第7話 刺激の雨
時は少しさかのぼる。クイ達が森の中をさまよっていた頃、また別の複雑怪奇な場所で、紫のローブで全身と右目を巻いた男は混乱していた。
「な、な、な……なんだ……。なんだ、ここは……!!」
ミスペンは周囲を見回し、思わず声を発さずにいられなかった。
見たこと、聞いたことのあるものが、ここにはひとつもない。本当に地面から空、建物、道行く人、音楽まですべてが、そんなものが現実にあるとも想像したことがないものばかりだった。
鏡のように磨き上げられた派手な色の地面や壁。激しい光が明滅を繰り返す読めない文字で書かれた看板。現実と遜色ない超高画質、超高精細の巨大街頭ビジョンではきらびやかな格好をした、ミスペンの知るどんな美女よりも美しい女性がいきいきとした魅力的な表情で歌っている。見上げれば頂上すら見えないほどカラフルで高いビルが所狭しとそびえ立ち、それらが血管のように張り巡らされた渡り廊下でつながる。その間を、数えきれないほど多くの四角い箱が、互いにぶつかることもなく、鳥をも上回る高速で飛び交っている。それらに遮られて空はほとんど見えなかったが、空の色はどうやら青ではなく紫色のようだった。
道行く人々はみな角が生えていて、片目の前に灰色の半透明の正方形が浮かんでいた。やたらときめの細かい生地を使った、デザインも非常に洗練された服を着ている。彼らは派手な風景と激しい音楽にまったく疑問もないらしく、まるで心がないかのように一定の速度でそれぞれの方向へ歩いていく。ミスペンと目が合っても見なかったことにしているらしく、すぐに視線を逸らす。
聴覚もまた、四方八方からの痛烈な刺激を免れない。飲食店や衣料店が奏でる音楽、時計が時刻を知らせる音、どこかから聞こえるニュースや政治家の選挙活動、それらの間に様々な機械の作動音が這いまわる。それらがガチャガチャとせめぎ合い、潰し合い、もはやどれが何の音かまったくわからない。
「あぁぁぁ……ユウト? ターニャ……いないのか? 私は……ここに独りか?」
本来、ミスペンは独り言の多い人物ではないが、声を出して気を紛らわしていないと正気を失ってしまいそうだ。彼は確かに異世界に飛ばされる前の世界で王族とともに過ごしていたし、宮廷楽師の奏でるハープや音楽も日常的に聞いてはいたが、この街の激しさには及ぶべくもない。
「ああ……頭が痛い。頭が……。くそ……くそっ!」
目を閉じ、左手で耳を塞ぐ。しかし片耳を塞いだだけではほとんど意味がない。
プルイーリのそばからこんな場所まで突然飛ばされてきた原因は『手鏡』だろう。他には考えられない。どうせこんな世界に飛ばしてくれるなら、なぜ腕が2本ある時にしてくれなかったのだろう。暴れ回り、そこら中を破壊してしまいたい衝動が瞬間的に込み上げてくるのを我慢し、理性を必死で保った。
「はぁ……はぁ……」
この、歩いているだけで気がおかしくなりそうな場所から脱出するため、ミスペンはなんとか歩いた。こんな場所にいようと、一番重要なのが情報だということを理解できる冷静さを彼は維持していた。
ある渡り廊下を支える太い柱の陰に長いベンチがある。そこに座っている小柄な黒い人影があった。彼の目の前には小さな四角形が目に張りつくように存在しており、すぐ前には横幅1mの長方形が浮いていた。彼は長方形をしきりに細かく指で触れているようだが、ミスペンはジャナを見るのがこれが初めてなので、彼が何をしているのかまったくわからなかった。
質の高い生地で織られた黒い単純な構造の服を着ており、頭にはクランク状に折れ曲がった角と、触覚らしき長い器官が一対ずつあった。背丈は低く、ドーペントやクイなどと同じくらいだ。
この少年のような人物に対してミスペンは訊きたいことだらけだったが、まず何よりも知りたいことを優先した。
「ああ……君、……すまない。いくつか、聞きたい、んだ」ミスペンは手で左耳を押さえながら、やっとの思いで小柄な人物に話しかけた。
黒い服の小柄な人物はまず手を止め、「はい」と返事してから、ジャナから目を離し、話しかけてきた人物を見る。そして、二度見した。『こいつは何者なんだ』という感情が顔に出るのを抑えきれないようだった。当然だろう、ミスペンはこの謎めいた街を行き交う者達と比べれば服も粗末だし、角も触覚もなければ、片腕も片目もない。そんなことは百も承知だ。
「すまない、ここは? なんという、場所だ?」ミスペンは尋ねる。
「ソーバーギヤですけど……」この触覚の人物の声は外見の小柄さに比して、若干低かった。発声も落ち着いており、外見が少年らしいだけで中身は大人という印象を与える。
「何……?」
「ゴーレイヤ市の、ソーバーギヤ区です」
小柄な人物は同じ表情と口調で説明を加えてくれる。ただ、聞いたことのない地名だ。ミスペンが知りたかったのは地名ではなく、もっと具体的な情報なのだ。ここがこんなにも複雑でやかましい理由は何か、静かな場所はないか。はぐれた仲間が近くにいないか。そんな話を引き出すにはどうすればいいか考えていると、この人物はさらに別の地名を出す。
「ヴァンミン島のサールターク州ですけど……」
どれがどれだかわからない。どうして1ヶ所を表すのに4つも地名が要るのだろう? ミスペンは質問を変えることにした。
「どうしてここは、こんなに、うるさいんだ」
黒い服の人物は、ミスペンの顔を凝視したまま何も答えなかった。彼は不安な表情をしている。あまり聞こえなかったのかもしれないと思い、ミスペンは表現を変えた。
「うるさい。本当に……。静かな場所はないか? こんなとこにいたら頭がおかしくなる。君はそう思わないか?」
しかし、この質問に対する触覚の人物の答えは実にそっけないものだった。
「すいませんが、用事がありますので」
「え? おい、ちょっと!」
そして触覚の人物は去っていく。どこか、せいせいしたような背中で。それを見送り、またミスペンは周囲をぼんやりと見た。
「な……なんだ? 一体ここは……」
今の反応はなんだったのか、なぜ何も言わずに去ったのか。考える暇もなくミスペンは周囲から嫌な視線を感じ始める。そしてひそひそと話す声も。きっと気のせいではない。見回すと、遠くで先ほどの彼と同じように折れ曲がった角のある小柄な種族や、頭からカールした角の生えた悪魔のような外見の種族が数人、ミスペンを見ていた。まさに汚いものを見るような目で。きっと彼らがこの場所の住人なのだろうが、彼らはミスペンに見られるやいなや退散していく。まるで彼の視線が有害であるかのように。先ほどまでいたアキーリやプルイーリとは違う、温かみのない視線だ。闘技場で自分が負かした選手の死体に観客が注いでいたような。あるいは、王族や貴族が使用人に向けていたような。もしくは一般の人々が乞食や浮浪者を見ていたときのような。まさか、自分がそのような扱いを受けることになるとは。
こんな場所からは一刻も早く離れてしまいたいが、どこに行けば安全かもわからない。途方に暮れていると、今度はどこかから爽やかな男の声が流れてくる。それは他の騒音を突き抜けて、ミスペンの耳に明瞭に聞こえた。
「高校ラライ、地区予選一回戦の主な結果をお知らせします。ゴーレイヤ市はサーファルタがシュッターマンに8-0で圧勝。今年注目のパクワーン・ダクシンは、同じく強豪のサチチー・ニシュタを接戦の末、2-1で破り二回戦進出。ジャルナー市は……」
男の声は聞き取れないくらい速く、明瞭な発音で何かを説明し続けた。こんなに滑舌のいい喋りをミスペンは人生で一度も聞いたことがない。貴族や詩人で弁舌の卓越した者は何人も思い浮かぶが、それらとはまったく比べ物にならない。
何について喋っているのかはどれだけ聞いてもわからない。それでも騒音の雨の中、住民が冷たい視線を刺してくるばかりのこの場所で、滑らかに語り続ける男の声は、ミスペンにとってまるで心地よい歌のように聞こえたのだ。
「何を言ってるんだ……?」
声のするほうへ行こうかと、ミスペンは少し迷った。いいことは起きない気がするが、他にやりようのない今、とにかく情報が欲しかった。
意を決して声が聞こえるほうへ行くと、大きく開けた窓の向こうで数人が何かを食べているようだった。見たこともない料理だが、あまり見つめるとまた嫌な視線を浴びると思い、建物の中の様子からは視線を逸らして入口を探すことにした。しかし、この建物は全体が大きな窓ばかりでできているように見える。どうやって入ればいいのだろう? 滑舌のいい声を聞ければいいだけなのだ。そうして気持ちを落ち着けてから、なんとか脱出する手段を見つけよう。
そう思ってこの建物の周りを歩いていたら、窓の一角が開き、とても美味しそうな香ばしい肉とスパイスの匂いがしてきた。流暢な男の喋りの音量が上がってミスペンは嬉しくなるが、開いた窓から女性が一人出てきて気を引き締める。それは頭にカールした羊のような一対の黒い角が生えた、すらりとした長身で、とても品のよさそうな、執事のような格好をした人物だった。
「いらっしゃいませ。何名様ですか?」
カール角の女性は言った。やはり、ミスペンをとても警戒しているようだった。