目黒童貞
超短編です。
目黒駅の改札を抜けると、そこには高層ビルに囲まれた緑が広がっていた。白いレンガの歩道と、ラウンドアバウトのような交差点。信号機の点滅はいつもより早く、涼しい風がビルの間を吹き抜けていた。
夏も終わろうとしていた頃だった。ふと右の方から視線を感じて目を見遣る。視線の主は思ったよりも下にいた。自分が出てきた建物の白い階段、その隅っこの方に、ポツンとその黒猫は座っていた。黒い瞳がじっとこちらを見つめていた。
次の瞬間、私は周りから人が消えていることに気付いた。嘘だろうと思った。振り返っても、あの人混みはいつの間にか消え失せていた。頬にひんやりとした風が当たった。
これはどういうことだろうと、再び黒猫の方を見ようとした。しかし、そこにはもう黒猫はいなかった。私は自分が一人であることに気付いた。もしかしたら、いやそんなはずはないが、私は今、この世界に一人かもしれない。
私は、横断歩道を渡った。道からは車が消えていた。コンビニも電気はついているものの、中には客の姿も店員の姿も見えない。街から人の空気が消えていた。ひとまず、手近な大きなオフィルビルに入ってみた。案の定広いロビーには誰もいない。建物の中は明るく、ここに自分しかいないと思うことは難しかった。エレベーターは何となく怖いような気がして、非常階段を使って上の階へと上がった。階を上がるたびに静けさが増していって、それは恐怖へと変わった。さすがに怖くなって、階段を五度ほど曲がったところで扉を開けてみた。そっと扉を開けてみると、中からひんやりとした空気を感じた。不安を感じながら扉の奥を覗いてみる。やはり、誰もいなかった。
その後十分くらいだろうか。急ぎ足ですべての部屋を回ってみたが、どの部屋ももぬけの殻だった。蛍光灯の白さが不気味さをかき消していた。私はいよいよ分からなくなって、来た道を戻って再びビルの外へ出た。
きっと、このビルには誰もいないだろう。それはこの辺りの建物もすべて同じで、見える場所、いや、見えない場所もきっと、人がすべて消えているだろう。相変わらず車の通りもなかった。赤信号の横断歩道を待って、目黒駅へ戻ることにした。頭は嫌に冷静だった。この状況はまだ、思考の余地が多分に残されている気がした。
信号が青に変わり、横断歩道を渡る。目黒駅の階段を登り、誰もいないカフェを横目に改札の方へ向かう。すると、改札の上に怖い物体が乗っていることの気がついた。それは黒猫だった。黒猫は、じっと真っ直ぐを見つめていた。私は黒猫の真正面へ行き、その目をみた。目はしっかりとこちらを向いているのに、どこか私を見ていないようで、どこか遠くを見透かしているようだった。ふと、改札奥のエスカレーターから人が上がってくるのが見えた。髪、頭、肩と見えるにつれ、一瞬身構えた。
ふと気がつくと、左の方から声がする。ちらと見ると、自分と同じくらいの女性がこちらに歩いてきていた。私は一瞬を置いて、理解した。再び改札の方を見ると、黒猫が消えていた。自分の推測を確かめるように辺りを見回すと、人が戻っていた。こんなに人は少なかったっけ、と思うけれど、またしばらくしたら人が溢れてきた。私は鼻と肩で呼吸した。
「よう」
後ろか前か、私を呼ぶ声がした。そうか、私は約束をしていたのだった。
「俺目黒童貞だからさ!」
そう言う男は、私に店を求めた。
「いや、私もあんまり知らないです」
時計の針を見ると、約束の時間を2分ほど過ぎていた。
周りにはいつもと変わらず人がいる。冷や汗が頬を流れた。