第10話 黒のクフェルス
場所は変わり、ここはパフィオの実家の一室。ミスペンがこの家に飛ばされてきた時、最初にいた部屋と同じような空間だ。そこら中に石のブロックが大量に積み上げられた広大で薄暗い部屋の隅に、ロテとリラは縮こまっていた。
「おいっ……来るんじゃねぇ!」
ロテが誰かをにらみつけ、声を張り上げる。その相手は、ボーッと突っ立っているひとりのスカーロの女性。無表情で半開きの目をした、黒髪のクフェルスだ。頭には3本の角、太い尻尾はゆらゆらと揺れていた。何も答えず無表情のまま、クフェルスは2人に向かってのしのし歩いていく。
「来るんじゃねぇっつってんだろ! 何する気なんだよ!」
ロテが再度警告すると、クフェルスは立ち止まり「食べる」と答えた。ロテもリラも怖気を感じ、リラは「はぁぁぁ……」と今にも泣きそうな悲鳴を発する。
ロテにとっても、リラにとっても、この『食べる』という発言はなんら冗談とは思えなかった。先ほどのリムナルスに対し、ダールの分隊長が何をしても歯が立たなかったのだ。ワイヤーで縛っても力ずくで脱出し、銃弾の雨を食らった時でさえ『痛いけど面白い』と笑顔で繰り返すリムナルスに恐怖しないわけがなかった。
そうしてスカーロの恐ろしさを目の当たりにした後で、今度はもっと得体の知れないスカーロが『食べる』と言いながら近寄ってくる現実に、命の危険を感じないはずがあろうか。
リラはポーチから赤い盾を出し、「ディーヴァール!」と震える声で唱えた。2人の前に平らな六角形の、ピンク色の壁が発生した。その表面には白や黄色、水色の波紋が穏やかに震え、広がっていくる。
「VMTか?」
「はい。防御用VMTです、基本的なやつですけど……」
「おい、見ろコレ!」ロテはクフェルスに言った。「オレら食おうとしても無駄だからな。どっか行け!」
するとクフェルスはこの壁の端を両手でつかむと、軽々と持ち上げ、脇にどかしてしまった。
「え……」
「ちょっ、リラちゃん!」
パニックに陥りそうになりながらも、リラが次の呪文を唱えた。
「あ、えーと、ハヴァー!」
盾から放たれたのは緑色の絵具を筆でくるくると豪快に、バネ状に走らせて作ったかのような図形。これがまるでつむじ風のように回転しながらクフェルスにぶつかっていった。
絵具のつむじ風はクフェルスの周囲を巻きながら消えていった。彼女は一切動じないし、表情も変わらない。効き目は特になさそうだった。
ロテとリラは『まさか』という顔をしていた。
「リラちゃん、それって……攻撃VMT?」ロテが訊いた。
「アンチVMTフィールドはないはずなんですけど……」
「効いてねぇぞ?」
「スカーロ、強すぎます……」リラは泣きそうだった。
その会話の間に、クフェルスはゆっくりと一歩一歩、2人との距離を詰めてくる。
「あ、あのな――」ロテがクフェルスをより鋭くにらむ。「食うんだったら、オレだけにしとけ……リラちゃんは駄目だ!」
するとクフェルスは立ち止まり、もう一度「食べる」と言った。なぜか、その声色と表情はほんの少し、物悲しく思えるものだった。
彼女の態度の意味するところがわからず、ロテは何も言えなかった。そのまま、全員無言で一切動かない時間がしばらく続いた。
「なんだ……お前? どうした?」ロテが訊くが、クフェルスは少し物悲しい表情のまま答えない。
ここで、リラは全身ガタガタ震えつつも、ロテに伝える。「あの……今、スキャンしました」
「え? 何がわかった?」ロテはクフェルスから視線を外さない。
「あの人、食べる気ないみたいです」
「あぁ……?」
しかしこれを聞いてクフェルスは再度「食べる」と言った。若干、声色と表情は不満げに見える。
「本人は食べるっつってるぜ」
「でも……通常、生物が強い食欲を感じている時は、視床下部の弓状核や外側野、室傍核、腹内側核といった部位から様々なホルモンが生成されて――」
「おいおい! んなややこしい話してる場合かよ!」ロテはクフェルスから視線を外し、横目でリラを見るようにした。
「あ、ごめんなさい……どうしても、つい難しい説明をしちゃう癖があって」
「要するに、なんだ?」
「あの人はわたし達を食べる気は全然なくて、ただ遊びたいだけみたいです。脳波がそういってます」
「だとしてもよぉ、パーダルみてぇにされちまうぜ。さっきの見たろ? パーダルの野郎はサイボーグだから耐えれるけど、オレなんかスカーロに握られたら――」
その会話の隙に、クフェルスは一気にロテに近寄ってきた。
「どわっ!」
とっさに両手で顔を守ろうとするロテ。クフェルスはロテのすぐ前まで来ると、口を開き、そして――彼の顔を守っているその手を、一度その舌でなめた。
「あぁ? 何……」
「この人、これがしたいみたいです」リラが言った。「今、すごく喜んでるのがスキャンでわかります」
リラの言葉を裏付けるように、クフェルスの尻尾は激しく左右に揺れ始めた。
「マジかよ。なめるだけか? 食う気は無ぇんだよな?」
するとクフェルスはなめるのをやめ、ロテの目をまっすぐ見つめ「食べる」と言った。
「お前、紛らわしいんだよ。どっちなんだよ」
「ん」
クフェルスが小さく答えると、また口を開く。ロテは今度は、モヒカンヒレに歯が当たる感覚を得た。歯の先でそっと触れるような、痛みすらほとんど感じないものだった。むしろ気持ちいい。とはいえ、相手の意図が未だにわからないだけに不安は拭えない。
「ちょっ……大丈夫かこれ? 途中で急に気が変わって食い始めるなよ?」
ロテに答えるように、またクフェルスは「食べる」と言った。今までよりもゆっくりとした口調で、その表情はやはり少し不満げだった。