第7話 味覚
告白失敗でユウトの心が折れたことにより、パフィオとの間に気まずい沈黙が続いていたが、ユウトは気合いを入れて再び勇気を出した。
「えっ……えーと……」小さい声ではあるが、どうにかパフィオに尋ねる。「グランダ・スカーロって、どういうとこだったん、ですか?」
「グランダ・スカーロ帝国は、楽しいとこでしたよ。友達もいっぱいいましたし、みんな優しいです。でも、わたしにはちょっと合わなかったみたいです」
「えっと、どうして?」
「色々あって。お母さんはわたしに、早く結婚しろって言うし。お父さんも、早く嫁に行って孫を見せろって言うし……つまんないですよね、こんな話」
「いや、いや」
「そうですか?」
「つまらなくは……ない、です」
「そうなんですか。なら、よかったです。こんなこと、話す相手もいないんですけど――」
パフィオはそう前置きして、身の上話を続けた。
「グランダ・スカーロからどうしても出たかったんです。でも、国から出る方法がわからなかったんです。村には、誰も通れない洞窟があって。狭い洞窟なんですけど、ちょっと頑張って抜けました。そしたら……知らないとこにいました。それが、アリーアの人達の国だったんです。……あれ? 国でもないんでしょうか。よくわかんないですけど、スカーロはこっちにはいないみたいです」
「そうなんですか……」
「故郷に帰りたくなることもありますけど、帰るのは難しいですね。こっちに来た時から、もっと背が大きくなっちゃいましたから。きっともう洞窟は通れないですね。中で、はまってしまいそうです」
「はい」
グランダ・スカーロの簡単な紹介を済ませると、今度はパフィオは、ユウトに故郷の話題を振ってくれる。
「ユウトさんは、どんなところの出身なんですか?」
「俺、矢掛っていうとこです」
「ヤカゲ……? それって、どこにあるんですか?」
「岡山県です」
「えっ……それって、ヤカゲじゃないんですか?」
「えーっと……はい。岡山、です。で、矢掛です」
「あっ……それって、えーっと、どっちなんですか?」
緊張もあり、ユウトはどう説明していいかわからず黙る。パフィオは首を傾げた。重い空気が流れる。
まずいと焦るユウト。色々な地名を出すと理解されないのは既にこの世界に来てから経験済みなのに、うっかりしていた。こうして憧れの人を混乱させる前に、矢掛か岡山か、故郷を訊かれた時に答える地名を統一しておくべきだったと気づいたが、もう遅い。
しかしチャンスがなくなったわけではない。ちゃんと説明できなくとも、パフィオは彼の故郷に興味を示してくれた。
「どんなところですか?」
ユウトは脳をフル回転させて答える。
「えーっと、……そこそこ大きな町があります」
フル回転させたくせに、こんな平凡な答えしか出てこないなんて。ユウトは内心自嘲した。『そこそこ大きな町』といっても、それは彼の地元矢掛をピンポイントで説明するものではなく、岡山県全体についておぼろげにイメージしての話なのだ。これでは不十分だ。
「そこそこ?」やはり理解するのが難しいようで、パフィオは目を丸くしている。
「はい、そこ、そこ……」
「それって、ヴァリーダみたいな感じですか?」
「ヴァリーダ?」
「はい。私の故郷の村の近くにある、ヴァリーダという大きな町です。それくらい大きいんですか?」
「えーっと……」
初めて聞いた町と同じくらい大きいかどうかなど、わかるはずもない。だが、それでもパフィオの気をつなぎとめることに成功しているのは確かだと、ユウトは微かな手応えを得た。ヴァリーダがどんな町かわからないものの、どうにか彼は地元についてうまく説明しようと努力した。
彼はまず地元、岡山県小田郡矢掛町の風景を思い出した。しかし、思い出す限り――何もない。それがユウトの、19年住んだ町に対しての正直な印象だった。
実家の最寄りは三谷駅という、矢掛町の中心部から少し離れた場所にある駅だが、周辺は田んぼばかり。あるいは東西を横切る川があるとか、南北には山があるとかいう記憶しかない。三谷駅周辺を離れ、矢掛町中心部まで行けば、古い町並みが観光地になっている。ところが、そもそも歴史情緒に価値を感じていないユウトにとって、興味を持てる場所ではなかった。そのため、これもうまく伝える道が見えない。
矢掛について伝えることを諦め、周辺の町に焦点を移すことにした。倉敷、井原、笠岡、福山、岡山市内……。だが、どれも『そこそこ大きな町』以上の記憶が、今の彼の頭には一切浮かんでこない。
何も言えないとなると、パフィオの心を射止めるのは夢のままだ。焦りでどうかしそうになりながら、彼は紹介すべきものを絞り出そうとした。そして浮かんできたのは、いつも予備校に通うのに使った倉敷駅の建物だった。白い壁に、入口は赤く縁取られた丸いアーチが横にいくつも連なるあの駅舎。これしかない。
ユウトは倉敷駅について、「駅がまあまあきれいです」と、非常にざっくり紹介した。
「えきが、まあまあ……なんですかそれは?」パフィオはつぶらな目を、より丸くした。当然ながら、彼女は駅など知らない。
「駅は、電車が来るとこなんですけど」
「でんしゃ? それはなんですか?」当然、彼女は電車も知らない。
「乗るやつです」
「でんしゃっていう人がユウトさんに乗るんですか?」
このパフィオの予想外の答えに、ユウトは思わず「はっ? えぇっ?」と少し笑いながら訊き返してしまう。するとパフィオは、少しだけ困った顔になって「面白いんですか?」と尋ねた。
「あっ! すいません」
ユウトはしまったという思いでより緊張し、再び黙ってしまった。パフィオは少し困った顔をしているだけだが、ユウトは恥ずかしさと後悔で彼女の顔を見られなかった。せっかく自分の故郷という、うまくやれば盛り上げられそうな話題になったのに、結局パフィオを楽しませることもできず、あまつさえ彼女がせっかく返してくれた答えを笑ってしまった。
仕切り直そうにも、それ以上話を膨らませる材料がない。実のところ、ユウトは町や地域、そこに存在する名所、名物、文化、歴史、雰囲気といった概念に初めから興味がないのだ。普通の町も、ただの田舎と思われるような場所も、見方や掘り下げ次第で魅力を引き出せるものだが、彼にはそんな発想がなかった。
代わりに、彼は大事な道具がポケットに入っていたのを思い出す。
「ああ、いいものがあります」
「なんでしょう?」
ユウトはポケットに片手を突っ込み、黒い板を取り出した。ポリカーボネート製ケースで覆われた日本製通信端末。これがあればパフィオとの話題は無限に見つかるはず。しかし――ボタンを押しても何も起きない。そうだ、電池はとうに切れていた。なんてことだろう、どうして一番必要な時に!
パフィオは興味深そうに腰を少し屈め、黒い板に顔を近づけて「それは、なんですか?」と尋ねる。
近づいてきた憧れの人の顔に、これ以上ないほど胸を高鳴らせ、緊張でどうかしそうになりながらも「えっ、えーと、これはスマホです」と答える。
「スマホ?」
パフィオは距離をそのままに、ユウトの顔を見た。ユウトは少しのけぞりながら、「あっ、えーと……色々、できます」と答えた。
「色々できるんですか」
『色々』の中身を説明したいところだが、今のユウトには彼女に理解できるようにスマホの機能を伝えることはできない。電源がつかないのだから。
「でも、使えないです」彼は言った。
「使えないんですか? どうして?」
「電池が……」
「でんち?」
まただ。レサニーグの時と同じように、『電池』の説明が必要になった。どう言ったらわかってもらえるだろう? いや、そんな方法は思いつかない。
「えーっと……とりあえず、使えないです」ユウトは仕方なく、スマホをポケットにしまう。
「そうですか」
パフィオは残念がるわけでもなく、落ち着いた様子で答えた。そして屈めた腰を元に戻し、先ほどの位置に戻ってから、ユウトの顔をまっすぐ見つめてくる。楽しいとは到底思えないこの会話でも、彼女は嫌がったり馬鹿にしたりするわけではなく、まだユウトに興味を示してくれているらしいのは救いだが、つぶらな瞳がやはりユウトの緊張を持続させた。
それで――彼はなんとか、スマホ無しで会話を続ける必要に迫られた。話題に困った者が使える手段は多くない。
「え、えーっとその……」
「はい?」
「好きな食べ物、とか……」
この質問は、ユウトにとって最後の手段といってよいものだった。不思議な雰囲気を持ち、天然なところもある彼女だが、食べ物の話題なら必ずうまくいくだろう、それも無理ならどうしようもないとすら思っていた。しかしこれに対する彼女の答えも、また意外過ぎた。
「好きな食べ物は、ハムソーセージかき氷クリームソーダ丼です」パフィオはよどみなく答えた。
「……えっ?」ユウトはまさに、我が耳を疑うという行為をしなくてはならなかった。今までの人生でそんな経験などないし、生涯を通して一度も起きないだろうと思っていたのだが。
実際、彼女の発音スピードは速かったので、変な名前の料理でなくともうまく聞き取れない可能性は多々あった。にもかかわらず、それは耳を疑うような内容だったのだ。ユウトが聞き取れたのは『ハム』と『クリームソーダ』、そして『丼』だ。ユウトは、聞き間違いをしたに違いないと思うことにした。ハムとご飯とクリームソーダがひとつの皿の中に同居することなど、いくら異世界でもあるわけがない。
戸惑うユウトにもパフィオは落ち着いたもので、「はい」とすました様子で返した。何が『はい』なのかはよくわからない。
「……ハム?」ユウトは彼女の答えた料理の一部を繰り返して、自分の耳が正常かどうかを確かめることにした。しかし。
「ハムソーセージかき氷クリームソーダ丼です」
彼女は同じ言い方で繰り返す。ユウトは再び言葉を失った。今度ははっきり聞き取れたからだ。ハムソーセージかき氷クリームソーダ丼。本当にそんな名前の料理が存在するとは。
いや、まだわからない――ユウトは思った。名前は変だが、その正体まではわからない。まさか、名前に含まれているものを全部ご飯に乗せたもののわけがないだろう。頼むからもっとマシなものであってくれ、と彼は誰にともなく願った。
「あの……それって、どんな……」
恐る恐る、ユウトは尋ねた。そして、それまでと声色を変えず、落ち着いてパフィオは答える。
「はい。ご飯にハムとソーセージを乗せて、その上にかき氷とクリームソーダを乗せます」
ユウトは絶句した。のみならず、口を開けたまま思考停止した。本当に想像通りだった。どうしてそんな料理――いや、料理ともいえない代物が誕生したのだろう。なぜ、かき氷とクリームソーダをハムやソーセージと別にするという発想がなかったのだろう。そして、なぜそんなものが好物なのか。どうしてもわからない。
相手がそれほどの衝撃を受けていることに気づかず、パフィオは続ける。
「酒場でも出したいと思ったんですけど、店長に絶対不味いって言われて。出してくれなかったんです」
そりゃあそうだろう、とユウトは思った。アキーリの住民にどんな文句をつけられるかわかったものではない。ユウトは衝撃のあまり、頭がほとんど真っ白になっていた。
「どうしました?」
「あっ、えーと、いや……あー……」
ユウトは黙ってしまった。しばらくユウトとパフィオは、何も言わずに向かい合っていた。さすがの素朴で天然なパフィオでも、少し気まずそうな顔をしていた。ユウトの額に汗が垂れてくる。
「ハムソーセージかき氷クリームソーダ丼ですよ」
と、パフィオはまた繰り返した。三度目だ。心細そうな、あの上から上目遣いをしているような目つきになって、確かめるように言った。
「えっと、はい」いつまでも沈黙し続けるわけにはいかないので、ユウトは仕方なく、この謎の料理を掘り下げることにした。
「どっ、ど……どんな味なんですか?」
「美味しいですよ」
当然のようにパフィオは答えたが、そんなことはわかっている。美味しいと感じないなら好物じゃない。問題は、どうしてそんなものを美味しいと感じるかなのだ。具体的な味を訊きたくても、優しい彼女に対して表現を間違えると簡単に傷つけてしまいそうで悩む。
「あっ、あの……それは、どんな……」と、ユウトはあいまいな訊き方をした。すると。
「ご飯にハムとソーセージを乗せます。それから、かき氷とクリームソーダを乗せます」
パフィオはもう一度、変な料理の作り方を説明した。違う、それが訊きたいわけではないのだ。どうしたらいいのだろう? 思案していると、彼女に意外な問いをぶつけられた。
「あの、ユウトさん、気になってたんですが……」
「あっはい」
「どうして、わたしと話す時だけ、そういう喋り方なんですか?」
「えっ。いやぁ……」
「他の人と話す時みたいな感じでいいですよ?」
それができるなら、最初からそうしている。逆に、その方法を誰かに教えてほしいくらいだ。この喋り方でも駄目なら、もうどうしようもない。これ以上、彼には喋れそうなことが何もなかった。ユウトは地面以外に見られるものがなく、しばらく両者は黙ったままでいた。