第1話 浪人生
とある国の、とある地方都市。
静かな空間には、カッ、カッと黒板の上をチョークが走る音が響いていた。白い粉がダークグリーンの板の上にこびりつき、アルファベットや漢字、数字、諸々の記号が描画されていく。
それを追うように、大勢の誰かがシャープペンシルを操る音が続く。曇りガラスの窓の外はとうに夜で、時折車のライトが右に左に走り抜けた。
席に座った20人あまりの生徒は至って真面目にノートを取っていたが、最後列の端には机に突っ伏して眠る茶髪の青年がいた。
彼にとって黒板に書かれたそれらは解読不能の、どこか別の時空から降ってきた文字のように思えた。
時々顔を上げても眠気で視界が歪み、文字も記号も8重ほどに重なって見えた。
講師の声がどうにか聞こえる。頭頂部が禿げていて白髪混じりの講師だ。
「酸化還元反応は、こうやって電子の受け渡しをする反応で、電子を他の原子から奪ってるほうが酸化されてるから、この反応の場合は……小野、この硫黄は酸化されてるか、還元されてるか。どっち?」
「酸化です」優等生らしき小野という子が答える。
「そう。硫黄から水素が取れて単体になったから、電子は硫黄に――」
茶髪の青年はそこまで聞いてから、また突っ伏した。
チャイムが鳴って、生徒が次々とカバンを持って教室を出ていく中、茶髪の青年は未だ机の上で夢を見ていた。
暗い場所で何かと追いかけっこをしているような夢だ。生徒の足音と話し声で、もう終わったことに気づいて、突っ伏したまま机の上を探る。ノートの感触があった。白紙のページだ。早く帰らないと、いつものが始まる。
「唐沢」
講師に名を呼ばれ、茶髪の青年は憂鬱になった。ああ、いつものだ。
「お前、どうする気なんだよ? ずっと寝てたろ」
顔も見たくない青年は、「はい」と適当に返事した。
「はい、じゃないんだよ。いっつもそんな感じだろ。一年とちょっとか、どの科目も寝てばっかりで。就職しないのか? ちゃんと考えろよ。授業料、誰が出してんだ?」
青年は何も答えなかった。
「この前の模試も、ひどいぞ。なんだあの点数……それで寝てたら、どこも受からないからな。国立狙ってる奴いっぱいいるのに、お前みたいなのいたら迷惑だから、そのままだったら辞めてもらうぞ。本当に、どうする気なんだ? 就職するんなら、ちゃんと髪の色戻せよ」
青年はそうして叱られている間、黒板を消す真面目な女子生徒の背中をぼんやりと見ていた。あの子は俺をどう思ってるだろう。
いや、考えても無駄だ。周りの連中は俺のことなど、誰一人見ようともしていない。
『この説教も何度目なんだろうな……』
ユウトはぼんやり思いながら予備校を出た。
日は既に落ち、外は帰宅する人々であふれていた。その人の流れに沿い、彼はどこにでもある地方の中心都市のビル街を歩いた。
それなりに繁盛している商店街を通り抜け、それなりに大きな交差点を渡り、それなりにごった返した駅に入る。
地域の公共交通の中枢を担うだけあって、帰宅する高校生や大学生、会社員、お年寄り、その他様々な種類の人物でホームは埋まっていた。
ユウトはいつもの電車に乗ると、彼らとともに電車内の単なるひとりの乗客として、頭上の吊り革に指を掛けた。
近くで同じように吊り革につかまる高校生が、学校の教師やクラスメイトの噂話、テレビやネットの動画の話で盛り上がっていた。
誰と誰が付き合ってるとか、そんな話まで聞こえてくる。
会社員や大学生は渋い顔をして、スマホをいじるか、窓の外を見ていた。
外の風景は、初めビルの明かりでいっぱいだったのが、すぐに住宅街、そして次第に住宅はまばらとなり、ほぼ真っ暗の闇が始まる。
電車が出発した時から虚ろな顔で外を見ていた中年のスーツの会社員は、外には何も見えないのに、まだボーッと外を見ていた。
停車のたびに乗客は減り、新たに乗る者はほとんどない。広い車内、ガタゴトという音と鈍い振動、殺風景な車窓を数人の客で共有する頃になって、ようやくユウトは吊り革から手を放し、近くの席に腰を落とした。
窓の外はただの暗闇だ。ガラスに薄ぼけた、意思も覇気も感じさせない顔が映る。
『俺は誰とどんな話をしたらいいんだろう』……青年は内心自嘲した。
高校時代の友達はみな、就職か進学でそれぞれの道へ進んだ。もはや会うこともないし、会ったところで話題は思い浮かばない。
高校までの自分も先ほど車内にいた彼ら同様、特に意味のない話を日々していたはずだ。
今の自分は何もしていない、ただのひとりの人間でしかない。ここで今更どうしろというのか。
田園の中に建つ、ほぼコンクリートと金属剥き出しの簡素な高架駅で電車を降り、駐輪場の自転車のロックを外すと、あとは家まで10分。純白のLEDが夜道を照らす。
街灯もガードレールもない、通る車もない真っ暗な道をしばらく走って、田んぼを抜けた住宅街の端っこに位置する自宅の前まで来ると、センサーが反応して玄関上の照明がパッと灯る。映し出されたのは、庭の駐車場に止められた真っ赤な軽ワゴン。
「姉貴か……」
感情のない独り言を小さく吐いて、青年は庭に自転車を留める。ずぼらな姉はあまり洗車もしておらず、軽ワゴンはフロントガラスの端に土のような汚れが少したまっている。
自宅に入るなり、飽きるほど聞いた声が。
「ユウト!」
既に就職し都会で独り暮らしをしている姉は、気が向いた時ぶらっと訪ねてくるのだ。何かいいことでもあったのか、ニコニコ笑っていた。
青年、ユウトはそっけなく「ああ」と返し、視線も合わせない。
「相変わらず、寝てんの?」
という姉の言葉にユウトは聞こえないフリをして、鬱陶しそうに「用は何?」と尋ねる。
「お母さん頑張ってお金出してんだから。それと、私の出した分も何割か入ってるし」
どうやら説教するのが実家に来た目的らしい。ユウトは姉を無視して靴を脱ぎ、玄関に上がった。横を通り過ぎたところで、姉はこんな提案をしてきた。
「あ、じゃあさ、約束してよ」
「約束?」ユウトは中途半端に姉のほうを見た。
「ちゃんと頑張って予備校行って、大学受かるって約束して。そしたら、いいものあげるから」
ユウトは返答に困り、片手で頭をかいた。そして、「じゃあ、いい」と姉を避けて廊下を進む。
「もう。わかった! あげるから」
姉の声が追いかけてくる。
「姉貴が持ってくるのって、大体ろくなもんじゃねぇし」
「えー、ひどい。見たらびっくりするよ」
ユウトは姉の言葉を信じたわけではないが、結局彼女の招きに応じてリビングに入った。
テーブルの上には、姉が高校時代の部活で使っていた大きなスポーツバッグが無造作に置かれていた。側面下部の名札に『唐沢真綺』という姉の名前が丁寧な字で書かれている。
「何? このでかいカバン。泊まりに来たってこと?」
「違う違う」
姉はバッグのファスナーを開ける。中には、カラフルな何かが入っていた。
姉がその手で出すと、なおさら想像を絶する物体だった。
それは両手で抱えるようなサイズの大きな巻貝。表面は岩肌のようにデコボコしており、全体に走る流麗な縞模様はピンク、水色、白の3色に彩られていた。
「これ……何?」ユウトは謎の巻貝を指差す。
「その貝を枕元に置いて寝たら、不思議な世界に行けるんだって」
姉は楽しそうに言った。『不思議な世界』という言葉が20代半ばに近づきつつある姉の口から出てくるとは思わず、ユウトは軽く笑いながら返した。
「姉貴、名前が真綺だから巻貝ってこと?」
「違う!」姉は首を横に振る。「別にダジャレじゃない。これ、友達にもらったんだ」
「友達……? その人、不思議な世界か何かに行ったってこと?」
「それは知らないけど。とにかく、あげるよ」
「ふーん。ま、くれるんならもらうけど」
「だから、国公立受かってよ。お母さんは私立でいいって言ってるけど、奨学金高いし。聞いてる?」
ユウトは巻貝を抱えると、姉の言葉を無視してリビングを出た。そのまま階段を上がり、自室のドアを開ける。
電気を点けると、ユウトはカバンを机の上に適当に置き、ベッドの上にあぐらをかいた。そして姉にもらった巻貝をよく見る。
様々な角度から見つめたが、派手な縞模様はすべて均一で、塗装のムラや人為的な接合の跡などはどこにもなかった。指でなでても、縞の境に段差などはない。
よく見ると、三色の縞のうち白い部分にだけ、ラメのような小さな粒が隠されているのに気づいた。
天井の蛍光灯の光を強く受けた部分だけ、その粒がキラキラと七色に輝いている。どこの国でつくられたのか、意外に出来はいい。
街中のリサイクルショップにこんな類いの置物が万単位の値段で売られていたのを思い出す。
「売ったほうがいいか? これ」
一度つぶやいたユウトだが、さすがにそんなことをしたと姉に知れたら、何を言われるかわからない。
姉は、この巻貝で不思議な世界に行けると言った。そんなものを本気で信じていたとしてもおかしくない。弟と違って勉強もスポーツも幼い頃からなんでもできたが、人の話を信じやすく、妙に子どもっぽいところもあった。
ユウトはこのカラフルな巻貝の穴をのぞき込んだ。中は真っ暗で何もない。指を突っ込んでみる。彼のそれほど長くない人差し指が届く範囲に限っては、空洞のようだ。
質感や感触はプラスチックとも金属とも、ガラスとも違う。だが、アサリなどの貝殻とも何かが違う気がした。それらより重厚で高級な気がする。それ以上は調べても特にわかることはない。ただの派手な巻貝だ。
ユウトは巻貝をそばに置いて、ベッドに寝転んだ。彼は塾の講師と、姉の言葉を思い出していた。
「大学、か……」何かを諦めた目をして独りごつ。
大学に入ったから、何があるというのだろう。いい大学を出て、そこからいい人生を送れるのだろうか。本当に?
電車内で渋い顔をしてスマホをいじったり、窓の外をぼんやり眺めていた会社帰りの人達が脳裏に浮かぶ。
あんな人生を送ることになるのだろうか。姉は楽しそうだが、自分は出来のいい姉とは違う。
「どうせ俺の人生は、何も起きねぇんだよ。どこに行ったって……」
そして、彼は静かに目を閉じた。