第8話 バッタの軟膏
互いの身の上話をしながら洞窟を出た3人は、アキーリの町の近くに建つユウトの家まで行った。
ドーペントの提案で、食事を一緒にとろうという運びになったのだ。
ユウトは洞窟の外へ案内するまでにしておくつもりで、家に上げることには乗り気でなかったが、『せっかく同じ人間に会えたんですから』とこのカエルが説き伏せ、渋々ながらOKを出させたのだ。
木でできた簡素な家の中は青紫色の照明が設置されており、そこではテテという名の生き物が待っていた。
ミスペンはこのテテを一目見て、『可愛い』と『気持ち悪い』、2つの相反する感覚に同時に襲われた。
テテは本人いわく『バッタ』という生き物だそうだが、ミスペンの知るバッタにはまったく似ていなかった。
テテは当然のように二足歩行で、ネグリジェのような服を着ており、頭と手足以外は隠れている。
手足は白い手袋と靴下を着けており人間らしかったが、見る限り『手足』しかない。
昆虫が持っているはずの、もう2本の脚は見当たらない。
そして頭部は、二本の長い触覚がV字型に、ほとんど下に垂れることなく伸びていること、そして首がないことが虫であることをアピールしているものの、実のところ触覚の下にある顔はまったく虫らしくなかった。
バッタなら馬のように長細くなくてはならないはずの顔の形は丸っこいし、目は顔の横についているはずなのが、テテのそれは人間同様、前面にふたつとも存在している。
煮た黒豆のように真っ黒くつやつやした愛くるしい目も、バッタのそれとは異なる。
それらもさることながら、何よりもっとも虫らしくないとミスペンが感じたのが口である。
どちらかといえば人間のような、パカッと開いた口。
閉じた状態も、話す時の動きも人間に近い。いや、唇もなければ歯もないので厳密にいえば人間の口とも違う。
バッタの口はこんなものではなく、ノコギリのような器官がいくつも複雑に組み合わさっていたはずだ。
もちろん、昆虫の口そのまま人間サイズまで巨大化していたら、かなりグロテスクだったろうが。
これらはテテを前から見た時の話だ。
後ろを向いたテテの姿に、ミスペンは驚かされた。
色の暗い、セミのような斑のある大きな羽が彼女の背中にあった。
ミスペンの知っているバッタとはまったく違うが、それでもきっと彼女は何かの虫なのだろう。
ミスペンが驚かされた点は他にもある。
家に入った直後、彼が靴を履いたまま上がろうとすると、そのバッタのテテが「あーっ」と騒いだのだ。
最初は何のことかわからなかったが、ユウトに靴を脱ぐように言われた。
それで、彼をここに連れてきたユウトとドーペントが、玄関で靴を脱いでいることに気づいた。
ドーペントも、室内に入って明るい場所でよく姿をみたところ、やはりカエルだった。
目を中心に、内と外へ、黒いラインが涙のようにある。
内側は鼻まで、外側は顔の横に沿って首、そしてその下へと流れている。
頭頂部付近には、そのラインを薄めたような暗い斑模様があった。
顔つきも肌質も、デフォルメされていない、ミスペンが知るカエルそのものだ。
さて、ミスペンはテテにクッションのようなものを出され、その上に座るよう指示された。
「で? どうしたの、あんた。そんな布で巻いて」
テテはミスペンの近くまで来て、じっと見つめてきた。
「戦いでな」
ミスペンが答えると、テテはさらにミスペンに近づいた。
「何? 顔、ずいぶんやられたってこと? 右手はどうしたの?」
「右手も、右目もない」
するとテテは大げさに驚いた。
「あーら! ひどい。どっちもなくなったの? 魔獣にやられたわけ?」
「魔獣ではないが」
「えっ? 魔獣じゃないの? じゃあ誰に?」
「色々あったんだ」
「何? 気になるけど。怖いね、物騒だねぇ」
するとドーペントが代わりに説明する。
「ミスペンさんは僕らが知らないとこで、すごく強い人と戦って怪我したみたいです」
「へー、すごく気になるけど、その辺は後で聞こうかな」
テテは棚まで行って、入っている黒い壺を出してきて、ミスペンのそばに置いて蓋を開けた。
中にはペースト状の物体が詰まっている。
そこから、嗅いだことのないおかしな匂いが漂ってきた。軟膏の匂いは単純な言葉では表せない。
例えるなら香ばしいスパイスに甘い花の蜜を加え、それを天日にさらして若干腐らせるとこんな匂いになるだろうか。
種類としては快と不快のちょうど中間くらいだが、妙にミスペンの胸をざわつかせるものだった。
「これは?」
ミスペンは問うがテテは答えず、代わりに彼の頭に巻かれた布をはがそうとする。
布と貼りついた右目のあたりがひどく痛む。
「いっ……! な、何を?」
「だって、塗れないじゃないの」
「剥がさないでくれ。まだ皮膚ができてないんだ」
「一回剥がしてちゃんと治さないと駄目よ」
「だが、私は術で回復できるんだ」
「んんー? じゅつぅー?」
「ミスペンさんはすごく強いみたいです」ドーペントが補足した。
「んじゃー、別に剥がさなくていいか。あたしのは服の上からでも効くし」
「服の上から?」
「そうそう。すぐ始めるよ」
「あんまり強くやるなよ」
「だって、心配でしょ?」
「テテさんの軟膏はすごくよく効くんですよ」
「本当だろうな……?」
どんなことになるのか恐怖はあるが、見知らぬ場所に来て右も左もわからぬ時に、せっかく受けた好意を袖にするのも気が引けた。
それに、予想外のことばかり起きるのを楽しむしかないとターニャに言ったばかりなのだ。
テテはミスペンの顔に、おかしな匂いのするペーストを塗り始めた。
テテの手つきはどちらかというと雑で、人間の肌の繊細さをあまり知らないのではないかと思うほどだった。
「くっ、うう……」
かなりの痛みがある。確かにテテが言った通り、素肌に直接塗られているのかと疑うくらい、この軟膏の染み込む力は強い。
どんなことになるのだろう。危ない物を遊び半分で塗られているのではという不安がつきまとう。
「大丈夫ですか?」ドーペントも不安そうだ。
「もう一度訊くが、これで治るのか?」
「そんなに心配しなくていいのに。なんでこんな布貼ったの?」
「片目が潰れた状態を、そのまま人に見せるわけにはいかない」
そんな話をしながら、テテは二層目、三層目と重ね塗りしていく。塗るたび、同じ痛みに襲われる。
「うぅ、あぁ……」
「すごく痛そうですね」ドーペントは心配そうだ。
「だから、この痛みがなくなるまで塗らなきゃね」
「おい、頼むぞ。本当に効くんだろうな?」ミスペンは念押しするが、テテは落ち着いたものだ。
「そりゃあもう。どんな怪我も完璧よ! ただ、ちょーっと染みるけどね」
「ちょっとどころじゃないぞ」
「結構染みますよね。俺も塗ってもらったことありますけど」ユウトが言った。
「でも、テテさんの軟膏はすごく効きます」ドーペントが続く。「前、指が切れちゃった人がいたんですけど、テテさんの軟膏でつながったことがあるんですよ」
「本当か?」
「まー、それほどでもないけどね! で? あとは手もなくなっちゃったの? 大変ねー、手がないと」
テテはミスペンの腕がなくなった右肩にも同じように軟膏を塗る。やはり染みた。なかなかの痛みだ。
「はぁ……はぁ……」
片目をつぶって痛みに耐える。
しかしテテの言葉を信じるなら、染みるのは治っていない証拠ということになる。
実際、患部以外の場所に軟膏が塗られた時はまったく痛くない。
回復術を少し掛けたくらいでは、大火傷は治らないということのようだ。
やがて軟膏を塗り終わると、痛みがだんだん引いてくるとともに、これまでより楽になったような気がした。
「どうですか?」
「うむ……正直心配だったが、良くなった。ありがとう」ミスペンは感謝を述べた。
「どーいたしまして! 無理しちゃ駄目よ。次に同じことになったら、両目と両手なくなっちゃうからね」
「ああ! そんなことになったら大変です。何もできなくなっちゃいます!」
「さすがに、その時は終わりだろうな」