第3話 ネズミ
3人は不安を胸に抱え、また歩き始めた。しかし、森はさらに深くなっていく。木々はほとんど空も見えないほど密集し、地面にはぬかるんでいるところもある。辺りに漂う不穏な気配は、彼らの表情をますます陰らせていった。
「あれっ、足に泥がついちゃった」クイはぬかるみを踏んだ足を上げ、泥を確かめている。
「足場が悪いなー。こんなとこ、知らない」レドも、履いている緑色の大きなブーツをぬかるみから引き上げるのに少し苦労していた。
「不思議な森ですね」パフィオは角に引っ掛かった木の枝を取り除く。
「変なとこばっかり……。なんでだろ、迷ったのかな」クイは焦ったように周囲を見回す。
「本当にここは、レドさんが言ってた町なんでしょうか」
「うん、そうだと思うよ。絶対ハルタスがこの辺にある」
「じゃあ、信じるよ」
歩けど歩けど、どこにも着かない時間が続く。3人の心は本格的に不安になってきた。それを覆い隠すためか、場が静かにならないよう彼らは会話を続ける。
「そういえばエクジースティ、知ってる? あたし、会ったことあるんだ」
「僕も!」「わたしもです」クイとパフィオは同時に答えた。
「ほんとに? すごいね」
「レドが会った時はどんな感じだったの?」
「ユウトがやっつけてくれたんだ。あいつがいなかったら、勝てたかどうかわかんない」
「やっぱりユウトは強いよね。ドーペントも言ってたよ」
「ドーペント? 誰それ」
「ドーペントはカエル。ユウトが人殺しって言われてたのに、ずっと仲良くしてて、アキーリのみんなは変わってるって言ってたけど、いい奴だよ。ユウトと仲良くしてたせいで、ドーペントもテテもみんなに避けられてたけど、気にしてなかったみたい」
クイはレドに気を許したからなのか、思ったままを適当に喋っているらしい。アキーリで起きていたことを、先ほどクイから少し聞いただけのレドには、どうにも感覚がつかみづらい話なのだが、彼女はなんとなく「そっか……」と受けた。
「そうですね。ドーペントさんもテテさんも優しくていい人です」
「楽しくやってたみたいだね、君ら」レドが言った。
「楽しかったよ。あ! あとね、僕ら、ものすごい数のエクジースティに遭ったんだ」
「えっ!? エクジースティがものすごい数いるの?」レドは声を大きくする。
「本当だよ。ユウトとか、パフィオとかが頑張ってやっつけたんだ」
「ラヴァールさん達も助けて下さいました」パフィオが続く。
「嘘でしょ? そんなこと起きてたんだ」
「本当なんです」
「パフィオって、クイが言ってたけど、やっぱり強いんだ? スカーロだもんね」
「すごく強いよ!」クイは明るく答える。
「すごいなー。スカーロってみんな強いんでしょ?」
「強いのって、すごいことでしょうか。わたし、そんなに戦いたくないんです……。魔獣さんをやっつけたくなくて」
「パフィオはすごく優しいんだ」
「そうだよね、優しいね。魔獣『さん』って呼ぶんだね」レドも優しい笑顔になっている。
「変でしょうか……?」
「魔獣は魔獣じゃないの? 魔獣は人じゃないよ」
「でも……私はできたら魔獣さんとも仲良くなりたいです」
「無理だと思うけど……でも、なれたらいいよね」
その時、小鳥の群れだろうか。遠くで騒がしく、ピピピッ……と鳴きながらどこかへ飛んでいく。
「なんの音だろう? さっきから聞こえるけど」
「あれはね、鳥の声だよ」
「声? じゃあ、喋ってるの?」
「よくわかんない。この森、不思議なんだ。さっき、僕と同じような見た目なのに、すごくちっちゃい鳥を見つけたんだ」
「そうなんですか?」
「すごいね、それ! 不思議!」
「そうなんだ。しかも、さっき遠くで飛んでたあいつらみたいに、ピーピー鳴くんだよ」
「喋らないってこと?」
「なんて喋ってるか、全然わかんないんだ。しかもすぐ逃げちゃった」
すると3人の目の前を、蚊かハエか、羽の生えた虫が何匹も飛んでくる。
「わあ、何これ。ちっちゃいの!」
「なんだろう? 不思議!」
虫の一匹がクイの周りを飛び始めた。しつこく顔の周りでブンブンと、その小さな存在を主張し続けた。クイは首を振り、はばたいて振り払おうとする。顔からは離れたが、依然クイの近くでぐるぐる飛び回っている。
「ちょっと、君! なんの用? 挨拶くらいしてよ!」クイが虫に不満をぶつけても、もちろん反応はない。
「なんだろう、クイのこと気に入ったのかな?」レドが言った。
「そうですね」
「一緒に飛びたいのかも!」レドが言う。
「よーし、じゃあ飛ぼう!」
クイは羽ばたいて空を飛び、そこらを一周した。戻ってくると、虫はもういなくなっていた。
「あれ? さっきのあいつ、いなくなっちゃった」
「なんだったんでしょう?」
「まあいいや。行こうよ」
クイとパフィオが先へ進もうとするのを、「待って」とレドが止める。「ねえ、クイ。空からこの辺見たでしょ? 町はあった?」
「あ、ごめん! それどころじゃなかった」
「えー?」
「でも、ちょっと見た感じ、その辺はずっと森だったよ」
「えっ……」
「町はどこにあるんでしょう?」
「もう一回飛んでよ。高く飛んだら、多分すぐわかる……」
言い終わる前に、ドドドォーン!! 落雷のような、とても大きな音がした。
「うわっ、何? なんの音?」
「パフィオ、本当に大きいよね」
「ごめんなさい。お腹がすきました」パフィオは、落雷の前後のようにまだゴロゴロと鳴る腹を押さえ、少し恥ずかしそうに言った。
「パフィオってお腹がすくとそんな音がするんだね」レドは腹を押さえるパフィオの手を見て言った。
「うーん、グランダ・スカーロにいた時はみんなこういうお腹の音だと思ってたんですけど、国の外はそうじゃないみたいですね」
「お腹が空いたら、グーグーって鳴るよ」レドが言う。
「いびきみたいな音ですね」
その時、遠くから何かバキバキと物騒な物音が聞こえる。バサバサ、小さな鳥が10羽ほど飛び立った。ピーピー、チチチチと、鳥がやかましく鳴くのも聞こえる。
「パフィオのお腹って、バキバキって音もするの?」レドが訊く。
「いいえ、そういう音はしないです」
「じゃあ、誰か木、折ってるの?」クイが訊いた。
「木? なんで?」
「そういう音に聞こえるよ」
バキバキ、バリバリと、木を折るような音はひっきりなしに聞こえる。しかも、どんどん大きくなってくる。
「多分、誰かが木を切ってるんだ。家を作りたいんだと思うよ」クイが気楽な感じで言う。
「木を切るのって、ああいう音だったっけ?」レドがいぶかしむ。
「木を直接手で折ってるんでしょうか」パフィオが言う。
「それはさすがに、スカーロじゃないとできないかも……」クイが少し呆れながら言った。
「あっ、そうでしたよね。アリーアの皆さんと会わないと、わからないことでした」
「アリーア?」レドが身体を少し左にひねった。
「あなた方のような鳥とか野菜とかの人達を、私達スカーロはアリーアと呼びます」
「うーん? 不思議だなぁ、そうなんだ」
「僕、見てくるよ。あの人が皆の居場所、知ってるかも」
「はーい、行ってらっしゃーい」
クイは飛び立ち、様子を見に行った。
音がしている現場はすぐにわかった。明らかに森の一角がわさわさと不自然に揺れていたからだ。高度を下げて近づくと、木の根元が大きな茂みで覆われている。その茂みの向こうに、灰色の丸い物体ふたつがもぞもぞ動いているのがわかった。少し大きい気はしたが、色と形状はネズミの耳のようだった。
「おーい! 何してんの?」
クイは話しかけた。ネズミの耳はその瞬間、動きを止めた。
「君、エルタっていう七面鳥と一緒にいたネズミだよね? 家作りたいの?」
ネズミは反応しなかった。ハァ、ハァという息遣いだけが聞こえる。エルタの連れていたネズミはこんなに息が荒くなかった。口数が多くて、下品な喋り方だったはずだ。クイは、何かがおかしい気がした。
「どうしたの? なんか言って――」
クイが言い終わる前に、ネズミは顔を上げた。
その顔を見たクイは、言葉を呑み込まざるを得なかった。そして、「へっ?」と小さく声を発した。いや、声というよりは、息を勢いよく吸うような発音に近かった。
顔を上げたそれは、ネズミと似ているが、しかし絶対にネズミではない。醜く凶悪な何かだ。
二つの耳と長い髭、前歯。特徴からいえばネズミのはずだが、しかし黄色いつり上がった目には瞳孔がない。そして、牙があまりにも鋭く長く、前歯以外に口全体から何十本も、上に下に飛び出していた。
「だっ……、誰……」クイの声は震えていた。
「ガゴグァゴアァァァ!!」
ネズミが口を開け、黄色い唾とともにこの世のものとは思えない咆哮を放つ。紫色の口の中には数百本もの鋭い牙がひしめいていた。
「うわあぁぁぁぁ!!」
クイは、生まれてからおよそ出したこともない悲鳴を上げ、力の限り飛んで逃げた。後ろから膨大な重量を持つ何かが、ドシン、ドシンと森を震わせ、ベキベキと木をへし折りながら追ってくるのがわかった。
あれがネズミでないことは明白だが、それならどういう生き物なのか。その答えをクイは、一片も持っていなかった。
クイはレドとパフィオのもとに飛んで帰ってきた。恐怖のあまりうまく着地できず、地面に腹をぶつけ、落ち葉を散らしながら軟着陸した。
「クイさん!」「大丈夫!?」
パフィオとレドがクイのもとに駆け寄る。
「あっあっあぁ……!」
落ち葉にまみれながら、クイは激しく震え、目を固くつぶっている。
「どうしたの、何がいたの!」
「わかんない……! わかんない……!」クイのくちばしがカタカタ鳴る。
「何がいたんでしょう?」
「さっき、聞いたことない声がしたよ。エクジースティの声でもない!」
「見たことない魔獣でしょうか?」
話していると、地面が微かに揺れるのを感じた。恐ろしい咆哮も聞こえる。
「ングォアァァァァ……!」
「何、今の声!」
「ほら、あいつ! あいつ! 近づいてる! ここに、来る!」
クイは震えながら必死に伝えた。それを見てレドは唾を呑み、武器の三角ホーを背中の鞘から抜いた。
「パフィオ、戦おう! きっとすごく強い魔獣だよ、力を貸して!」
「はい。戦うのは嫌ですが、仕方ありません」パフィオも覚悟を決めた顔をしていた。
次第に直後、木々を食い破りながら現れたのは、3人にとって想像したこともない、そして、一生忘れることもできないであろう、異常な姿の生物だった。