正の正しい日常「名前」
登場人物
正…………戦時中生まれの頑固おやじ
聡子………正の娘
良太……聡子の息子
正が憤然としている。
「最近の子どもの名前は読めん! すぐに読める名前にせんといかん! こんなふうに」
そう言って、娘の聡子の前で書いてみせた。〈友和〉と。
「ほら、これならすぐ読めるやろ!」
聡子は自宅で小説の翻訳をしている。まもなく80歳になる父と、仕方なく同居していた。正の生まれてはじめての記憶は、母に手を引かれて空爆から逃げるところだったそうだ。聡子は父の書いた名前に目をやった。
「まあね。これを、ともかずって読めない人は、あんまりいないかもしれないけど」
いかにもしぶしぶという風情で聡子は同意した。
「そうやろ、こいうぱっと見てすぐ読める名前じゃないと、子どもが不幸になるんじゃ!」
人の幸不幸を勝手に決めつけるな、と、聡子は腹が立った。このおやじはいつもこうだ。そこでこう応じる。
「でも最近の子どもたちの名前も、よく考えてつけたんだろうな、って思ったりするよ。それにだいいち、人の名前に文句をつけるのってどうかと思う」
「なにをいっとるんじゃおまえは! すぐに覚えてもらえる名前じゃからこそ、おお、聡子ちゃん!って挨拶をしてもらえるんじゃろうが。挨拶は大事じゃ、挨拶は!」
「名前の話じゃなかったの……」
「なにをいっとるんじゃ! 挨拶もできんでどげんするとか! そげんことやけん良太はいつまでたっても挨拶ができんとじゃ!」
「だから良太は自閉症だから挨拶が苦手なんだって、何度言ったらわかるの」
「知ったことか! 挨拶もできんでどげんするとか!」
そこにひょっこりと良太が顔を出した。11歳になる正の孫、聡子の息子である。
「ほら良太! 挨拶は! おおそうじゃ、この名前、おまえも読めるじゃろう!」
〈友和〉と書かれた紙をしげしげと見て、良太が言う。
「うん、ゆわちゃんね、友だちにもいるよ」