がじんじんとしびれる。
「のあっ……くぅぅ! あぁぁぁ……!」
苦しむユウトにハンマー、斧、槍が次々と攻めてくる。ユウトはみたび盾で防ごうとしたところ、左腕に力が入らない。斧が頭に当たり、鎧の上から腹をハンマーで殴られる。
「うあっ……」
ユウトは地面に倒れ伏した。彼の前で大きな顔をニンマリとさせて勝ち誇るのは、百本以上の触手を持つイソギンチャクのヘリトミネの巨大な顔。厚化粧をした目に、たらこ唇が笑っていた。合計8つもの武器を扱い、盾も持っている。
「どうしたの? 全然大したことないのね。失望したわ、弱すぎる。ラヴァール様は容赦するなとおっしゃったし、ここで終わらせてあげようかしら」
ヘリトミネはそう言って、触手の中に隠していたさらなる得物を出してくる。武器だけでなくホウキやチリトリ、鍬にピッチフォーク、けん玉に羽子板など武器ではないものも含め、全部で30本。その姿はまさに動く要塞だ。
ユウトは、『絶対に嫌だ』と心の底から思った。こんな気持ち悪い見た目で性格も悪いイソギンチャクに殺されるなど、絶対に嫌だ。歯を食いしばって立ち上がり、剣を握る手に力を込める。
「のおぉぉあぁぁ!」
技名を言う余裕などあるはずもなかった。自分でも何を言っているかわからない声で叫びながら捨て身で走っていき、ヘリトミネの顔の中央に剣を思い切り突き刺した。感触はきわめて柔らかく、豆腐でも刺しているかのようだった。勢い余って、ユウトは彼女の顔の中に埋まってしまった。全身に負わされた傷がその衝撃で悲痛なまでに叫び、騒いだが、悲鳴を上げるより早くヘリトミネがわめいた。
「ああぁーーっ! 痛いじゃないの、やったわね!」
彼女が声を発するのに合わせて分厚い唇がくねくね動いて、未だ矢の刺さったユウトの脚をひどく刺激する。しかしそれでもイソギンチャクの身体は本当に軟らかくて、触手と顔のもぞもぞした変な感触は嫌だが、それ以外は気持ちいい。とても高級なベッドに寝たらこんな感じなんだろうかと思った。
――いや、そんなことを考えている場合ではない。一矢報いはしたものの、ここからどうすればいいのだろう。
「ちょっと、やめなさい! いつまでそこにいるの!」
ヘリトミネが叫ぶ。同時に何かがコツコツとユウトの背中に当たってきた。どうも、彼女が剣か何かで反撃を試みているらしい。いかに大量の武器をもっていようとも、ユウトの鎧を貫通することはできないらしい。そうか、とユウトは手ごたえを得る。長い触手を持っている敵も、至近距離まで詰めてしまえば有利に戦えるのか、と。ユウトは剣を横に動かす。柔らかい肉に亀裂が入っていく。
「あぁ! 痛いじゃない、私の顔が! 許さないわよ!」
またもぞもぞと唇が動く。ユウトは自身の身体が沈み込んでいくのを感じ、『勝てる』と思った。
しかし、そう思ったのも束の間。
ガン! と、交通事故を思わせるような打撃音がして、頭に激しい衝撃が走る。そして、目の前が真っ暗になった。何が起きたのか、わからなかった。
少し時間が経ったか、そうでないのかもわからないが――彼の目が開く。すぐ前にぬらぬらとうごめく多くの触手があった。
触手? ヘリトミネだろうか。だが、彼女の顔が見えない。何かがおかしい。どうやら、地面にいるヘリトミネを見下ろしているらしい。そして、自分は触手でヘリトミネの頭上に持ち上げられていることに気づいた。もがこうにも一切けない。そもそも、意識があいまいで身体に力が入らない。
そして彼の視界はゆっくり移動した。目の前には、崩れた顔。斜めの切り込みが刻まれていて、そこから水が染み出していた。イソギンチャクの傷からは血ではなく、水が出るようだ。そんなことを感じる間もなく、その崩れた顔は言った。
「ユウト。わかってるわよね? 私の顔をこんな風にして。あなたとはゆっくり愛を語り合いたかったのに、もう終わりよ」
「あぁぁ……?」
意識のもうろうとした彼には、ヘリトミネの言った意味を完全には理解できなかった。
ユウトの前に、一本の触手が赤いハンマーをぶら下げる。そのハンマーは全体が赤く染まっているだけでなく、下端から同じ色の真っ赤な液体が滴っていた。
「確かに私の緑青の武器は強いけど、それでも一発頭を殴られただけで動けなくなるなんて、人間って本当に弱いわ」
ヘリトミネに言われ、ユウトは気づいた。ハンマーを染める赤は頭を殴られて付着した彼自身の血だったのだ。それで背筋が凍り、一気に目が覚める。しかし目が覚めたところで、口をぱくぱくと動かすのが精一杯だ。声を上げられず、逃げることもできない。
「結局、あなたは弱かったんだわ」ヘリトミネは言う。「ラヴァール様の弟子になったりしないで、私とじっくり愛を育むことさえできれば、あなたは幸せになれたのよ。でも、それは叶わない。あなたと私は、戦うさだめ。そして私が勝ち、あなたは今日ここで死ぬさだめなの」
ユウトの顔はますます青ざめていった。どうにかして逃げられないかと彼は自分を捕まえている触手を見た。両足首が2本の触手で捕らえられているが、そこへ手を伸ばすには逆さ吊りされた上体で身をそこまで起こさなくてはならない。そんな体力は残っていなかった。もう終わりだ、と彼は認めることすらしたくなかった。
しかし、次の瞬間。
「……って、あら。あいつら何? あなた達は! きゃああー!」
ヘリトミネの悲鳴が聞こえた直後、突然ユウトの身体は宙を舞って、そして地面に落ちた。痛みで目が開かない。何が起きたのかもわからないまま、彼が次に聞いたのはパフィオの声。
「ユウトさん、大丈夫ですか!」
駆け寄る音が聞こえ、ユウトは抱え上げられた。
「こんなに怪我だらけで……」パフィオの涙声を聞き、ユウトは目を開けた。ぼやけた視界いっぱいに、パフィオの顔が見えていた。
背後からヘリトミネの声がする。
「パフィオ! あなた、何をするの。これは私とユウトの愛を育む時間よ! 邪魔するのね!?」
ユウトは地面に降ろされた。ユウトは意識が飛びかけているが、それでもどうにか、彼女のほうへ首を向けた。パフィオがヘリトミネと向かい合っているところだった。
「ユウトさんにひどいこと、しないで下さい!」
パフィオがパンチを打って、ボフ! と音がした。布団を敷く音に似ていた。
「がっ」短く悲鳴を上げ、ヘリトミネは後ろに倒れてしまった。触手の持っていた武器がガチャガチャぶつかり合って地面に落ちる。普段は地面と接していて見えない、黄色い板のような足盤という部分がはっきり見えている。
「痛っ、い……じゃないのーっ!」ヘリトミネはなおも武器をガチャガチャいわせながらもがくが、起き上がれないらしい。
「わたし、本当は戦いたくないんです。でも、あなたがひどいことするなら、戦います!」
パフィオは涙声でヘリトミネをもう一度殴る。
「ああっ……! やるのね、だったらやってみなさい。私も頂点の――どはぁ!!」
パフィオはヘリトミネの口上が終わる前に蹴り上げた。高く上がった脚がイソギンチャクを空高く飛ばす。ユウトを追い詰めた怪物は全身の武器をまき散らしながら、クルクル回って触手を振り乱し、どこか遠くへ飛んでいった。
「かっ、だほあぁぁー!」と、気の抜けるような悲鳴を上げて。
戦いは終わった。
その場に、風が流れる音だけが残った。ユウトは顔をわずかに上げて、飛んでいくヘリトミネをただ、ボーッと見ていた。
――強い。
それが、ユウトが抱いた感想だ。あんなに苦戦して、殺されそうにまでなったはずのイソギンチャク。その強敵を、パフィオはいとも簡単に倒してしまった。
レサニーグとアキーリで過ごした異世界の日々で、ユウトの心には自信ができていた。エクジースティを倒せるすごい冒険者だと毎日のように称賛されたことで、この世界なら誰が相手だって勝てると信じて疑わないまでになっていた。それが、人殺しだの悪人だのと根も葉もない噂で疎外され続けたアキーリでの生活で支えになったのだ。矢掛にいた頃とは違う、この世界でならやれる、と。
その自信が、今日一日で崩れ去った。
頂点の弟子はエクジースティをひとりで何体も相手にできるし、てんとう虫のチェレッカは『あんなので苦労するのは弱い奴だけ』とまで言い放った。そして、自分はといえば頂点の弟子に勝てず、逆にパフィオはそれを一蹴してしまった。ではパフィオがそんなにも強いのかといえば、そうではないのだろう。スカーロという種族が強いのだ。彼女の故郷はそんな種族ばかりが暮らす国だという。パフィオは戦いを好まない優しい女性だから、きっと彼女より強い者がそこには掃いて捨てるほどいる。
異世界に来ても、一緒だ。ここでも自分という存在は、なんら特別ではないのだ。それを実感させられたユウトは、何も考えられず、倒れたまま、ただ風にそよぐ木の枝を見ていた。
パフィオが歩いてくる。
「ああ……」命を助けてくれたパフィオに、意識を失いかけているユウトは感謝の気持ちひとつ言えなかった。仮に無傷でも、緊張で言葉が浮かんでこないだろうが。
「ユウトさん、ああ……どうして。本当にひどいです。こんなに大怪我して、言葉も話せなくなっちゃったんですか」
「え……あ……」
複数の人物が走ってくる音が聞こえる。
「ユウト!」ミスペンの声だ。
「あっ、ミスペンさんとターニャさん! ユウトさんの回復をお願いします!」
ミスペンが近づいてきた。ユウトは瞬く間に痛みが引き、どんどん楽になっていく。
「ユウトさん、大丈夫でしょうか。言葉が話せなくなっちゃったみたいなんです」パフィオはまだ涙声だ。
「何? 頭をやられたか?」
「いや、あの……大丈夫です。喋れます」ユウトは答えた。
「ああ、よかった……本当に」パフィオはさめざめと涙を流した。
ユウトははっきりしてきた視界で彼女を見て、なお一層言葉にしがたい感情になった。どうして、彼女はこんな自分のために泣いてくれるのだろう。背も低くて頭も悪い、会話も面白くなくて、そして大して強くもない、こうして何もできずに負けて無様な姿をさらした、こんな人間に。
ターニャはその間、すねた様子で腕を組み、そっぽを向いていた。