第9話 ナラム
ミスペンに声を掛けてきたのは、ピンク色のぷよぷよした生物。
いや、それを『生物』と呼んでいいのかと、ミスペンは瞬間的に自問しなくてはならなかった。
ちょうど、着色料が多めに入ったピーチゼリーをカップから皿に開けたような姿。違うのは大きくて丸いふたつの黒い目があるのと、頭に真っ赤な蝶結びのリボンを着けていること。ミスペンはそんな生き物など見たことがないのはもちろん、ゼリーという食べ物も知らないわけだが、しかし先ほどの世界で同じくらい変なモノを多数見ていたおかげで、叫んだり術を使ったりといった行為を反射的にしないで済んだ。
「あ、あ、ああ。心配、ない……まったく……」声が裏返りそうになりながらも、彼はこの生物に返事した。
「本当に大丈夫ですか? 顔色、悪いですよ」
『ピンク色の変な生き物に言われたくない』とミスペンは危うく言いそうになり、彼は急いで冷静さをつなぎとめた。
「いや。心配ありがとう。その、君は? 失礼だが、どういう……」
色々と接し方の難しいこの場所の住人だけに、どう尋ねたものかと思い、結果的にあいまいな質問になった。しかしこのピンクのゼリー状生物は快く答えてくれた。
「わたしですか? ただのナラムですよ」
ただの、と言われてもミスペンには『ナラム』という言葉自体が初めてだった。それが何を意味するのかも、にわかには判断できない。
「ナラム……?」
「えっ……。もしかして、ナラム、ご存じない……ですか? 私みたいな、ぷよぷよした生き物です。その辺にもいないですか?」
ナラムというゼリー状種族の説明をしながら、彼女はわずかに身体を波打たせる。
「わかった。もう覚えた」
「声を掛けてしまってご迷惑でした? ごめんなさい、ここが近道で。これから塾なんです。ビルの間通らないと、どうしても遠くなっちゃうんです」
さて、『じゅく』とはなんだろう。だが、余計なことを訊いている場合ではない。このナラムは見た目はともかく、多分信用できるのではないかとミスペンは感じた。
「いや。邪魔したね」
ミスペンは今できる限りの笑顔をしてみせたが、その顔が引きつっているかどうかまでは意識が回らなかった。その笑顔を見て、ピンクのぷるぷる生物はかえって心配そうな目つきになった。
「なんだったら私、回復できますよ」
と言ってゼリー状生物は、頼んでもいないのにどこからともなく赤い盾を出す。手がないのにどうやってこれを持っているのだろう、という疑問が生じたが、それどころではない。こんなふざけた世界でぷるぷるの生き物が盾を出して、一体何をしようというのだろう。危険な目に遭ってからでは遅い。相手が仮に善意で回復しようとしてくれていたのだとしても、人間には害かもしれない。
「待て、何をする気だ?」
「回復です。ヴァスリー!」
ミスペンの同意もないまま、彼女は呪文を唱えた。すると、かすかにうずいていた右目と右腕の傷が、少しだけ和らいだ気がする。効果は低いものの、ちゃんと回復してくれたらしい。
「あ……どうですか?」ナラムは言った。「あんまり効かなかったですか? 私、回復は習ったばっかりで」
「いや、よかったよ。ありがとう」
「あの、何か、お兄さんすごく怪我されてますけど」
「いいんだ。心配いらない」
「そうですか。じゃあ、失礼します」
ピンクのナラムは上のほうを一旦、少しだけミスペンのほうに下げ、また直立に戻る。その動きに合わせ、全身がぷるぷると波打った。ナラム流のお辞儀のようだが、ミスペンにはやはり理解できない。そして彼女は、その軟らかい身体をねじるようにしながら向きを変え、ミスペンの脇を通過した。背中側には濃いピンクのポーチのようなものがあり、そこから先ほど彼女の使った盾の端が見えている。
ミスペンは慌てて尋ねた。
「あの。よかったらでいいんだが、少し、教えてほしいんだ」
「えっ? はい」
ピンクのナラムはちょうど先ほどの動きを逆再生するように、身体をねじって向きを元に戻した。ミスペンの前に黒い2つの目がやってきた。
「その……ここは、どういう場所なんだ?」
「どこって、ソーバーギヤですよ」
「それは、知ってるんだ。もうちょっと、詳しくお願いできないか?」
すると彼女は望みどおりに詳しい説明をしてくれた。それは確かに詳しい説明ではあるが、しかし、ミスペンの予想とは大きく違うものだった。
「ソーバーギヤはゴーレイヤ市の繁華街とされている区域です。ゴーレイヤ市の中では人口密集地のひとつであり、多くのショッピングセンターのほか、オフィスビルも立ち並んでいます。中型港にも近く、時間帯によっては多くの人が行き交う重要な地域です。この区域の住民は3年前の調査によるとおよそ28万人ですが、昼間の人口はその6倍程度とされています。ちなみに現在のように超高層ビルが立ち並ぶようになったのはおよそ120年前とされていて、それまではこのあたりは広大な森林地帯でした。当時多くの合成獣がひしめいており、ヴァサント市など近隣都市の人々を苦しめて――」
彼女は無邪気な笑顔で、楽しそうに長々と教えてくれるが、ミスペンはめまいがしそうだった。こんな本格的な解説を聞きたかったわけではない。少なくとも今は、そんな時ではない。いずれ体調が万全な時に安心できる場所で彼女の知識をじっくり披露してもらえば、この奇妙な世界への理解が深まりそうだが、今知りたいのは、ここから出る方法なのだ。
「ああ……もういい。大丈夫だ、ありがとう」ミスペンはたまらず止めた。
「本当に大丈夫ですか? やっぱり、体調がよくないみたいですね」
「そうだな……。こういう場所は初めてで、少し疲れたんだ」
「観光客の方ですか?」
「かんこう?」ミスペンの知らない言葉だった。しかしこうして訊き返したのが間違いだったと彼はすぐに気づくことになる。また、このぷるぷる生物の長い講釈が始まったからだ。
「観光というのは、住んでいる場所から離れたところへ行き、名所や史跡などを見たり、あるいは名物を味わったり、そこでしかできない経験をしたりする行為のことです。あるいは、楽しむためにする旅全般のことをいいます。古くは――」
説明がいつまでも終わらなさそうなので、ミスペンは「なるほど」と割り込んで止めた。そして続ける。
「確かに私はここの出身ではないし、ここに来たのは今日が初めてだが、残念ながら楽しめてはいないな」
するとぷるぷる生物は悲しそうな顔をした。
「そうですか、残念です……でも、わたしもここは苦手なんです。塾に行くのに、ここを通らないと遠回りになるので」
ミスペンは『じゅく』という知らない言葉が気になったが、尋ねるわけにはいかない。この子は長々と説明したがる癖があるようだ。
ここでピンクのナラムは、声のトーンを少し下げて続けた。黒い目は心なしか、怪しんでいるようにも見える。
「あの……もしかしてお兄さん、記憶喪失だったりしますか?」
記憶喪失というのもまた、ミスペンの知らない言葉のひとつだった。しかし訊くわけにはいかない。もう長い説明はこりごりだ。初めから核心を突く質問をしておけばよかった。
「ここから出るにはどうしたらいい?」
「港は東にありますけど……ごめんなさい、今は案内できなくて。ジャナ、持ってますか? それで調べたらすぐわかります」
『駄目だ』という言葉がミスペンの脳をよぎる。また理解できない言葉が出てきた。処理能力の限界を超えてしまう。ジャナが何かを聞いたら、きっとその説明も意味不明なのだ。大体、港に行ったところでこの世界の金など持っていないのだ。せめて魔晶を持ってくることができていれば、こちらで換金できたかもしれないが。
できればこの子にずっとついてきてもらって、面倒を見てもらいたいところだ。しかしそんなことは頼めない。こんな優しい子まで冷たい視線を浴びたり、飲食店で陰口を言われたりするのは可哀想だ。
ピンクのゼリー状生物は、そうして黙っているミスペンの顔を見つめながら、ますます心配そうになっていく。
「すごい怪我してますよね。それで頭打って……。ヴィラームの人ですよね? 怪我で角もなくなっちゃってますよね。だったら……本格的に治療したほうがいいんじゃないでしょうか」
「いや、大丈夫だ。もう行こう」
「ちょっと救急車を呼びます。それで、治してもらいましょう。いや、ダールのほうがいいんですか、こういう場合って。だって、事件とかかもしれないですよね」
ナラムはポーチから、本人の体色と同じ濃ピンクの小さな板を出した。それは彼女の右目のすぐ前で浮いた状態で静止し、さらに顔の前に幅1mの大きな長方形が出現する。これが『ジャナ』の正体なのだが、ミスペンにはそんなことはわかるはずもない。
なんだこれはとミスペンが凝視している間に、彼女のぷるぷるとした身体の一部、口の下のあたりが出っ張り、長方形に触れた。ジャナの操作は繊細で、画面に触れている部分を小刻みに動かしたり、ツンツンと連続でつついたりと、楽器でも演奏しているかのようだった。その操作に合わせ、軟らかい身体は風に揺れるカーテンのように波打ち、浮き沈みしたりと細かい動きを始めた。
ミスペンはそれを何気なく見ていたが、やがて彼女が先ほど言った『ダール』という単語が気にかかった。先ほどの店で、『ダールに通報する』という言葉を聞いていたミスペンの脳裏に、とっさに『まずい』とよぎる。ダールに通報されることで何が待っているのかは不明だが、いいことは起きないような気がする。
「大丈夫だ! 心配しなくていい。ありがとう」言葉を残すと、ミスペンは足早にその場を去った。
「えっ、あのぉー!?」
ピンクのナラムは高い声を張り上げたが、追ってこなかった。