【第一章】帰郷
霧に包まれた廃村、山に鳴り響く物の怪たちの唸り声。
「かかってこい、亡者」
鈴紅の鋭い声が、髪を振り乱しながら向かってくる山姫の耳に届いた。
亡者──。
山姫が人間であった頃、山奥の小さな村で、生活は貧しかったが、村人は仲睦まじく暮らしていた。決して楽な生活ではない、それでも、村人は懸命に生きていた。
ある日、霧に紛れて頭から二本の角を生やした鬼がケタケタと笑いながら、村に押し入って、村人を無差別に殺していった。少女の家族も殺されてしまった。押し入れの中に身を隠していた少女は、両親の断末魔を聞きながら、怯えていた。
ついさっきまで一緒に遊んでいた友達も、氷漬けにされていた。
唯一生き残った少女は、静まり返った村を歩き回り、山を下る途中で力尽きた。寂しさのあまり、少女は山姫となって人を襲い始めた。母や友が恋しくて、女や子供を中心に攫うようになった。
村はあんなに賑やかだったのに、今は誰もいない、静かで霧に包まれた廃村へと変わり果ててしまった。この村は、もっと人がいなくては駄目なのだ、足りないのだ。
飛びついてきた山姫の腹を、曼珠沙華が掠った。それだけなのに、尋常ではない熱と痛みが山姫の体を駆け抜ける。鈴紅のぎらぎらと輝く金色の瞳は山姫の細かな動きをしっかりと捉えている。山姫が近づいても、攻撃を繰り出しても、曼珠沙華で尽く跳ね返される。
──コイツ、強い…!
鬼だから当然だ。今まで攫ってきた人間たちとは格が違う。鬼神という存在を知ったのは、山に迷い込んだ小妖怪たちの話を聞いてからだ。妖を統率する鬼神の力は、聞いていた話よりももっと強大なものだった。
味方につけた物の怪たちも、先に迷い込んできた妖退治屋と巫女のせいで随分と数が減ってきている。
「何をしている、馬鹿どもめ…!」
山姫は物の怪たちの役立たずぶりに舌打ちをすると、やっとの思いで鈴紅の首筋に食らいついた。
「遅い」
鈴紅は山姫の耳元でそう囁いて、山姫をがっちりと抱きしめる。鬼の力は強く、がむしゃらにもがく山姫をしっかりと捕まえながら、曼珠沙華で腹を貫いた。
山姫は短く唸って、鈴紅の首筋に突き立てていた牙をゆっくりと引き抜き、震える手で鈴紅を押し返した。
山姫はふらふらと鈴紅から離れ、膝から崩れ落ちる。その瞬間、物の怪たちの動きも止まった。
「止まった…?」
八重と蛍助は顔を見合わせ、次いでその場で停止している物の怪を訝しげに見つめる。
着物の内側から血が滲み出し、全く治る気がしない腹に、手を当てて呆然とする山姫。
「だって、寂しかった…皆、突然居なくなって…寂しかった…」
山姫は鈴紅を見上げて、唇の端を吊り上げて、涙を零す。
「似てる、似てる。村を滅ぼしたあの鬼に…」
鈴紅は眉間に皺を寄せて、優しい声をかけた。
「あなたはこの村を、家族を、友を奪われた怨みに突き動かされて、妖になってしまったのね」
まるで童のごとく、ぼろぼろと涙を溢れさせながら、山姫はこう言った。
「あの女はね、みんなを殺しながら、ブツブツと言っていたの。──鈴紅はどこ、鈴紅はどこって…」
鈴紅の目が見開かれる。その女は、一体誰だ。鈴紅という本当の名前を知る者は限られている。叔父夫婦の御屋敷が襲われてからは、その数はかなり減った。山姫の村を襲った鬼は、一体誰だ。
「──」
もっと話を聞きたかったのに、山姫は座り込んだまま、息を引き取ってしまった。鈴紅は腰を下ろして、開きっぱなしの瞼をそっと閉ざしてあげると、両手を合わせた。
山を包み込むように集まっていた霧がさあっと引いて、視界が晴れると、物の怪たちもいつの間にか消えていく。その代わり、攫われた人間たちが地に転がっていた。八重は慌てて人間たちに駆け寄って胸に耳を当てると、口角を上げて嬉しそうに蛍助と鈴紅を呼んだ。
「みんな、生きてるわ!」
蛍助と鈴紅は八重の言葉に安堵し、頷いた。早急に人間たちの傷の手当をし、突然一人増えているのは不自然だろうということで、鈴紅だけが別の道を通って山を下った。
別れ際に、蛍助と八重の仲が深まっているのを悟り、鈴紅は複雑な気持ちで俯くのであった。
…………
山姫の死体は霧の部族に引き取られ、供養してもらい、山の中の廃村には多くの司祭が集まり、邪気を払った。
攫われた人間たちの中には、助かった者もいれば、間に合わず息を引き取った者もいた。鈴紅の依頼人の子は、運良く息を吹き返したらしく、そのためか、対価をより多く受け取ることが出来た。結局はそれも頭領に流れていくのだが。
「余計なことをしたな」
鈴紅にそう、冷たく言い放ったのは、今回受け取った財宝を片手に、鈴紅を睨みつける頭領だ。
「如月を利用しろと申したではないか、我の話を聞いていなかったのか。まあ良い、おかげで大儲けだ。大目に見てやろう」
頭領はそう言って、懐から文を取り出して鈴紅に差し出した。
「如月からだ」
鈴紅は両手で文を受け取ると、その場で開いた。内容は大したことはない、ただ、濡烏の歌声を聞いてみたいという依頼の手紙だった。
「今までは格下の者共を相手にしてきたが、あやつは鬼神、慎重に行動せよ。ゆっくりで良い、確実に奴を仕留めろ」
鈴紅の心臓がドキリと跳ね上がる。何の罪もない相手を殺すのは、これが初めてだ。
成功すれば、貧困状態の屋敷に金が回ってくる。それに、捕らえられている叔父夫婦を解放してもらえるかもしれない。でも、失敗すれば、姉と同じ仕打ちを受けることになるかもしれない。
自分を守って自害した姉の姿が脳裏に浮かんで、鈴紅の背筋が凍る。
「あの…叔父と叔母は、無事ですか…? ちゃんと、生きているのでしょうか」
震える声で問いかけると、頭領が耳元まで近づいて囁いた。
「もちろん、あの窮屈な檻の中で必死に耐えている。忘れるな、義覚と義賢の命は我に委ねられておる。お前が役割を全うすれば、二人は救われるのだ」
頭領は、鈴紅に対して平然と嘘をついた。鈴紅の叔父と叔母は屋敷が襲撃された際に始末されたのだ。鈴紅は檻に閉じ込められた偽物を見せられて、騙されたまま頭領に従っている。
──健気なものだな、実に滑稽だ。
「文月、良いな」
まるで念を押すように問いかけられ、鈴紅は頷かざるを得なかった。
……………
如月は草木帳の都を治めており、都の中心にある大屋敷を住居としていた。草木帳はどの都よりも規模が大きく、景観が美しい場所であった。
鈴紅は文月として丁重に扱われ、快く迎えられた。
「ようこそ、おいでくださいました」
初めて会った草木帳の当主は、優しく朗らかな女性だった。如月は、子を持つ女として、鈴紅に物腰柔らかな印象を与えた。
鈴紅は震える手を押さえつけて、深々と頭を下げた。
「お初にお目にかかります、如月様。私、滅を司る鬼神、文月と申します」
動揺しているのを悟られぬように、堂々とした口調で名乗ると、如月は口元を袖で隠しながらクスクスと笑う。
「私が真を司る鬼神、如月です。そう固くならないで、文月様」
そう言われても、色んな意味で緊張が走り、なかなかほぐれない。すると、如月は懐から飴玉を取り出して鈴紅に差し出した。鈴紅は飴玉をじっと見つめて瞬きを繰り返した。
「先程、都に住む子供たちに貰ったのです。おひとつ、どうですか?」
にこりと笑う如月をポカンとした表情で見つめていると、如月の家臣がこういうお方なのですと、鈴紅に耳打ちする。
鈴紅は恐る恐る手を伸ばし、如月から飴玉を受け取った。こんなことをされては、罪悪感が増すばかりだ。
その日の夜、宴が開かれて屋敷には大勢の妖が集った。如月は身分関係なく、都の者たちを家族のように迎え入れた。
優しそうな笑みを見て、鈴紅の心が痛んだ。如月はそんな鈴紅に気づかず、話しかけた。
「申し訳ありません、練清と練徳も誘ったのに、今日は来ないみたいで」
「練清…練徳…?」
「私の二人の息子です。宴には興味が無いと言ったっきり、遊びに出かけてしまって…」
練清と練徳、それが如月の長男、次男の名前らしい。たいそう立派な名を付けてもらったものだ。
「無礼をお許しください、後で叱っておきますので」
「いいえ、気になさらないでください」
鈴紅が優しい笑みを浮かべて首を振ると、息子たちの無礼に眉をひそめていた如月の頬が自然と緩んだ。
「あなたは、本当に優しいお方なのですね」
普通の会話に聞こえるが、如月が言ったこの言葉には深い意味があった。真を司る鬼神とは、真偽を見抜く能力を持っており、それゆえに相手がどんな性格なのかも見抜いてしまうのだ。
"文月"は初めて会話を交わした時から今まで、本当のことしか口にしていない。丁寧な言葉遣いは、ただの見せかけではなく、全て文月が心の底から思っていることだった。
如月は文月という鬼神がだんだん分かってきた。
「歌ってください、濡烏」
如月に促され、鈴紅は宴の中心に立つ。妖たちは黒髪の美しい女に注目する。
ふと、鈴紅の目に、妖たちに囲まれて優しく微笑む如月が映る。あのお方を本当に殺していいのだろうか。頭領の顔がチラついて迷いが生じる。どこからか感じる視線、どうやら鈴紅が余計なことをしないように、頭領の手先が見張っているらしい。
しかし、鈴紅は拳を握りしめて、如月をまっすぐ見据えて歌い始めた。
──真実を、あの方に伝えよう。
鈴紅の心地よい歌声に、皆が幸せそうに瞳を伏せている中、 如月だけは険しい顔つきで鈴紅を見つめている。
鈴紅も、如月の目をじっと見てそらさない。
(何を伝えたいの、文月様…)
鈴紅の歌から、色んな情報が如月の頭の中に流れてくる。大切な人を想う素敵な歌のはずなのに、如月には全て嘘に聞こえてくる。聞けば聞くほど、如月は生きては行けないと聞かされているようだ。
それに加えて、鈴紅の目は真剣で、如月から一切目をそらさない。
如月は気づいた、文月は自分を殺すためにここへ来た頭領の刺客なのだと。
「まだ宴をやっていますね…」
「くだらぬ」
草木帳の庭木の上で、若い男が柿をつまみ食いしながら呟いた。宴をするよりも、外で遊んで悪さをしたいと、兄弟揃って勝手に外出をしたこの二人。如月の息子、練清と練徳だ。
帰るのが早すぎたようで、宴はまだ終わっていなかった。帰ったところで、母親に説教されるだけなのだが。
「ところで兄上、野々姫のあの強引な求婚はどうなさいますか」
「野々はああいう女だろう」
「しかし、我々は鬼神の子。あの女は無礼にも程があります」
「堅苦しいぞ、練徳」
鬼の中でも怪力で巨体の多い種族の家柄でありながら、唯一女らしい体つきで生まれてきた野々姫は、周りから愛でられて育ってきたため高飛車で妖艶な美女に完成してしまった。
昔の馴染みではあるので、今日久々に会いに行ってみれば、この世の男は妾のモノと、大衆の面前で宣言する有様だ。呆れてものも言えない。
「もう少しすれば、縁談の話が来るだろうな。身構えておけよ、練徳」
弟の渋い顔を見ておかしそうに笑う練清の耳に、歌声が届く。
「濡烏ですね、母上が会いたがっていましたから」
「ああ、鬼神の文月か」
歌声のする方向を見てみれば、長い黒髪が見えた。木を降りてこっそりと屋敷の中を覗くと、濡烏の姿が練清の目に映る。
濡烏の黒髪は艶やかで、滑らかで、触れてみたいと思った。切なげな横顔、長い睫毛、鮮やかな野々姫とは違う雰囲気を纏う鬼。
──美しい。
濡烏という存在に、練清は強く惹かれてしまった。
「兄上……?」
弟に呼ばれて、練清はゆっくりと振り向くと、片手に持っていた柿を丸ごと食って笑った。
「練徳、次はあの宵闇の峠にでも行くとしよう」
「あの山に足を踏み入れるなんて、正気の沙汰ではない」
「弟よ、俺ァ強いぞ。てっぺんまで登って無傷で帰ってきてやる」
練清は自信満々にそう言うと、闇に包まれた宵闇の峠を見据える。この都唯一の暗黒の場所として恐れられている宵闇の峠。相当精神が強くなければあの峠には立ち入れない。そのため、峠の頂きには何があるのか誰も知らない。
幼い頃から怖いもの知らずで、よく母を困らせていた練清。周りを振り回す天才で、屋敷に閉じこもっていた弟さえも外に引っ張り出し、今や兄弟揃ってバカをやっている。
そのためか、あの峠から無事に帰ってこられる自信があるようだ。
「練徳、俺は鬼神になるからな」
「なれると良いですね」
「頭領となり、妖の頂点に立つ」
「はい…?」
今、なんと言った。練徳は挑戦的な笑みを浮かべる兄を凝視する。
「兄上、何をおっしゃいますか。そもそも、今の鬼神に空きがございませんぞ」
「そんなもの、今の睦月を倒してこの俺が次の睦月になれば良かろう。血族でなくとも頭領の座を奪ってやる」
「──。思い切ったことおっしゃいますね」
鬼神を選ぶのは鬼神の武器だ。今代の睦月の死後に、睦月の武器である覇刀菊に練清が認められなければ次代の睦月にはなれない。鬼神になれなければ、妖の頂点である頭領にはなれるはずがない。
しかし練清は、現頭領である二代目の睦月を自らの力で倒し、その座を我がものにしようと企んでいるのだ。幼き頃から変なことばかりいう男だったが、今や大胆不敵というか、少しばかり馬鹿な男に成長してしまった。
練徳は、兄の歩む道を邪魔立てするつもりはないので止めやしないが、ついていけるか不安になってしまう。それでもここまでついてこれたのだから、今回も死にものぐるいでそばにいるしかない。
「わかりましたよ、兄上」
呆れを含んだ声で答えれば、練清はそれでこそ我が弟だと笑った。
気づくと、濡烏の歌は終わっていた。
…………
「素敵な歌でした、文月様」
如月は優しい声でそう言ったが、目は鋭く鈴紅を捉えている。鈴紅が決死の覚悟で行った作戦に気づいたようで、二人の間には緊張が走る。
その他の者たちは楽しそうに拍手をしている。
「皆様、そろそろお開きといたしましょうか」
如月がそう声をかけると、皆は満足そうに頷いて立ち上がる。
「文月様、お歌のお話をしませんか? 私の部屋で」
如月は鈴紅に微笑みかける。最初に顔を合わせた時と明らかに雰囲気の違う如月に、鈴紅は身構えた。鈴紅を危険だと判断し、殺しにかかってくるかもしれない。その時は、全力でこの都から逃げなければ。
金を基調とした多くの装飾品が施された部屋に案内された。如月は人払いすると鈴紅を真っ直ぐに見つめて、低い声で話し始めた。
「私の考えが正しければ、あなたと一緒に居れば私の身が危ぶまれますね」
先までの物腰柔らかな態度と違い、尖った言い方で問いかける如月。自分の命を狙っている者を目の前にして、隙を見せるわけにはいかないのだ。
「私は、あなたのお命を奪うつもりはございません」
鈴紅は如月の険しい目付きに、決して怖気付かなかった。如月は鈴紅の目をじっと見つめて、次いで微笑んだ。
「そうですね、あなたは嘘をついていない」
如月の能力のおかげで、鈴紅の気持ちはすんなりと伝わった。そもそも、命を狙っているのであれば、如月の能力を利用して歌で知らせようとはしなかったはずだ。
「文月様、あなたは今、頭領の庇護下にあらせられると耳にしましたので、少しばかり遠慮しておりました。ですが、何か事情があるようですね」
如月は鈴紅に理解ある姿勢を見せると、鈴紅を向かい側に座らせた。
──文月様はまだ若い、歳は練清と練徳と同じくらい。そんな早くに頭領に嫁ぐとは何と健気な。
「私は、睦月が頭領になることを初めから反対しておりました。睦月は逆らう者は誰であろうと斬り捨てていました。自分の親でさえも」
如月はそう言って、悔しげに俯いた。拳は震え、瞳は怒りに燃えている。頭領の両親は、如月にとって大切な者たちだったのかもしれない。
鈴紅が如月の肩にそっと触れると、如月は弱々しく微笑んだ。
「本当にあなたは優しい。どうして、あなたが殺しなんてしなければならないの……」
如月は鈴紅の手を取って、真剣な表情でこう言った。
「あなたに秘密をお教えします。頭領、二代目睦月は、私の弟です」
鈴紅の思考が固まる。心優しい如月と、あの憎き男が姉弟なんて、考えられない。
「似てない…」
思ったことがぽろりと口から零れてしまい、鈴紅は慌てて口元を押さえた。すると如月は、そうねと言っておかしそうに笑った。
「あんな男と似てなくて結構です。親の仇と、もう家族になど戻りたくありません。そして、懲りずに私の命を狙ってくるなんて」
頭領は冷酷だ。将来娶る女に、姉の暗殺を要求するなどいかれてるとしか思えない。
如月は弟に殺されることを予測して、息子たち共々、家族の縁を切ったつもりだった。
「弟には、直接ここに来てもらいます。正々堂々、戦おうではありませんか」
「そんな…お逃げください。練清様と練徳様を連れて遠くへ。私が頭領を食い止めますから」
どうしても、如月を助けたい。如月を見ていると、姉の紅華を思い出す。如月のその眼差しは、幼い頃遊んでくれた姉と同じものであった。
「練清と練徳は、信用出来る方の元へ預けます。弟が直接、この屋敷に来るのであれば、私一人で相手をします」
如月は優しく強い女だ。それでも、頭領は強力でずる賢い。鈴紅が手を下さなくとも、別の方法で如月を殺すかもしれない。
「如月様…」
「大丈夫です。教えてくれてありがとうございました」
鈴紅を安心させるためなのか、如月は鈴紅の両肩を優しく掴んで微笑んだ。
──私はまた、誰かを死なせてしまう。
……………
「浮かない顔ね、文月」
大人の女性の声がすぐ隣から聞こえて、俯いていた鈴紅の睫毛が震えた。人間たちの町が見渡せる山の頂で、鈴紅に寄り添うようにして腰掛ける八重は、心配そうに鈴紅の顔を覗き込む。
「何か、心配事でもあるの?」
「ええ、沢山ありすぎて夜も眠れぬほど。考えていても仕方ありませんね」
悪戯っぽく笑う鈴紅だったが、はぐらかされてしまった八重は不満げに眉をひそめた。
鈴紅は鬼で、八重は人間。こうして二人きりで話せるだけでも本来有り得ぬことだ。だが、山姫の件から二人は親しくなり、今では一緒に出かけるほど仲が良くなっていた。
最近になって、いつの間にか蛍助のことばかり話すようになった。蛍助の優しさや、蛍助に対してのちょっとした不満などを話すと会話が盛り上がるのだ。そこで、鈴紅は気づいた。蛍助と八重は、初めの頃はあんなにいがみ合っていたのに、最近は特に仲が良くなっている。八重と話すのは楽しいが、八重が蛍助の話を持ちかけてきた時は、胸が苦しくなった。
「そろそろ、故郷に帰ろうと思うの」
突如、八重は瞳を伏せてそう言った。
「もう、帰ってしまうのですか?」
「ええ。ちょっと、気になることがあってね」
せっかく仲良くなれたのに、もう居なくなってしまうなんて。そう考えただけで寂しくなって、鈴紅は酷く落ち込んだ。
行かないでほしい、まだここにいてほしい。そう伝えたくても、甘え方を忘れてしまった鈴紅は何も言えず押し黙ってしまう。今、多くの問題に押し潰されそうになっている鈴紅の心の支えが、消えようとしている。
「いつ、お帰りになるのですか?」
「まだ決まっていないけど、きちんとお話を済ませて、すぐに帰れるように──」
「でも…」
鈴紅は慌てて八重の話を遮った。だが言葉が出てこなくなって、また口をつぐんでしまう。すると、八重は鈴紅の肩に優しく手を置いて微笑んだ。
「そんな顔をしないで、また戻ってくるから。それに、まだ帰郷の許可を貰ってないの。まあ、すぐにお許しがくると思うけど」
「……それまで、沢山お話しましょう?」
「もちろんよ、私、あなたとお話するの好きだもの」
八重にそう言われて、こそばゆい気持ちになる。嬉しそうに目を細める鈴紅の隣で、八重は家族のことを思い出す。
幼い頃に姉を亡くしているらしい鈴紅は、八重を見つける度に嬉しそうに笑うのだ。そんな姿が故郷に置いてきた弟、妹たちに似ていて放っておけなくなる。文は蛍助を伝って渡せばいいだろう、とにかく鈴紅との仲は切れないようにしたい。
…………
それから、八重は帰郷したいと霧の部族の頭領、狭霧に伝えた。しかし、八重の予想とは違い、狭霧は顔を青くして首を振った。
「ならん」
「何故ですか?」
まさか断られるとは思わず、八重は目を見開く。何度問いかけても、狭霧は首を振るだけで、何も話してくれない。
「近頃、両親からの文が届かないのです。家には兄弟が沢山いますし、顔を確認するだけでも…」
「八重さん、この町から離れぬように」
「何故です、何を隠していらっしゃるのですか?」
ここまで断られると困惑してしまう。狭霧は八重の帰郷を頑なに拒否し、しかも理由さえも教えてくれない。
八重の身を案じて、両親は毎日のように文を書いていたが、ある時から全く届かなくなった。長女として、家が心配で仕方ない。それなのに、帰れないとはどういうことだ。八重は我慢できずに狭霧に背を向けて部屋から出た。すると慌てたような声が八重を引き止める。
「待ちなさい、八重さん!」
「ご心配なく、頭領」
八重は背中越しにそう言って、早足で行ってしまった。
狭霧の許可は出ていないが、理由も教えてくれないのであれば、勝手にするしかない。八重が荷物をまとめていると、驚いたような声が後ろから聞こえてくる。
「おい、何してんだ?」
「蛍助さん。何って帰るの」
「帰る? そんな話聞いてねえぞ」
荷物を持ってさっと立ち上がる八重を、蛍助は慌てて引き止めた。
「待て待て、何でそんなに急いでんだ?」
八重は一瞬顔を顰めたが、構わず蛍助に背を向けて部屋を出る。
「八重!」
様子のおかしい八重の腕を掴んで一喝すると、八重の足がピタリと止まる。八重の手が震えていた。それに気づき、蛍助は慌てて手を離し、すぐに謝罪した。
「すまない、いきなり怒鳴って。あんたの様子がおかしかったから……八重?」
八重はゆっくりと振り返ると泣きそうな顔で答えた。
「家が心配なの。すぐに戻るから、行かせて。あなたは知らないふりをしてていいわ」
しかし、蛍助は再び背を向けた八重の手を咄嗟に掴んだ。八重には守るべき家族が沢山いる。だから家族に少しでも異変があればすぐに駆けつけるだろう。だが、今の八重を一人にすれば、取り返しのつかないことになるかもしれない。
「俺も、一緒に行くよ」
八重は、目を大きく見開いた。嬉しかった、嬉しくて涙が出そうになった。最初の出会いが最悪だった男に、優しい言葉をかけられただけで、どうしてこんなにも鼓動が高鳴るのか。
八重はゆっくりと振り返って、蛍助と目を合わせると、穏やかに微笑んだ。
「蛍助さん、あなたが好きです」
突如、想いを告げられた蛍助は八重から目をそらせなくなった。
八重は少しだけ俯くと、「同行は結構です」と言って蛍助の腕を振りほどき、部屋から出て行った。
「八重、八重!」
慌てて後を追いかけると、突然足が動かなくなった。透明の鎖が蛍助の足を捕らえていた。
「八重、待ってくれ!」
八重は動かなくなった蛍助を見据えて悲しげに微笑むと、早足で屋敷を出て行った。