第15話 クリーム煮
家の中に入ってみると、非常に高い天井と、テニスコートが入りそうなくらいの奥行きが目を引く。それ以上に目を引いたのは、正面の眼下、玄関付近の床がちょうど人の形に陥没していたことだ。向かって左にはしっかりと木の床が張られていたが、右に広がる空間、つまりちょうど先ほど増築された部分は土の広場となっていた。パフィオは広場の中央にある石のベンチにちょこんと座り、泣き崩れていた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……本当に……」
テテがそばで慰めている。「もう、いいって。この家、ちょっとの間しか使わないんだから」
ボノリーが楽しそうにユウトとミスペンの前まで来て、今しがた起きたことを説明してくれた。
「あのねー、パフィオ、家に入ったらすぐ床壊しちゃったんだ。その後転んじゃって、転んだとこの床が全部壊れちゃった」
「もう! 言わなくていいの!」とテテ。
「パフィオさん、怪我なかったですか?」ドーペントが心配する。
「怪我はないです。丈夫なので。でも……ごめんなさい……」
「いやー、でもこれしばらく休憩要るわ……マジで……」テテは木の床の上に倒れ込んだ。
「テテさん! 大丈夫ですか?」ドーペントは、今度はテテの肩をマッサージする。
「出発してすぐこれって……キツくない? 家、崩れないよね。補強したほうがいいかな……」
「ねー、ご飯ご飯ー!」クイは翼を広げたり足でステップを踏んだりして、テテにアピールする。
「だから、休憩させてって言ってるでしょ」
この家は広いには広いが、まるで小さな体育館のような雰囲気の建物だった。窓もほとんどないし、部屋もつくられていない。あるのは今全員がいる、だだっ広い木と土の広間だけ。あくまで簡易の休憩所らしい。パフィオが角をぶつけただけで家全体がぐらつき、踏んだだけで床を壊してしまったことも示唆するように、決して丈夫ではない。長時間使うのは危険だろう。
「ミスペンさん、ターニャさんは大丈夫ですか?」ドーペントはテテのマッサージをしながら、同時にターニャも気遣っている。
「もうすぐ普段の調子に戻るだろう」
ミスペンはこの家の隅に寝かせたターニャのすぐそばで、彼女に手のひらを向けている。ターニャは全身を緑色の淡い光で覆われながら、少し居心地悪そうにしていた。
「うわーい! おでかけー! おでかけー!」
ボノリーがぴょんぴょん跳ねまわっている。全員疲れているので、数人は彼女の様子を少し鬱陶しそうに見ていた。
「あんた、なんでそんな元気なの?」
「んー? テテは、木か草かでいったら、コケだね」
「そんなのどうでもいいから。あんた、パフィオに運んでもらってたでしょ」
「あ、そういえばそうだね」クイがボノリーの近くに来る。「どうしたんだろう。急に元気になったのかな」
「うーん。忘れた!」
「忘れたんだったらしょうがないね!」
「あんたって何にも考えてないようで、そういうとこ意外と器用なんだね」
そんな会話に加わることもなく、パフィオはまだ土の広場の真ん中で申し訳なさそうにうつむいている。そしてユウトはといえば、家の端から彼女を遠巻きに眺めていた。話すチャンスが何度もあったのに、まったく成果を挙げられなかった。会話は噛み合わないし、周りのアリーア達が取る無邪気な言動がどうしても妨害になってしまう。
彼の中には昨日まではなかった迷いが生じていた。確かに会話は噛み合わないが、噛み合ったとしても果たして――。少し彼女と話しただけで、予想を軽く超えるインパクトを持つそのキャラクター性の片鱗が見えてきたのだ。これからどうするべきかと自問するも、答えにたどり着けずにいた。
すると、彼のもとにミスペンが来て、近くで耳打ちする。
「ユウト、何してる? 彼女を独りにさせるのか?」
「その……ですね」ユウトはミスペンと目を合わせられない。
「どうした?」
ユウトは迷った末、「ちょっと」と言ってドアを手で示す。ミスペンは彼に連れられて家の外に出た。
テテが急造した大きな家を見上げながら、2人は話を始めた。
「あの、ミスペンさんはパフィオさんのこと、結構知ってるんじゃないですか?」
「私が?」
「はい。結構喋ってますから」
「そうでもないぞ。彼女のことを知りたいなら、本人から聞けばいい」
「ああ、はい……」
「こうやって私を連れ出せるなら、それと同じことをパフィオにすればいい。何回も言ってるが、積極的に行かないと何も手に入らないぞ」
ユウトは少し迷ってから、ミスペンに訊いてみる。
「わかるんですけど、ちょっと、どうしたらいいんだろうって思ってます」
「ほう?」
「少し話はしました。で、パフィオさんのことは少しわかりました」
「何か問題が?」
「色々あります。あの人、ちょっと変わってて」
「ほう」
「まず、魔獣のことを『さん』付けで呼んでますし」
「あの子は優しい。確かに、我々と行動をともにするのは彼女にとって、つらいかもしれないな」
「ミスペンさんは理解できるんですか? 魔獣って、あんな気持ち悪い見た目なのに……あんなのと仲良くしたいなんて、俺はちょっと、理解できないです」
ミスペンは「そうか」とつぶやいた。何か、深く考え込むようにうつむく。
「それと……」
「なんだ?」
「好きな食べ物が、なんか、聞いたことない変な料理なんです」
「どんな?」
「それが、ハム、かき氷……クリームソーダ丼っていうんです」
「どういうもんなんだ、それは?」
ミスペンには想像もつかない。料理名の半分以上がミスペンの故郷にない言葉で構成されているからだ。
「だから、その……辛い物と甘い物を一緒にしてるんです。絶対まずいと思うんですけど……」
「ハムのクリーム煮か?」
「いや、それだったらよかったんですけど」
ミスペンが発した言葉はとても美味そうな料理だったから、ユウトは『今すぐにでも食べてみたい』と思った。そしてパフィオにも食べてもらいたい。そうすれば、きっとかき氷とかクリームソーダを使った料理のことは忘れてくれるんじゃないだろうか。
「まあ、詳しくは訊かないでおくが……ユウト」
「はい?」
「はっきり言っておこう。そのぐらいで惚れた女を諦めるな。振られたわけでもないだろう?」
ユウトは複雑な表情になった。あのパフィオの反応は、ほぼ振られたに等しい。少なくとも、同じような告白は当分できない。しかし、ユウトとパフィオの会話については気まずい雰囲気ぐらいしか知らないミスペンは、『こいつ、また細かいことで悩んでるな』と感じ、念押しする。
「あんないい子はなかなかいないぞ」
「それは……はい、まあ……」
「人間のような見た目の奴が滅多にいないのに、あんなに優しくおっとりした子に会えたのはほとんど奇跡だ。あの子を諦めるというなら、もうターニャしかいない。それでいいか?」
ユウトは「あぁ……」と苦しそうな声を漏らす。
「何が不満なんだ?」
「いや……だって、今んとこ全部うまくいってないんで……。もし付き合えても、まずい飯ばっか食べるのも嫌だなぁって」
「お前……」ミスペンはユウトをしっかりと見据え、詰問するように言った。「現実を見ろ。お前は自分の強さをどのぐらいと思ってるか知らないが、少なくともこの世界では最強じゃない。ラヴァールぐらい強いなら女も選び放題だろう。だが、お前の動きはあいつとは雲泥の差だ」
このミスペンの指摘は、ユウトにはとても衝撃的だった。
「俺、……ラヴァールには、勝てないですか?」
「絶対に無理だ」ミスペンはすげなく言い切る。「さっき顔を合わせたろう? あいつは、あれだけの手下を連れ歩いて、偉そうな顔をするだけの力を持ってる」
ユウトは何も言い返せなかった。出発前にラヴァールが見せてきたあの気迫とにらみは、単なるこけおどしではなく、相当な強さに裏打ちされたものだという。だがそれだけでは納得できず、ミスペンに詳細を確かめる。
「ミスペンさん、あいつが戦ってるとこ、見たんですか?」
「見た。ターニャが一発で倒れてたぞ。しかも、ラヴァールは武器すら抜いてない」
「武器すらって? どうやって」
「拳で、一発だ」
ユウトは開いた口が塞がらなかった。ミスペンを疑うわけではないが、それでも信じがたい。あんな背の低い奴にそれほどの力があるはずが……。
「……ターニャさんが弱いんじゃないですか?」
とカマを掛けたユウトに、ミスペンは再び言い切る。
「あいつも、お前よりは強い」
「まさか! 俺……この世界じゃ、結構強いつもりだったんですけど」
「なら、町に着いたら適当な棒でも用意して、手合わせしてみるか? あいつは構えと武器の振りだけでもお前より筋がいいぞ」
ユウトの頭は、『まさか』という言葉でいっぱいだった。ターニャのことを内心下に見ていた彼は、どんなに口で勝てなくとも、雰囲気で圧倒されようとも、強さを見せれば立場逆転できると思っていたのだ。何も言えないユウトに、ミスペンは続ける。
「私に言わせれば、お前もターニャも、真正面で顔を合わせても互いの強さがわからない程度の使い手でしかない。腕に覚えがあるなら、あんな気迫の奴に噛みつくような真似は命取りだとわかるからな。だからラヴァールにあれだけ食ってかかったんだろう? あれはヒヤヒヤしたぞ」
「……すいません」
「今は強がったりしないで、パフィオと付き合えるように頑張れ。少しくらい我慢できるだろう? お前が合わせてやればいい。あんな優しい子、私は会ったこともない。あの子はお前のことも、誰のことも否定しない。私は目に浮かぶぞ。お前がどれだけやってもない罪で責められようが、あの子はずっと味方でいてくれるだろう。お前のために、文句も言わず毎日家事もやってくれるだろう。だから、あの子が魔獣と仲良くしたいと言うなら、お前が冒険者以外の稼ぎ口を見つければいい。家も、壊れないような丈夫なのを建てればいいだけだ。あまり完璧を求めると、それこそ後悔するぞ」
ユウトはミスペンの説得に圧されつつ、それでも彼に言ってやりたかった。『食べられるのか?』と。クリームソーダに肉やご飯が浮いている料理を、嫌な顔ひとつしないで食べられるのか? それは彼にとって、『少し我慢』してできる範囲に含まれているのだろうか。もしそうなら、見せてほしいところだ。
ユウトが得心していないことは、その顔からミスペンにはよくわかっていたので、彼は話を替えた。
「そもそも、お前がパフィオに惚れた理由はなんだ?」
ユウトはこれに対しても答えなかった。彼の照れた目つきと紅潮した頬が代わりに拒否していた。
「見た目か? 恥ずかしがらなくていいぞ。この世は見た目がすべてだと思ってる奴がほとんどだからな」
「……誰にも言わないですか?」
「私が、人の大事なことを言いふらして楽しむような下衆な人間に見えるか?」
「……わかりましたよ。パフィオさんは、その……完璧なんです」
「ほう?」
「完璧に、俺の好きな見た目っていうか……」
「あの角と尻尾も含めてか?」
「さすがに、種族は人間のほうがいいです。角と尻尾があると、ちょっと怪物っぽさが……」
「それは本人が聞こえるとこで言うなよ」
「いや、それはさすがにやらないです」
「なるほど、わかった。それなら、なおさら緊張しないで喋れるようにならないと、あの子はお前のものにならない」
「どうやったら、緊張しないで済みますか?」
「何回も喋ろうとするしかないんじゃないか?」
そう、ミスペンは困り顔で答えた。彼らしくない、実に適当な答えだ。女性の扱いに長けたミスペンも、意中の人と喋れるようになるための処方箋などは持っていないらしい。
「あんまりお前が不甲斐ないようなら、私がもらうぞ。これは冗談じゃない。だから、チャンスは逃すなよ」
そう言って、ミスペンは家に戻っていった。
俺がやるのか――そう思うと、ユウトは途端に緊張してきた。何度話してもうまくいかないのに、どうやってモノにしろというのだろう。
ユウトは震える手で、家のドアを開けた。パフィオのもとへ行こうという決意を固めながら。しかし――大きなオレンジ色の物体がユウトのほうへ転がってきた。
「おい……!」とっさに、両手でボノリーを受け止めた。
「うわぁ! ユウトだぁ!」
「お前、なんだよ?」
「ボノリーは転がっただけだよぉ」
そう言って、オレンジ色の果物は家の中に走っていった。改めてパフィオを探すと、石のベンチの上で座って人と話していた。彼女が話している相手は、ミスペンだった。
「おい……」
ユウトはミスペンをにらみつけた。あんなことを言っておきながら、さっそくパフィオを狙っているのか。もういい――ユウトは失望して、怒りとともに確信した。最初からミスペンはパフィオと付き合うつもりでいて、自分にはそれを実現できないことがわかっているから遊ばれていたのだろう、と。苦しいが、パフィオを諦めることにした。ブーツを脱ぐと部屋の隅へ行き、あぐらをかいた。
「ムカつく……あー、ムカつく」
ターニャの声が聞こえる。彼女はユウトの少し離れた場所で床に座って、何かに腹を立てながら籠手を外していた。鎧は自力では脱げないようだが、無理に独りで脱ごうと頑張っている。この時ばかりは、ユウトは彼女が自分の気持ちを代弁してくれているような気がした。
「ん!!」ターニャは突然声を発した。背中がつったようだ。床に寝そべって、小さくうめきながら動かない。「ぐっ! う……」
ドーペントはテテの世話を切り上げ、ターニャのほうに寄ってくる。
「ターニャさん、大丈夫ですか? 手伝いましょうか?」
「いい……」
「いいんですか? 何か、病気ですか? ミスペンさん呼んできましょうか」
バサバサとクイが飛んでくる。
「何、何? ターニャ、なんで寝てるの?」
「ターニャさん、病気みたいなんです」ドーペントがクイに言った。
「えーっ! 大変! ミスペン、来て! 回復して!」
「要らない! 要らないって、どっか行って」ターニャが苦しそうに、大声で追い払おうとする。
「病気じゃないんですか?」
「違う!」
ターニャは痛みが終わったのか、起き上がる。
「あっ! ターニャさん、よかったです」
「だから、どっか行ってって言ってるでしょ……」彼女はまだ少し苦しそうだ。
一方、ミスペンは助けを呼ぶ声を聞かないで、代わりにユウトを手招きした。
「お前――」
ミスペンが喋り始めるのとほぼ同時に、ユウトは問いを向けた。
「あの、結局パフィオさんと話してますね」
「ああ」
「やっぱりミスペンさんは、パフィオさんを狙ってるんですか?」
「ん? いや、お前とパフィオをなんとか引き合わせたいと思ってたんだが」
「じゃあ、どうしてミスペンさんが? なんか、結局いっつもミスペンさんがパフィオさんと一緒にいるから……」
「お前、何か勘違いしてるな」
「勘違い?」
「私がパフィオとふたりきりで話す状況を作っておかないと、余計な誰かがパフィオと話し始めるだろう? 今、仲間は全員この家の中にいる。お前がパフィオを連れて外を歩けば、誰も邪魔しない」
ユウトはハッとして、ミスペンを疑ったことを後悔した。
「じゃあ、行け。私は誰も家から出ないように、うまくやっておこう」
ユウトは途端に緊張し始めた。これからパフィオと話さなくてはならないのだ。そう思うと、まだパフィオを前にしていないのに、目が泳ぎ、言葉もぎこちなくなってしまう。
「ありが、とうござい、ます」
「大丈夫か?」
「……はい」
ミスペンはユウトの背後に回り、手で彼の背中を突く。それでユウトはパフィオに向け、歩き始めた。まるで、ミスペンに背中を押されたその勢いだけで歩いたかのような気持ちだ。
「あ、ユウトさん」パフィオはユウトを見上げた。
「あっ、あっ……えー……と」
やはりユウトは緊張して言葉が出てこない。今日だけで何回目だろう。もう、周りで見ている仲間も笑い始める頃ではないのか。そう思うと、なお一層言葉が出づらくなった。
「どうしたんですか?」
「えーと……その……」
「ユウトさん、どうしてそんな風に喋るんですか? 普通に喋っていいですよ」
「あの……えーと……外に」
「ごめんなさい、聞こえなくて」
パフィオは立ち上がり、ユウトのすぐ前まで顔を近づけてから横を向いた。
「もう一回言って下さい」
ユウトは紫色の髪の間からのぞくパフィオの耳を、至近距離で見ることになった。彼はさらに緊張して、倒れてしまいそうだった。するとパフィオの後ろから、にゅっとボノリーが姿を現して、ユウトは跳びあがりそうになった。
「どうしたの? パフィオ。なんで横向いてるの?」ボノリーがパフィオに訊く。
「はい。ユウトさんの言葉が、聞き取れなくて」
「あれ? ユウト、顔真っ赤だね。どうしたんだろう」
「あ、そうですね」パフィオはユウトのほうを向いた。至近距離まで耳を近づけている状態で彼のほうを向いたので、キスでもしかねないくらいの距離で、彼は固まった。
「ユウト、どうしたのー?」ボノリーが抱きついてくる。『今だけはやめろ』と叫びたかった。
ここで、ぐらぐらと家が揺れ始める。
「あれ?」
「なんだろう?」
「なんか、家、揺れてない?」
外からドンドンと音がし始めた。音は次第に激しくなってくる。
「うわぁ、音がでかい!」
「魔獣だ! 魔獣が外からぶつかってきてる!」
「えーっ!? 嘘でしょ、魔獣は町を襲わないでしょ? 家の中にいたら大丈夫だと思ったのに!」
家の中のリラックスした空気は一変し、ユウトはパフィオと話すどころではなくなった。またしても、彼はチャンスを逃したのだ。壁際でそれを観察していたミスペンは、小さく溜息をついた。