第2話 白い染みの下で
ユウトは真っ暗な夢の中で、人の身長を上回る大きなアルマジロに後ろから抱きつかれていた。
あたりはほとんど何も見えないが、それがアルマジロだということは、なんとなくわかっていた。
アルマジロはごつごつした黒い肌を、ユウトの背中にこすりつける。
しかも、そのアルマジロは身体が氷のように冷たかった。ユウトは凍えそうになりながらも、ふりほどこうと両手を振り回す。
右手がざらざらした何かに触れた。
アルマジロの感触ではない。どちらかというと砂のようだ、と思ったところでアルマジロは消え、彼の目が少しずつ開いた。
自分の目が開いた……ことに彼が気づくまで数秒を要した。周囲が真っ暗だったからだ。天井に白い染みが点々とあるだけだ。
『ああ、寝ちゃってたか』
彼は思う。きっと姉は帰っただろう。今は多分深夜か、電気をつけないと。何も食わずに寝たから腹が減るな。
ぼんやりここまで思った直後、びゅうと顔に冷たい空気が吹きつける。
凍えるほどではなく、肌寒い程度のそよ風だが、しかしどうして風?
窓を開けたまま寝たのだろうと思い、周囲に手を回したところ、壁があるはずの場所に、何もない。
代わりに、手がざらざらした物に触れた。砂か土のようだ、と感じる。
どうして部屋の中にこんなに砂があるんだろう? そういえば、身体の下も石のように硬く、砂粒のように刺してくる感触がある。
不安を覚え、さらに辺りを探ると、今度は何かすべすべしたものに手がコンと当たる。
つかんでみると、マットな表面の感触と丸っこい形状。
両手でよく触れてみれば、どうやらあの姉にもらった巻貝だ。逆にいえば、手探りで調べる限り、巻貝以外には土と砂しかない。
「えっ……おい。おいおい、嘘だろ?」
ふと、天井にある白い染みが気になった。
あんなもの、部屋にあっただろうか。
むしろあれは星じゃないかと思い至った時、ユウトの中に『何が起きたんだ』というパニックに近い感情が湧きあがった。
彼は上体を起こした。また風が顔に吹いてくる。ゴォォォ……風のような音が遠くで響いた。
「え? 姉貴? これ、ちょっとマジ……」
つぶやいた時、「ウゥ……」という野犬のような唸り声がした。
とっさに後ろを向いて、ぎょっとする。赤いものが4つ、宙に浮かんでいた。
「なっ……?」
言いかけた瞬間、4つの赤い目が、迫ってくる。
タタタッと、犬が砂を蹴る音を立てながら。
ユウトが動くこともできないでいると、左腕に衝撃と痛みを感じた。
「うあああっ!!」
痛み、驚き、恐怖で聞いたことがないほど大きな声が出た。
ヤバい、死ぬ――危機感が頭に響く。
赤い4つの目がユウトの顔のすぐ前まで迫っていた。ハフハフと、犬のような息が聞こえる。
ユウトの腕にかじりついたまま、こちらをにらんでいる。ここで死ぬのか?
だが、本当ならパニックに陥ってしまいかねない状況なのに、彼の中には妙な落ち着きがあった。腕を怪物に噛まれるというのは、こんな感じなのか?
「どけっ……!」
ユウトは4つの目を右の拳で殴った。
怪物が彼の左腕から口を放す。
腕がずきっと痛む。きっと血があふれ出ているだろう。が、なぜか彼の中には『いける』という感覚があった。
彼は立ち上がると、ちょうど4つの目に狙いをつけ、思い切り右の蹴りを食らわせる。
ボンという打撃音。
音と足の感触はどこか、布団を蹴った時に近かった。そして怪物の悲鳴らしきものが聞こえる。
「グワーーー!」
狼というより鳥を連想させる、やや高めの声だった。何かが落ちるザッという音は、ユウトが予想したより遠くで聞こえた。
そして、赤い4つの目は消えた。
やったのか――安心したところで、敵に噛まれた左腕に痛みが走り、ユウトは「いっ……」と声を発する。
今何が起きたのか、これからどうすればいいかわからず、何も考えられなかった。
無意識に心の中で『ふざけんなよ』と悪態をついていた。
『ふざけんなよ』と思った相手はこの状況でもあり、4つの目を持つ怪物でもあり、また、姉でもあった。
左腕がどうなったのかとても気になるが、触る勇気はない。
ズキズキと刺すような痛みがいつまでも襲う。ただ、怪物に噛まれたにしては痛みが大したことないような気がしていた。
そんなことを考えている場合ではないのに。
ふと、10mほど向こう、風に揺れる草むらの中で群青色の何かが輝いているのに気づいた。
4つの目が消えた場所に近いだろうか。それが何か気になりつつも、調べる勇気はない。
輝きをぼんやり見ながら、これからどうすればいいんだろうと途方に暮れていると、背後で小さな話し声がした。
振り返ると、その群青色の輝きとは逆の方向から、それに近い青紫色の光が見える。
握りこぶしくらいのサイズの光源が2つ、宙に揺らめいていた。
暗闇の中では明るいが、目が眩むほどではない。ユウトは、家の風呂場の電球がちょうどあのくらいの明るさだ、と思った。
『あれも怪物だろうか』と彼は身構える。
話し声がするといっても味方とは限らない。あの光がもし人間だったとして、あんな色の懐中電灯を使うだろうか?
もし怪物だったとしたら、空飛ぶ青い光の生き物なんて、片腕噛まれた状態でどう戦えばいいだろう。
真っ暗な中で逃げられるだろうか――彼は外に聞こえるかどうかという程度の小声で「今度はなんだよ」とつぶやいた。
しかしユウトに待っていたのは、予想外の声だった。
「大丈夫か!」声変わり直前の少年のそれのように聞こえた。
ユウトは、なんだ、助けが来たのかと安堵して、気の抜けた声で「あ、ああ」と答えた。
どちらかといえば大丈夫ではないが、話ができそうな相手だった安心のほうが大きい。
先ほどの声に続いて、もうひとつの光だろうか、別の少年の声。さきほどよりさらに高い声だ。
「やられちまったかと思ったよ。今、そっちに行くから」
そして近づいてきた2つの青い光。目の前まで来てわかったのだが、光の下に棒があり、それをユウトより身長の二回りほど低い人影のようなものが持っていた。
結局これは光の怪物などではなく、彼らの使うライトらしい。
さらにその直後、ライトを持っていた人物の姿を見てユウトは、「ハッ!」と息を呑んだ。
驚きのあまり声すら出ない。
彼らは人間などではなかった。
片方は猫か犬か、もしくは狐に近い顔つきの二足歩行する獣のようだ。
そしてもう片方は、球体だった。球に手足が生えており、左手でライトを持っている。
しかもよく見ると、球体の表面には細かい模様があり、上には何か、角のようなものがあることもわかった。
そしてボディの中央には大きな黒い丸もふたつ、横に並んで存在している。
『この玉はなんだ』――訝しげに見ていると、球体の中央にあるふたつの黒い丸がユウトの正面に来た。
ユウトは、この黒いふたつの丸がユウトを『見ている』とすぐに気づく。
暗い中、初めて遭遇する生命体だが、それでもこのふたつの黒い丸が、球形の生物の目であるとわかった。
群青色のライトの明かりは大して強くなく、光自体が暗い色のため、この2体の生物が全体としてどういう姿なのかは中途半端にしかうかがえないのが、なおさら不気味だった。
なおも接近してくる光に対し、ユウトは怯えて声を上げる。
「なっ、な……なんだ!?」
「なんだとは、なんだよ」
犬か猫かわからない二足歩行の獣はぶっきらぼうに返し、気にせず近寄ってくる。
そして球体は獣の言葉が終わるや否や、ユウトの姿をよく見て重要なことに気づく。
「えっ? うわ、お前滅茶苦茶血ィ出てんじゃねーか!」
やたらとテンションが高く、声も大きかった。
それで、獣もユウトの左腕の状態に気づいたらしい。
「えっ? どこだ? ちょっと見せろ」
二匹の人間ではない生き物は、ユウトの腕の傷をよく観察しようと近寄ってくるが、ユウトはさすがに謎の生命体に心を許すことはできない。
「ちょっ、待っ」と言いながら身を回して腕を彼らから遠ざけ、拒否の意を示す。
逃げようかとも思うが、迷っている間に獣は素早く反対側に回り込んだ。
「怪我してんだろ」
球体も正面から近寄り、ユウトの左腕を指差し、心配してくる。
「いや、おい。本当にやべーぞ、腕」
「いやいやいや、大丈夫大丈夫」ユウトは言葉でも拒む。
「大丈夫じゃねーよ」獣は譲らない。「早く治さねーと、腕切ることになるぞ」
「いやー、腕なくなったら大変だ」球体も続く。
そして獣はどこか、安心させるような口調で言う。
「大丈夫だからな、俺らの仲間にすごい魔法使いがいる。ちゃんと治してやるから」
言いながら獣は、肩に下げたカバンから丸い水筒のようなものを出し、ユウトに強引に近寄ると、蓋を開けた。
水筒を傾け、彼の左腕の傷に滝のようにドバドバ掛けた。
「いっ! 痛て……!」
少しの間染みるが、出血は即座に止まる。痛みもおさまった。
塞がった傷口を見て、球体と獣も驚いている。
「あれぇー? すぐ治っちまった」球体は異様に高い声を出す。
「おいおい、すげーな。俺らだったら、こんだけ血ィ出たらバースのとこ行かなきゃ治んねーのに」
「だな。バースじゃなきゃ治せないぐらいの怪我だったぞ」
「なんでだろ」球体は顔を近づけ、ユウトの左腕をよく見る。
「本当に治ってる。傷が塞がってるな」と、獣。
「今掛けたのって普通の傷薬だよな?」と、球体。
「ああ。応急処置ぐらいにしかならないはずなのに。こんなにすぐ治るなんて、まるでスカーロだな」と、獣。
「スカーロっつったら……」
球体の身体についた黒い丸の位置が少し上がった。軽く見上げるように視線を動かしたらしい。
「カフ、お前は聞いたことあるだろ。でっかくて角と尻尾があって、攻撃が何も効かない、怪我してもすぐ治っちまう。とんでもねぇ奴らだ」
獣は言った。球体の名前はカフというらしい。
「知ってるよ。あの、東のほうに固まって住んでる奴らだろ」
「そう。あんなに強いのに、東の国から出てこない変な奴らだよ」
獣はユウトの後方に回る。
「尻尾はない。スカーロじゃないな」ユウトは背後に回った獣の視線を、少し生温かく感じた。
「角もないぞ」
球体のカフは前から確認する。正体不明の生き物に前後を観察され、ユウトはどうしていいかわからない。
「ってか……」獣がユウトに尋ねる。「ここにルーポいたよな? どこ行ったんだ」
「ルーポ?」とユウト。
「ルーポ知らねぇのか? さっき、あいつの声がしたんだけどな。目が4つある狼だよ」
さっき腕に嚙みついた怪物はそんな可愛らしい名前だったのか、とユウトは笑いそうになった。
4つの赤い目が暗闇の中で光って本当に不気味だし、腕にも噛みついてきたのに。
「ルーポ知らないって、どこから来たんだ?」
球体のカフは愉快そうに言う。「ルーポなんか、半日旅したら50匹は会うぞ」
「それはさすがに言いすぎじゃないか?」獣は笑いながら返した。
カフは何か見つけたらしく、くるっと回りユウトに背を向けた。
「おっと、あんなとこに魔晶がある」
と言って群青色の輝きがあるところまで小走りで向かう。そしてそこに落ちていた、ちょうど彼らの使うライトと同色の物体を拾い上げ、戻ってくる。
「ここに魔晶が落ちてるってことは……。もしかして、あんたルーポを倒したとか?」
ユウトはこれに、どう答えたらいいかわからないが、ひとまず今の段階で可能な限り答えた。
「俺もよくわかんない。赤い目が4つある奴が来て……なんか、蹴ったらいなくなった。で、そこになんか青い光が……」
すると球体と獣は一気に興奮し始めた。
「はぁー!? 嘘言うなよ!」
球体は前のめりになって、ユウトに一気にその大きな顔を使づけた。
「おいおい! じゃあまさか、あんた! ルーポも知らねぇのに、いきなり戦って倒したってのか? 嘘だろ!」獣は大げさな手ぶりを使って感情を表現する。
「でも、ここに魔晶があるのが証拠だぞ」と、球体のカフ。
「本当なのかよ? 駆け出しの冒険者は大体、ルーポでつまずくんだぜ」と、獣。
「これは、見たことあるだろ? ルーポは知らなくても」
球体がユウトまで歩み寄ってきて、拾ったものを近づけてよく見せる。
それは水晶のように透き通った、群青色の淡い光を放つ結晶。
全長10cmほどで、形は角が切り落とされた六角柱というべきか。よく見ると内部には紫色の小さな炎が燃えている。
現実にこんなものがあるとは思えない。ゲームやアニメに登場する類いの物体だ。
「いや、ちょっと……見たことない」ユウトは答えた。
「見たこともないってのか? 魔晶を? どんな生活してたんだ?」カフは言った。
「ルーポも知らなくて魔晶も知らない。それで、まさかあんた。腕をルーポに噛まれながら蹴り食らわしたってことか?」獣は言った。
「うーん……多分」
「多分!? そんなの、冒険者でもなかなかできない動きだぞ」
「しかもこんな真っ暗な中、この格好でだ!」獣はユウトのシャツを指差して言った。
「そのうえ一発で倒したってのか!」
「こりゃあ……天才だな。靴も履いてないのにな」
格好と言われてユウトは、2人のライトに照らされている自分自身を見た。
予備校から自室に戻った直後の、白いTシャツにジーンズ、黒い靴下というラフな格好。
ルーポに噛まれたせいでシャツとズボンの左半分がべったりと血で汚れてしまっていることを除けば何も変わらない。
地面は土なのに、靴すら履いていないことに今になって気づく。
結局、ここは夢か、それとも現実なのだろうか。夢だとしたら、眠る直前の格好なのはおかしいし、こんなにしっかり血が出るだろうか。
だが、それにしても現実のわけがない……とユウトは思おうとした。
少なくとも、目の前のこいつらはなんだ? こんな変な生物が現実にいるものか。
「武術の達人か何かか?」
カフはユウトに訊いてくる。
「いや、全然」ユウトは答えた。
「普通の奴か?」と、カフ。
「言われてみりゃ、そもそも達人なら腕噛まれねーよな」獣は笑った。
「そりゃそうだな!」
「でも、不思議だな」獣はいぶかしむ。「冒険者でもない奴がこんなとこに灯りもなしで、独りで何してたんだ?」
ユウトは答えに困り「あ、えーっと……」と言い淀んだ。
巻貝を横に置いて寝たらここに来たなんて言ったら、頭がおかしいと思われるだろう。
「大方、冒険者ごっこじゃねーの」と、獣。
「あー、そういうこと? でも、一対一で素手でルーポ倒せるなんて、逆に今まで冒険者やってなかったのが不思議だな」と、カフ。
「冒険者?」ユウトが訊き返す。
「そうだよ」と、獣。「俺達は冒険者。魔獣を倒せば、この魔晶が手に入る。で、魔晶を食いもんとか、いろんな物と交換して生活してるのさ」
「冒険者も知らないんだな」と、カフ。「でも、お前はいい冒険者になれるぞ」
「……とりあえず、ここでずっと話すのも危ないからな。きっとみんな歓迎するぜ、来いよ」
「そうだよ。行くぞ」
そう言ってカフが歩き出した直後、彼は地面の何かにつまずいて転びそうになる。
「おっと! ここにデカい石がある」
獣は青紫色の灯りを、カフがつまずいた何かに近づける。
「いや、石じゃねーぞ」
「なんだこりゃ?」
灯りは地上に転がるそれを青く映し出した。こんもりとコロネのように膨らんだ物体。ユウトは一目見て、それが何かわかった。
「あ。ちょっと……」
と、ユウトは慌てて2人の間に腕をねじこんだ。
「どうした?」
「それ、あんたのか?」
言いながら、人間ではない2人は少し道を開ける。ユウトは巻貝を拾うと、「うん」と答えて両手で抱えるようにして持つ。
絶対に失くしてはならないもののように感じた。
「あんた、そんなデカいのを、カバンにも入れずに持ち歩いてたのか?」
「ああ……一応」
ユウトは思った。この得体の知れない生物が、俺がここに来た経緯を知ったらどうなるだろう、と。
いいことは起きないはずだ。少なくとも、今はまだ信用するわけにいかない。