第4話 手鏡
部屋を出てすぐ横に、盆を見つける。先ほどアウララが飲もうとしていたであろう酒のビンと小さなグラスだ。
500mlほどのビンには黄色い酒が入っている。蓋を開ければ甘い香り。
少しグラスに注いでみると、すっきりして飲みやすい柑橘のリキュールだった。
アルコール度数もあまり高くないので、ジュース感覚でビンから直接がぶ飲みできる。
「ふむ、悪くない……」
ミスペンは酒をすぐに空にしてしまった。
「何してんの?」少女が後ろから話しかけてくる。
「アウララは、酒の支度をすると言っていた。どこかに、食料があるはずだ」
「支度?」
「あんな猫みたいな奴だが、酒が好きなんだろう」
「あいつが食べてるようなの、どうせ不味いと思うけど」
「かもしれんな。だが、食べるものは必要だ」
2人は別々の方向に廊下を進んだ。
廊下にはいくつもの倉庫があった。どれもアウララの盗品入れだ。
収蔵されている宝石類や絵画、陶磁器、その他よくわからない道具類は結構なもので、きっと適切に陳列して説明書きをつければいい博物館ができるだろう。すべて盗品なのだが。
そんなことを考えていると、ミスペンはある部屋に差し掛かった。そこで美味そうな匂いがするのに気づく。
「ほう?」彼は得意げに微笑んだ。
この部屋は、おそらくアウララが食事をとるのに使っているのだろう。
都合のいいことに、プロの料理人が使うような本格的な厨房と、大人数で食事をとれるテーブルがあった。
つくづく、独り暮らしの泥棒猫にはもったいない住環境だ。
そばの戸棚を開けると、色々なパンや肉、チーズなどが収まりきらず溢れ出てくる。
「楽しめそうだ」
ミスペンはニヤリと笑ってつぶやくと、目についたものから味見していく。
パンは香ばしくて柔らかく、口に入れれば深い小麦の味が広がる。
肉は舌の上でとろけ、タレと肉のうま味が弾ける。チーズはまろやかで塩の配分も絶妙。
食べ物を一通り味わってから、台所の奥にある戸棚に目をやった。扉が金属でできており、他よりも鈍重な雰囲気だ。
きっと大事なものが入っているだろうと思い、扉を開ける。すると冷気が流れてきて、中には冷えた飲み物がたくさん並んでいる。
「これは……」
茶色い液体が入った大きめのビンを何本か出す。
冷気が気持ちいいので棚の扉を開けたまま、ビン1本を開けて匂いを嗅ぐと、むっとくるアルコールを感じ、先ほどの酒との差に驚く。
別のグラスを出し、注いでみると、恐らくブランデーだ。
長年熟成されたであろうブドウの奥深い味わいが胸の中すら満たしてくれるようだ。いつまでも舌の上で転がしていたくなる。
アウララは小動物のような外見と、幼稚で粗野な性格からは想像もつかないほど舌が肥えているらしい。
食べ物と酒の趣味はなかなか馬鹿にできないものがある。
ぽつりとミスペンは「できれば無傷の時に味わいたかったが」と漏らした。
自分自身から来る血の匂いと未だ続く痛みが、せっかくの香りを邪魔してくる。アルコールのおかげでいくらか痛みは和らぐのが救いだった。
後ろから足音がした。少女が来たらしい。
「なんか、美味しそうな匂いがする」
先ほどのとげとげしい態度とはうって変わり、彼女はいくぶんリラックスした様子だ。
「美味い物がたくさんある。結構いいぞ」
少女はミスペンの飲みかけのブランデーが入ったグラスを、中に何が入っているかわからないまま飲もうとして、匂いだけでくらっときてしまう。
「なっ、何これ……」
ミスペンは「君には少しばかり早すぎる」と少女からグラスを優しく取り上げ、飲み干した。
「お酒……?」少女はいぶかしむ顔をした。
「ふむ。美味い。君がこの味を理解するには、多分20年くらいは必要だな」
このミスペンの言葉で、少女はムッとしてしまった。
「あっ……あなたなんかにそんなこと言われたくない!」
「ああ、失礼。酒が入ると口が軽くなるのでね」
少女はいじけた顔で近くに置いてある、緑色の何かが入った袋を手に取った。
ビニール袋に包まれたそれは、蒸しパンという類いの食品である。
彼女は初めて見るが、とても美味しそうだった。初め、袋の開け方がわからず、籠手をつけたまま無理に開けようとして中のパンをぐちゃぐちゃに潰してしまった。
籠手を外し、素手になって袋に指を突っ込み、かき出して食べる。いじけた顔が一瞬で変わった。
「あっ……すごい。美味しい」
素直な感想だった。今までのギスギスした気持ちも忘れたか、夢中になってすぐ一袋を空にする。
袋にこびりついた、潰れた蒸しパンの破片を指でこすってはなめている。
ミスペンはそれを見て、『小さな手だ』と思った。こんな華奢な手であの大鎌を扱うのだから驚かされる。
それに、どこにでもいるような少女と変わらない素朴な面もしっかり持っているのかという小さな発見もあった。
二人は台所から食べ物と飲み物を持ってくる。アウララは幸せそうな顔のまま、鼻ちょうちんを出して眠っていた。
アウララは蒸しパンが好きらしく、台所の棚にはおびただしい数が入っていた。
少女もこの蒸しパンを気に入ったようだ。10袋ほどを山ほど両手で抱えて持ってきて、次々食べる。
途中で袋がひとつ落ちたが気にせず、台所の入口あたりに座って食べ始めた。
「はー、すごい美味しい」少女は蒸しパンに夢中になっている。
ミスペンは少女の落とした蒸しパンを拾い上げる。
確かに開け方がわからないが、とりあえず風の術で小さな刃を生み出し袋を切って開けた。
甘い香りが鼻をくすぐる。しかし開けたはいいものの、左手一本では袋からパンを出すのに苦労することに気づく。
とりあえず一度パンを袋から出し、台所に落としてから、袋を脇に置いてパンを拾い、食べることにした。
『いずれ片手だけで生活する知恵をつけないと駄目だな』と思いながら。
術を応用すれば右手の代わりくらいはなんとかできそうな気もするが、今は難しい。
しかし蒸しパンを口にすると、そうした細々した問題はすぐに頭から吹き飛んだ。
少女があんなに没頭するのも無理はない。もちもちした食感は食べやすく、しかもほどよい甘みは子供が好きそうなだけでなく、意外に品がいいので大人でも納得する味だ。
「うむ。確かにいい」ミスペンは小さくうなずいた。
「ちょっと、それあたしのだから食べないで」
少女が文句をつけてきた。彼女の口元にパン粉がたくさんついていた。それを見てミスペンは「ハハッ」と軽く笑う。
「何笑ってるの」
「そんなにとげとげしくしてると、疲れるんじゃないか」
少女はミスペンをひとつにらんでから、ムスッとしてまた蒸しパンに戻る。
「どうせなら、もっといいとこで食べたかったのに」彼女は言った。
「いいとこ? 例えば?」
ミスペンが返すと少女は顔を上げ、またしかめ面を見せた。
「あたしの情報を探る気でしょう?」
「君、ここには人間は我々しかいないんだ。もっと気楽にいこうじゃないか」
「あなたのことなんか、一生信用しない」
ミスペンはこうして彼女が悪態をついてくるのには早くも慣れてきており、何も反応しなかった。それよりも、ずっと気になっていた物に言及する。
「にしても……怪しいものがひとつあったんだ」
「何?」
「手鏡だ。いや、手鏡の形をした術具だろうか」
「鏡?」
「さっき我々がいた部屋……覚えてるかな? 床に手鏡が落ちてたんだ。しかも、君がさっきの部屋に来る直前、手鏡が光った」
「えっ……?」
「しかも……不思議な話だが、鏡にはわけのわからないものが映っていた」
「どんな?」
「何か……言葉では言いづらい。戻って確かめてみないか?」
2人は、先ほどの部屋に戻ってきた。床の手鏡を確認する。
「何、それ? これが、光った? ただの手鏡じゃない」少女は手鏡をのぞいて言った。
馬鹿なと思ってミスペンも鏡を見たが、それはなんと、普通の鏡のように周囲のものが曇りなく映っていたのだ。
「さっきは真っ黒だったんだ。しかも、何かチカチカと光ってた」
「えーっ、嘘でしょ?」
少女はおもむろに鏡を右手でつかもうとするが、まったく動かない。
「何、これ……重い!」
両手で思い切り持ち上げようとしても動かない。ミスペンが「私がやろう」と言って交代するも、やはり動かない。
「カーペットに貼りついてるの?」
「アウララはこれを『盗んだ』と言っていた。それでここに貼りつけたのかはわからないが」
「術で剥がせないの?」
ミスペンは風や水など、出来得る限りの術を手鏡とカーペットの間に差し込もうとしたが、頑として一切のものが入らなかった。
次に、風の刃で手鏡の周りのカーペットを切り、カーペットや床に何か仕掛けがあるのか調べようとしても、やはり何もわからない。
「かなり高度な術が掛けられてるようだ」
「ねえ、これが光ったっていうのは本当なの?」
「光の柱のようなものが、まっすぐ出てきたんだ。ものすごい明るさだ。そして君がここに来た」
ターニャが何か言おうとしたときだった。手鏡を見下ろしていた彼女が、何かに気づいて声を発する。
「なっ……何?」
ミスペンも見ると、手鏡には彼が見たこともない形の図形が現れていた。漆黒の背景に、灰色の泡のようなものが数多く現れては消えていった。
「やはり。この手鏡……普通じゃない」
ミスペンが言い終わるやいなや、手鏡はまっすぐ上に、噴き出すように光を放った。
「きゃーっ!」
すぐ光は収まる。手鏡は、また単なる周囲の景色を映すだけのものに戻った。
「……今の光?」少女が訊く。
「そうだ。そして――」
ミスペンは少女が出てきたあたりを指差して言う。
「君が来た時は今の光のすぐ後で、そのあたりに白い、光の玉のようなものが出てきて……君が現れた」
ターニャは考え込んだ。ミスペンはよだれを垂らして眠っている寝ているアウララに近づいて言った。
「大方、こいつがどこかしらで盗んできたんだろうが……こいつ、この手鏡について何を知ってるんだ?」
「こんな何かわからない生き物と話すの?」
「何も役に立たなかったらその時考えよう」
ミスペンはアウララに手のひらを向け、術を解くよう念じる。アウララは上体を起こすものの、目が回っている。
「あ……なんだ、宝石……ん?」
彼は目の前にいる2人を見てすぐに頭が起きた。
「って、てめぇらさっきの! 幻はてめぇらが見せやがったのか。変なスペークス使いやがって」
「スペークス?」
「うるせえ! てめぇらよくもやりやがったな!」
「これはなんだ?」ミスペンは床の手鏡を指差し、尋ねる。
「あん……何した、お前ら。おいおいおい! カーペット切りやがって。何しやがる!」
アウララは取り上げるように、地面に落ちている手鏡を拾った。
あまりに当然のように拾ったので、ミスペンも少女も驚くばかりで何も言えなかった。
「あぁ? なんだその目。これはオレ様のもんだぞ。てめぇら何してんだ!」
ミスペンがアウララの手に握られた手鏡を見る。ミスペンにはその裏側が向けられていた。銀一色で、なんの飾りも仕掛けも見当たらない。
「それはなんだ?」
ミスペンが尋ねる。
「多分、この手鏡が私とこの子をここに連れてきたんだが」
「何言ってる? 連れてきた? お前らが勝手に入ってきたんだろ! どんな方法だ? お前らも、できるってことか?」
「できる?」
「オレ様と同じ力を持ってるってことか? このオレ様のスペークス、『透過』と同じ力があるってか?」
アウララの姿が消えた。
「消えた!」
そのときアウララの「ここだ」という声が、少女の背後からした。振り返ると、少女のすぐ後ろでアウララはニヤニヤ笑っていた。
「うわーっ!!」
思わず右足で蹴りを繰り出す少女。
しかし、足を振り上げた瞬間、またアウララは姿を消す。
彼女は不安定な体勢で反射的にキックしたうえ、相手がいないものだからバランスを崩し、よろめいて倒れかける。
さすがに大鎌を武器としているだけあって身体能力があり、転びはしないが、一応ミスペンが「大丈夫か?」と左腕で支えた。
少女は「いい!」と跳ねのけて今度はミスペンが少しよろけた。そしてアウララの笑い声がした。
「ヒャハハハ! 驚いたか? これが『透過』だ」アウララはいつの間にか先ほどの場所に戻ってきていた。
「なるほど、さっき私の後ろから出てきたのはそれか? 盗みには便利そうだな」
「ふーん、最低限のことを理解する頭はあるわけか」
「馬鹿にして……! こっちは人間よ!」
少女は背中の大鎌を引き抜いた。
そのとき、背後にある何か硬いものに鎌がガチャンと当たり、そこで引っ掛かった。
見ると、そこには鉄でできた真っ黒い、かなり歴史を感じさせる、すすけた台のようなものがあった。
「あーっ! おい! それ、大昔の囲碁盤だぞ! 今の音、絶対傷いったろ。オレ様のだぞ。何してくれてんだ。弁償しろよ! マジだぞ!」
「盗品だろう?」
「もうオレ様のもんに決まってんだろ! つーかなぁ、そろそろ言えよ。どうやってここに入った? 教えろよ。てめぇらのスペークスはなんだ?」
「何を言ってるの?」
ミスペンは、自分とターニャがここに来た原因について、わかっていることを真面目に伝える。
「冗談やごまかしでなく、そこの手鏡が関係してるのは間違いないと思うんだが」
「手鏡? へえ、嘘つく頭もあんのか。そんなにこいつが欲しいのか? じゃあ頭こすりつけておねだりでもするんだな」
「なんなのコイツ……」少女が吐き捨てる。
ここで直後、アウララの持つ手鏡がピカッと光る。
「わっ、光った!」
「わかったぞ。今の光で誰かがどこかに飛ばされた、ということか?」
「あっそう、へえ」
「この子がここに飛ばされてくる直前、今と同じように手鏡が光ったんだ。そしてその後、すごく強い光がこのあたりに出てきて、この子が出てきた」
ミスペンは少女が現れた場所を手で示しながら説明するが、アウララは信じない。
「その作り話、もっと聞かせろよ。酒の肴にしてやる」
「そういえば、あたし……ここに来る前、目の前が真っ白になったの。すごくまぶしくて」
「私もだ。なるほど、そうなると私も強い光に包まれてここに飛ばされたわけか?」
「嘘にしちゃあ、面白みに欠けるな」
「やはり信じないか」
「当たり前だろ? てめぇら、この世紀の大泥棒、アウララ様のアジトに忍び込んだんだぜ。しかも変な幻まで見せてくるたぁ……ナメてくれるじゃねぇか」
「鏡を見てみろ」
「その間に何かするつもりだろ?」
「今、鏡に何が映ってるか知りたいんだ」
言われ、アウララは鏡を見る。
「のわっ……なんだ!?」
アウララは思わず手鏡をカーペットに投げた。そこに映っていたのは、真っ黒の中に黄色や緑の霧がうごめいている図だった。
「時々こんなものが出るんだ。しかも、出るたびに変わる」
アウララはそれを聞かず、手鏡を拾う。うごめく霧がなくなって、元の鏡に戻るまで眺めていた。
「それは捨てたほうがいいんじゃないか?」
「捨てたのをもらおうって寸法だろう? どうせならもっとまともな方法で盗めってんだ。もう無駄話は終わりだぜ」
そしてアウララは腰を探る。
「……あれ? ピストル、どこだ?」
ミスペンはアウララに精神操作を掛けた。アウララはあっけなく床に倒れた。
「おたからぜ~んぶ、オレ様のもんだ~~」とうわごとを言い、口から泡を噴く。手鏡はその手に握ったままだ。
「こいつ、殺さないの?」
「そのうち始末したほうがよさそうだな。だが、今じゃなくていい」
ミスペンは答える。「それより、今後のことを考えると君の呼び名がないのは確かに困る。どう呼んだらいい?」
少女はムスッとしたまま、一切答えない。
「それじゃあ……仕方ないな。食事の続きをしよう」