第3話 ルチアーノ・フィジケラ
「ふんっ!!」
ターニャは3人から離れた深い林の中、大鎌で目の前のルーポを両断した。
それ以外のルーポも、「はっ!」と自分を中心にして水平にぐるっと一回転させ、倒した。
周囲の魔獣は一掃された。地面は魔晶だらけ。
これなら馬鹿にされることもないだろう。
「ふぅ……」
彼女は一息ついて額の汗を手で拭おうとしたが、籠手を着けたままだったので黒い鋼板が直接額にガチャンと接触した。
「痛っ」
今まで兜を着けて戦うのが当たり前だったので、汗を拭うのは戦いの後、鎧も兜も脱いでからだったことを思い出した。
仲間とともに戦っていた頃を思い出し、また、ターニャは涙する。
「みんな……。もうあたし、戻れないかも……」
哀しそうに一言つぶやくと大鎌を地面に突き刺し、近くの岩の上に座る。
「もし戻っても、処刑……? みんな……もう会えない……?」
任務中に行方不明になった者は無条件で脱走兵扱いだ。
脱走兵は敵に寝返ったとみなされ、処刑となる。
つまり、ミスペンだけでなく自分も、元いた場所に帰れば命はない。
しかしターニャは、望まぬ重責から解放されたミスペンとは違い、どうしてもかつての環境から自身を切り離すことができなかった。
少しの間涙していた彼女の顔は、ある時突然怒りを帯びる。
そして、その表情のままに言った。
「あいつさえいなかったら! あいつさえ消せてれば! そしたらこんなことにならなかった。ルチアーノ・フィジケラ……!」
実際のところ、あの日の出来事と自分が今ここにいることに関係があるかは一切わからないが、それはどうでもよかった。
今の彼女は、ある男への復讐心でいっぱいになっていた。
山深い獣道、漆黒の鎧に身を包んだ小柄な人物が大鎌を片手に潜んでいた。
豪華で雄々しい、装飾に富んだ鎧に身を包み、さらに頭には大口を開けて牙をむく野獣をモチーフにした、実に荒々しい造形の黒兜を被ったこの人物は、まさしく『手鏡』によって異世界に転移させられる前のターニャだった。
彼女がここに潜んでいたのは、ある男を討つためである。
それは名族の出でありながら敵軍に寝返り、その幹部となった槍の名手ルチアーノ・フィジケラ。
ルチアーノが単独または数人の手勢とともに、遠征先へと移動中だということが判明する。
裏切り者を抹殺するまたとない好機をものにするため、白羽の矢が立ったのがターニャだった。
彼女は尊敬する隊長直々の命を受け、標的が通ると予想された山へ出向き、待ち伏せしていたのだ。
場所は獣道で、周囲には草葉が密生する。
逃げ場はないはずだ。
木々は風を受け、これから起きる波乱をほのめかすかのように、ザワザワ、ガサガサと、騒がしく鳴いていた。
そしてついに複数の足音が遠くから聞こえる。
時を見計らい、ターニャは大鎌を手に彼らの前へと現れた。
ルチアーノは3人の手勢を連れていた。
手勢3人のうち2人は鎧を着ており、1人はローブ姿。どれも真紅の装備だが、目を引くのはそんなものではない。
この3人は、人間とは似ても似つかない姿をしていたのだ。
肌は黒褐色で、長くとがった耳を持っている。
そして、特異なのは彼らの下半身。
というより、下半身があるはずの場所には何もなかった。
彼らは宙に浮いていたのだ。
代わりに、空中にある彼らの腰からは真下に、絶えず黒い砂のようなものがパラパラと落ち続けていた。
獄卒と呼ばれる、謎の生物ども。
ターニャが属する国家が敵対している種族だ。
「刺客か!!」
「ルチアーノ様、ここは我々が!」
鎧を着た2人は武器を手に取り、ルチアーノを守るように前へ移動した。
ルチアーノは後ろからターニャに告げた。
「そうか、この場所で……。僕らを見つけたことだけは称賛するとしよう。だが、諦めて帰ったほうがいい。君独りでは決して勝てない」
ターニャはルチアーノの勧告を無視して襲いかかる。
ルチアーノの脇を固める大柄な女の兵士が「ドブネズミが!」と吐き捨てながら斧で大鎌を受け止める。
だが力負けして体勢を崩され、ターニャの鎌に腹を切り裂かれた。
鎧は見た目は強固だが、ターニャの大鎌の前には意味がなさそうだった。
「うっは……!」
斧の女は膝を屈し、横に倒れる。
紫色の鮮血が勢いよく、獣道の草を溺れさせた。
「ッの野郎ぉー!」
男はこの斧の女が斬られた直後、その後ろから剣を振りかぶりターニャの兜に一撃を加えた。
しかし兜を割るには足らず、少し傷をつけただけ。
「何っ……」
ターニャは大鎌で彼の首を狙う。
男はとっさに受け止めるが、こちらも力負けして自らの剣を顔に打ち付けられ、地に倒される。
「うおおあぁ……!!」
男の顔、中央に縦の長いラインが走った。
そこから血を噴き出させ、のたうち回る。
「がっ……あああ!!」
「テルヴィー、回復を」
ルチアーノは横のローブを着た獄卒に命令している。
「はいっ!」
顔つきの幼いテルヴィーの声は上ずっていて、返事をするのが精一杯といった様子だ。
ターニャは、心の中で歯を食いしばった。
『指示する余裕なんか見せるなんて、この男、本当に……』
彼の余裕が、ターニャに標的への殺意をより燃え上がらせた。
はっきり標的を見つめ、まっすぐルチアーノ・フィジケラへと走る。
しかし彼は、それを落ち着いてルチアーノは槍を彼女に向けた。
「ふんっ!」
ターニャの大鎌を、ルチアーノの槍は涼しい顔でいとも簡単に受け流した。
「独りでは勝てない、と言ったはずだ」
彼の瞳には同情すら宿っていた。それがターニャを怒りに駆り立てた。
「んああぁ!」
ひるむことなくターニャは大鎌を振り上げる。
だが、ルチアーノは一言「晄鵬紫炎槍」と発した。
直後、彼の槍先から、爽やかな水色をした力の波動がまっすぐ放たれる。
「うぅ、ぐ……っ」
ターニャは動きを止められた。
少しずつ後ずさっていく。倒れないでいるのが精一杯だ。そしてルチアーノは次の技を繰り出す。
「諦めないようなら仕方がない……晄鵬紫嵐襲」
槍先から竜巻が出現し、ターニャを空中に浮き上がらせる。
「うあぁぁーっ!」
竜巻によって木々よりも高く、空へと浮かされたターニャ。
きっとこれで終わりなのだろう。だが、彼女は『恐怖などない』と強く念じていた。死ぬことなど怖くない。ただ、隊長の信頼に答えられなかったことだけが悔しいと。その直後、彼女の視界は真っ白になる。何も聞こえなくなり、先ほどまでの竜巻によって浮かされている感覚もなくなった。しかし地面にいるとも思えない。身動きは取れないし、言葉を発することもできない。
そして――彼女は尻餅をついて、硬いものの上に落ちた。そこは屋内で、目の前には紫色の布で全身を覆った、片腕と片目のない男。彼女が何か獄卒の罠にでも掛けられ、この場所に入れられたのだと推測するのは無理もないところだった。そして、目の前にいる男がルチアーノ同様、獄卒の手先なのだろうと考えることも同様である。
ターニャは森の中で昨日起きたことを振り返り、怒りに震えた。
「裏切り者……ルチアーノ……。絶対に許さない。この命に代えても! あいつの、あいつの首を取ってやる。そうすれば……きっと、隊長も許して下さる……はず……」
彼女は歯を食いしばった。獄卒に寝返った裏切り者というだけではない。まったく歯が立たずに敗れた相手という個人的な恨みもあり、そして何より、隊長から倒すよう命じられながら、それに失敗したということが彼女にとって最も許せなかった。何があっても、あいつだけはこの手で討たなくては。
ふと我に返り、目の前に視線をやる。周りに立つ木々の向こうで、緑色の何かが動いていた。カエルのドーペントだ。耳を澄ませると、ミスペンやユウトも含め、3人で話している。雷の剣がどうとか聞こえる。ずいぶんと楽しそうだ。
「あいつら、どうしたらいいんだろ」
ターニャはしかめ面でつぶやいた。今更、仲良くしてくださいなんていう態度で近づいていく気にもならない。かといって、こんな変な世界で、自分ひとりになったところで何をしたらいいかもわからない。どうすれば、ルチアーノと戦えるのだろう。いや、今は元いたところに戻る方法もわからないのだ。
もし今の自分を隊長がどこかで見ていたとしたら……。カエルなんかと一緒に宝石集めてる場合じゃないと怒られるだろうか。
涙ぐんで目をしばたかせた。隊長に日頃から掛けてもらった言葉を思い出す。『自分の正体を隠す兜を命よりも大事に扱え』と、何度も指導されたのに。
「すごく怒るだろうなー……。兜、なんでなくなっちゃったんだろ……」
しばらくの間、ターニャは泣き続けた。ドーペント達に聞こえないよう、声を押し殺して。
やがて彼女は地面に転がるたくさんの魔晶が気になった。思い出したり泣いたりしている間に魔晶同士がくっつき、魔晶珠も2つできていた。これらを近くに放り投げたカバンにひとつひとつ入れていく。ドーペントが魔晶を入れるためにと貸してくれた、古いボロボロのカバンだ。
ふと手を止め、魔晶をひとつ拾い上げて眺める。澄んだ結晶と、中で燃え続ける炎。お金として使われているらしいが、そんなことをしないでずっと持っておきたいくらい美しかった。
「きれい……。これ、持って帰れたらいいんだけど」
ターニャは仲のよかった戦友の顔を思い出す。
「ミナリア、こういうの好きだったな……」
今、目の前に彼女がいたら、いくらでもあげるのに。魔獣を倒せば簡単に手に入るんだから、明け暮れるまで一緒に魔晶集めを楽しむことだってできる。だが、望みが叶うのであれば他にも会いたい人は何人もいる。どうして、独りになったんだろう。
ここで突然、誰かの悲鳴がする。
「わぁぁーーっ!」
「いやーーーー!!」
どちらも幼い声だと思った直後。ガサガサ音を立てて黄緑と橙のふたつの物体が、林の間を動くのが見えた。後ろから、「グゥオアァァァ」と魔獣らしきものの声がする。ターニャは大鎌を抜き、数歩後退して様子を見た。
林を抜け、小鳥の体形だがサイズはダチョウのように大きい鳥と、もうひとり、葉を大量にまとったオレンジ色の楕円形の物体がターニャの横に現れた。
鳥は頭から背、翼にかけて黄緑系の色で、首の下は黄色に近く、翼は緑色、腹は白。くちばしと瞳は黒で、目の周りが白い。最大の銀色の首輪をしていることで、中央に青い宝石がはめ込まれていた。どこかで見たような気がする。
一方のオレンジ楕円は、頭に小さな半開きの、白い花が数多く飾りのようについている。胸から下は、凸レンズに似た長い葉を横にいくつも張り合わせ、スカートのようにした服を着ている。
この不思議なふたつの生物はターニャの横に止まり、互いの無事を喜んだ。
「いやー、よかった。森の奥から出られないと思ったけど、出られたねー」
「逃げ切ったねー」
「じゃあ酒場に行こう」
「さんせーい」
ふたりが横を向くと、大鎌を両手にムスッとして立つターニャを発見した。2人は叫ぶ。
「うわぁーー! なんか昨日いた人間だぁぁぁ!!」
「きゃーーーー!! こんなとこにーーー!!」
そして、ふたりの後を追い魔獣が林を抜けてきた。
「うわー、魔獣ーー!!」
「逃げ切ってなかったーーーー!!」
2人は逃げ場を失い、近くの急坂から落ちていった。鳥は途中の大木にぶつかり、そこで止まった。オレンジ楕円は丸い身体のため木に当たっても止まることなく、坂をゴロゴロと転がり、ユウト達がいる下の平地まで落ちていった。
狙っていた相手が目の前から消えたことで、魔獣はターニャに狙いをつける。ターニャは焦ることもなく大鎌で斬り、消滅させた。さらに後ろから、続々と別の魔獣が走ってくる。
「どういうことよ!」
不満を吐き出しながら、一匹、また一匹とルーポ、ウールソ、またルーポ……魔獣の行列を斬り続けた。魔獣は決して勝てない相手だろうが、お構いなしで機械的に目の前の相手に向かっていき、そして斬られて消滅する。ターニャにとってみればもはや戦いではなく、単なる作業だった。彼女は武器の振り方と構え、攻撃のタイミングを確かめるように、彼らを処理していった。
魔獣の群れがすべて片付くと、彼女は額の汗を拭ってから、互いに融合して魔晶珠へと変わっていく地面の戦利品を前に、見下したような笑みとともに言った。
「ふふん……弱いくせに! 敵じゃないわ」
だが、顔つきをこわばらせて言葉を続ける。
「こんなの、何万匹倒したって……!」
もっと強い相手と戦わなくてはならない。こんな奴らでは、あいつの足元にも及ばない。そう、気を引き締めた。