【第一章】亡者の山
霧の部族の本邸にて、蛍助と八重はとある任務を課せられた。それは、誰もが恐れる、あの霧の山の調査だった。さすがの八重も、表情を引き締めた。
「あの山に足を踏み入れた者たちは未だ帰ってきていない。二人なら大丈夫だと思ったのだ。……無理にとは言わぬ」
妖についての多くの知識と非常に高い戦闘力を持つ蛍助、代々受け継がれてきた巫女の血を引く八重。頭領は、この二人ならば上手くやってくれると期待しているのだ。この二人が不仲なのは重々承知している。だが、この事態を覆すにはもう蛍助と八重に頼るしかなかった。
八重は暫し迷っていたが、意を決した表情を頭領に向けた。
「その任務、引き受けよう」
だが八重よりも先に、蛍助が返事をした。戦闘に関しては、蛍助なら喜んで引き受けるだろう。だが、今回はそれが理由ではなさそうだ。
八重は、蛍助の悲しみに暮れた顔を初めて見た。
………………
蛍助と八重は、霧の部族の兵を引き連れて、山へと向かった。麓の村は行方不明者が続出したためか、廃れていて妙に静かになっていた。
既に村を庇護している同族の者たちと言葉を交わし、いよいよ山へと足を踏み入れた。
山は霧で覆われていて、不気味な雰囲気を纏っている。そこで、蛍助は足を止めると後ろから着いてきている部下に向き直った。
「お前たちはここまでだ」
「蛍助さん……?」
部下たちは驚いて、顔を見合わせる。
「お前たちはこの辺りから見張っていてほしい」
「しかし、蛍助さんの身に何かあったら……!」
「俺が死ぬわけないだろ」
蛍助は部下たちに歯を見せて笑うと先よりも強く、ここで待てと命令を下した。蛍助は一人で奥へと進んでいく。その背中を、一人の巫女が追いかけた。
蛍助は武器を握りしめて、一歩一歩山道を登り続ける。背後から八重の足音が聞こえてくる。二人は特に会話もなく、それが一層静けさを際立たせる。
蛍助は立ち止まり、振り返って八重と目を合わせる。
「あんたも、ついてこなくて良かったんだが」
蛍助の冷たい言い草に、八重は腹を立てたように声を張った。
「バカにしないで!」
八重の声は山道に響き渡り、蛍助は慌てて八重の口を塞いだ。
「静かにしろ、敵に見つかるっ」
八重は蛍助の手を振り払うと、鋭い目つきで蛍助を見つめた。
蛍助が部下を置いてきたのは、この山に入ればもう二度と戻って来れないと分かっていたからだ。それは八重もきちんと理解していた。でも、負けず嫌いな八重にとっては余計なお世話だった。
「私も行くわ。あなた一人では、無事では済まない」
蛍助は眉間に皺を寄せて、八重に背を向けて歩き出す。
「勝手にしろ。何があっても知らないからな」
そう、吐き捨てるように言うと八重からどんどん遠ざかっていく。八重は慌ててその背中を追いかける。
──すぐ近くに殺気を感じる。何かが、こっちを見ているようだ。八重は得体の知れない敵に警戒しながら、蛍助の後ろを離れないようについて行った。
………………
暫く歩いたが、特に何かあるわけでもなくただの山道が続くだけだった。蛍助と八重が歩いている場所はけものみちになっていた。妖の前に、大きな生き物に注意しなければならぬようだ。
先頭を歩いていた蛍助は、ふと振り返って八重に視線を向けた。八重はそわそわとしていて落ち着かない様子で、視線をせわしなく動かしている。
「おい、どうした」
蛍助が問いかけると、八重は蛍助に近づいて耳元で囁いた。
「誰か、私たちを見ている。人ではない」
その言葉を聞いて、蛍助も辺りを警戒し始める。八重がいてくれて良かった。霊感の強い彼女なら、敵の気配にすぐに気づくことが出来る。
歩いても歩いても、視線は消えない。そこで、八重は足を止めた。
「おい、何してんだ」
突然、前方を見つめたまま動かなくなった八重。蛍助が見ても、生い茂る木々と道しか見えない。八重は何を見ているのか。
「向こうに、村があるわ……」
「何でそんなこと分かるんだ」
「千里眼よ」
千里眼は遠隔地の出来事を感知できる能力だ。しかし、そんなものを持っているなんて、にわかに信じがたい。首を傾げる蛍助に構わず、八重はどんどん先に突き進んでいく。
「待て」
蛍助は慌てて八重の手を掴んで引き止めた。
「千里眼だと。いくら巫女でも、そんな能力持っているなんて……」
「私達の家系はみんなそうよ」
「だからといって、無闇に突っ込んでいくのは危険だ」
八重は確かにそうねと、大人しく引き下がった。突然、意味不明なことを言われても困る。蛍助は八重の手を掴んだまま、歩き出した。
暫くして、小さな小屋が見えてきた。誰か住んでいるのだろうか。蛍助は小屋に無断で入って確認してみたが、小屋の中は廃れていて天井にはクモの巣が張っていた。とても人が住んでいそうな雰囲気ではない。
何故こんな場所に小屋があるのか。そう思って前方を見つめて、絶句した。
──嘘だろ…。
そこには、八重の言った通り、村が存在していた。霧に包まれた村は、人の気配がなく、しんと静まり返っている。
「何で、こんな場所に村が…?」
蛍助が呟くと、八重は蛍助の隣に並んだ。
「村なんてよくあるもの。でも、静か過ぎるわね。人っ子一人いないなんて」
二人は無人の村へと足を踏み入れた。もしかしたら誰かいるかもしれないと、慎重に目を配った。
だが、あの視線は未だ消えていない。
「蛍助さん、やっぱり、誰か私たちのこと見てる……」
千里眼といい、八重の言葉は信じた方が良さそうだ。
「さっきから俺たちを見ているのは誰だ!」
蛍助の鋭い声が村中に響く。蛍助と八重はそれぞれ警戒し、いつ戦闘になっても良いように備えた。その時だった。
──は…はは…。
微かに、女の声が耳に届く。蛍助と八重は互いに顔を見合わせた。二人とも、聞こえたようだ。
──あはははは!
それは、笑い声だった。何が面白いのか、女の声は愉快そうに笑っている。
突如、大量の足音が村中に響き渡った。
「物の怪か!?」
四つん這いになって二人の元へ走ってくる物の怪たち。蛍助は八重の手を引くと慌てて村を駆け抜けた。
だが、霧の中を逃げても逃げても、何故か村に戻ってきてしまう。
「どうなってんだ!?」
ただ単に道に迷っているだけならまだしも、ずっと真っ直ぐ歩いているはずなのに、結局は村に引き戻される。
「仕方ないわね……どこかに身を隠しましょう」
八重の提案に頷くと、二人で村の奥へと突き進んでいった。
──どこか、隠れられる場所は…!
あちこちに物の怪がいて、すぐに見つかってしまう。隠れるのに最適な場所を探し回っていると、すぐ背後に何かが迫った。
「…っ!」
気配に敏感だった八重は、咄嗟に蛍助を突き飛ばし、霧の中から現れた鋭い牙を両腕で受け止めた。色白の長い髪の女が、八重の腕に食らいつき、血を吸い始めた。
「八重ッ……!!」
蛍助は腰から刀を抜くと、八重の腕に食らいつく女を素早く斬った。悲鳴をあげる女の顔を蹴り飛ばして、血塗れになった八重を連れて逃げた。
村の中でも一際大きな屋敷に転がり込むと扉に錠をかけて、階段を駆け上がり、奥の部屋へと二人で倒れ込んだ。
穴だらけの畳に膝をつき、息を整えていると、隣にいた八重が唸った。
「おい、見せろ」
八重の血塗れの袖を捲ってみると、皮膚が破かれて肉がえぐれていた。余程深くキバが突き刺さり、抵抗したことにより傷口が荒くなったようだ。
「すまないな、俺のせいで」
蛍助は着物の裾を引きちぎり、傷口に巻いた。
「あの物の怪は、元々は村人だったみたい……。私を襲ったあの女も……」
何故か悲しそうに囁く八重の腕に布をしっかりと縛る。八重は自分の腕を見つめながら、ありがとうと、ポツリと言った。
ここは屋敷の二階だ。そっと木戸から外を確認すると、物の怪がうようよと動き回っているのが見えた。村から脱出できる方法が見つかるまで、暫くここに隠れておいた方が良い。
「八重…!」
倒れ込んできた八重を受け止めると、八重の真っ青な顔が目に飛び込んできた。血を吸われすぎたようだ。
「気にしないで……」
八重は無理やり体を起こすと、目を閉じてぶつぶつと何かを唱え始めた。この屋敷全体に暖かい空気が流れていくのを感じる。
それと同時に、八重の顔色も一層酷くなっていく。
「この屋敷に結界を張ったわ…ほんの少しだけど、暫くは安全……」
「無理をするな」
蛍助は八重を横たわらせ、自分の服を着せた。自分のことをあんなにも嫌っていた男が、今はこんなに優しいなんてと、八重は内心驚いていた。
蛍助は悪い人ではない。部下思いで、誰よりも優しい人だと見ていてすぐに分かった。ただ、お互いに不器用だから上手くいかなかったのだ。
「暫くここで、体力を回復させておこう」
八重は畳の上に横たわりながら頷くと、ゆっくりと目を閉じた。眠ったのだろうかと、蛍助が八重の顔を覗き込むと頬を引っぱたかれた。
「何すんだ」
「そんなに見ないで頂戴」
八重の怒ったような声が聞けて、少しだけ安心した。傷は深いが、元気そうだ。あれだけのことをしておきながら、八重は笑っている。大した根性の持ち主だ。
「ねえ、このままだと寝そうになるからお話してくれない?」
八重の無茶なお願いに、蛍助は困ったように眉をひそめる。いっその事寝てくれれば良いのに、何故か八重は寝たくないのだという。
恐らく、結界が切れないように意識を保たなければならないのだろう。蛍助が何か話題はないかと頭を巡らせていると、八重の方から話を持ちかけてきた。
「あなたと文月はどういう関係なの?」
八重の言葉に、蛍助の表情が歪んだ。短い沈黙の後、蛍助は俯きながら答えた。
「……ただの、友達だよ」
そう、ただの友達だ。
──お嫁に行くの。
勇気を振り絞って想いを告げても、だめだった。あの一言で蛍助の失恋は明らかとなってしまった。
様子がおかしいと気がついたのか、八重は心配そうに蛍助の袖に触れた。
「ねえ、私が言ったことは気にしないで。ごめんなさいね」
でも、蛍助の表情は晴れないまま、静かな時間が過ぎた。
「嫁に、行くんだってさ……」
蛍助はようやく口を開くと、皮肉っぽく笑って項垂れた。八重は無言で蛍助を見上げると、つまんでいた蛍助の袖からそっと手を離した。
………………
早朝、人間たちの町はいつものように騒がしく、忙しそうだ。買い物を済ませて屋敷へと向かっていた時、人間たちの何気ない会話が耳に届いた。
「霧の部族の──が─」
「──巫女様も─」
「神隠しに──」
気になる単語がいくつか聞こえてきて、鈴紅の足が止まった。なるべく怪しまれぬように、近くの店で商品を選ぶフリをしながら、人間たちの話に耳を傾ける。人間の男三人が、難しい表情、不安げな表情をそれぞれ浮かべながら真剣に話していた。
「霧の部族の蛍助だよ、あの山に入ったまま帰ってこないらしい……。あんな良い奴まで山の餌食になるなんてな……」
「あの巫女様も帰ってきていないそうな……」
蛍助は明るく、人脈もあったため、町中の人気者だった。そんな男が突然居なくなれば、人々が不安がるのも無理はない。蛍助は、人々に、この世界に必要な男なのだ。
鈴紅は来た道を引き返すと、霧に包まれた山に向かって足を速めた。蛍助に出会うまで、人間は弱くて、愚かで、救いようのない奴らだと見下していた。人間が攫われようが食われようがどうってことなかった。けれども、人間たちと触れ合ううちに、蛍助と八重と話すうちに、その考えは徐々に変わっていった。
家族を失い、頼れる者もなしにたった一人で生きてきた鈴紅は、初めて恋を知り、愛情を知った。八重と話していて分かった、姉が恋しい、誰かに甘えたい、たまには我儘を言ってみたい、そんな願いが自分の中にあった事を。
二人を取り戻さねば、二人を救わなければ。得体の知れない化け物に、二人を食われてたまるものか。
町を抜けて、麓の村まで辿り着いて、鈴紅は顔を顰めた。村人は怯えて家から出てこない。人の行き交う町とは違い、静かで寂れていて、山から感じられる邪気と妖気のせいで村の空気も悪い。
鈴紅は山を見上げて、ゴクリと生唾を呑む。霧の部族の兵が村を庇護していて、迂闊に山に近づくことが出来ない。
仕方ないので山まで慎重に向かうと、見張りの兵を全て気絶させて、山への侵入に成功した。人間への力加減がよく分からなかったが死んでいないことを祈ろう。
………………
蛍助と八重は廃村の屋敷で身を隠していたが、血を多く吸われ、更に結界で屋敷を守っていた八重はついに高熱を出してしまった。
屋敷のあちこちに溜まっていた雨水に破いた布切れを浸らせると、布切れは黒く染まった。衛生的に良くない事は見ていて分かるが、屋敷の周辺は物の怪が徘徊していて、外に出て水を得ることが出来ない。
濡らした布切れを折り畳んで、八重の額に乗せると、その冷たさに八重は目を覚ました。
「私、寝てたの…? 起こしてよ…」
「熱があるんだ、無理して起きていたら悪化するぞ」
「でも、私はそこまで優秀じゃないから、結界を上手く保てない。助けが来るまではこの屋敷で生き延びなければならないのに……」
八重は気分が悪いのか、顔を背けて息を吐き出した。気分が悪い、どっと疲れが出てきたようだ。すると、蛍助の冷えきった手が頬に触れた。その気持ちの良さに八重はそっと目を閉じて、蛍助の手を両手で包んだ。
眠っていいだろうか、もう、これ以上無理をすれば死んでしまいそうだ。そのうち、熱で精神的に追い込まれた八重は弱音を吐き始めた。
「助けなんて、来るのかな……。先に行方知れずになった人たちはどこにいるんだろう…もう、あの女に食われてしまったのかな……」
途端、八重は体を起こして咳き込み、蛍助は八重の背中をさすってつきっきりで世話をした。咳が止まった八重をゆっくりと寝かせて、蛍助は八重を安心させるために生意気な態度でこう言った。
「弱気だなぁ、熱が下がったら逃げられる場所を一緒に探そう。物の怪なんて俺が一瞬で倒してやるよ」
相変わらず自信満々な蛍助の顔を見上げて、八重は可笑しそうに笑う。
「私ね、あなたのこと嫌いだったわ。自分勝手で、他所から来た私の事を歓迎もしてくれないんだもの……」
八重の言葉に蛍助はバツの悪そうな表情を浮かべて、そんなこともあったっけかと、頭を搔く。そんなお子様な所を見ても、前までは腹が立って仕方なかったが、今ではどうってことない。
「でもね」
八重はすっかり顔色の悪くなった顔で、小さく微笑んだ。
「──今は好きよ、あなたのこと」
それは、どういう意味で言ったのだろうか。蛍助は目を大きく見開き、弱り果てている八重を見つめて、硬直した。無言で見つめ合ったまま、静かに時間が過ぎていく。
突如、八重は飛び起きると蛍助の方を向いて大変、と呟く。
「どうしたんだ?」
「あいつが、来る…っ」
慌てて木戸から外を覗き見て、二人の背筋が凍った。襲いかかってきたあの女が、八重の結界で固く閉ざされている屋敷の入口をこじ開けようとしていた。
女の力は強く、弱っている八重の結界を、あともう少しで壊してしまいそうだ。
「蛍助さん…この屋敷にはもう一つの出口があるみたい……。私を置いて、あなたは先に出口へ……」
「何言ってんだ…!」
「多分、あの女は私の血の匂いに引き寄せられているの。今の私は足手まといになるだけよ」
「馬鹿なことを言うな…っ!!」
蛍助は八重を怒鳴りつけると、急いで彼女を抱きかかえて、部屋の戸を蹴破った。動揺する八重に構わず、蛍助は屋敷の廊下を駆け抜ける。古びた床は軋んでいて、蛍助が走る度に木が折れたような音が響いた。
この屋敷から逃げ出せたとしても、霧に包まれたこの廃村からは逃げられない。弱っている八重を抱えながらだと負担もかかる。だけど、八重を見捨てるつもりは無い。必ず脱出して、生きて帰るのだ。
突如、凄まじい衝撃音の後、屋敷が崩れ始めた。
「あの、化け物…ッ!!」
女の笑い声が廊下の奥から響いてくる。八重の指示に従って、蛍助は出口に辿り着くとその扉をまたしても蹴破り、外へ出た。
蛍助たちが出た直後、屋敷は完全に崩壊し、あの女が姿を現した。蛍助は八重を地面に下ろすと、刀を構えた。
女は長い髪を揺らしながらふらふらと歩き、蛍助たちを見て唇の端をつり上げる。
「あはは…はははははは!!!!」
何がおかしいのか、女は高笑いしながら蛍助に猛突進してくる。
「来い、イカレ女め」
蛍助は挑発するような笑みを浮かべると、女の爪を避けて腹を斬りつけた。女は悲鳴を上げて後退するが、またすぐに向かってくる。
何度斬っても、女は回復する。蛍助が鋭い爪を刀で受け止めた時、女は初めて言葉を発した。
「お前も、この村の住人になれ……。そしたら、寂しくないでしょう……?」
「そりゃあ無理な話だ」
蛍助は女の鳩尾を蹴って距離をとると、忍ばせていた短刀を女の目に投げつけた。目から血を流しながら、わけのわからぬ言葉を叫び散らす女。その隙に蛍助は八重を連れて走り出す。
「逃がさない逃がさない逃がさないいぃ!!」
女は叫び声を上げながら蛍助たちを追いかける。
蛍助に抱えられながら、八重は後ろを凝視する。
「あの女の目、もう治ってる…っ」
「なるほど、不死身の化け物かよ、畜生が……!」
女の妖を倒す方法もなければ、この村から出る方法もない。絶望的な状況だった。死ぬ気で走った蛍助だが、目の前に多くの物の怪が立ちはだかり、女と物の怪に挟まれてしまった。
「蛍助、私を離して」
八重は蛍助の腕から降りると、大幣を取り出し、大量の敵たちを睨みつける。
「八重……!」
「こんな時まで甘ったれる私じゃない……!」
八重は鋭く言い放つと、蛍助の背中に自分の背中を合わせて小さく笑った。絶体絶命の危機だというのに、楽しそうな奴だ。蛍助は八重を信じて、刀を女に向けた。もう言い争いはなしだ、死ぬまでここで派手に戦ってやる。斬っても斬っても死なない化け物に、大量の物の怪たち、どう考えても勝ち目はない。
──ここで、死ぬ。
一緒に死ぬ相手が、八重なら、まあ良いだろう。八重も、背中に蛍助の体温を感じながら、寂しそうに笑った。
女と物の怪たちは一斉に二人に飛びかかった。八重は大幣で風を巻き起こすと、物の怪たちを一気に払い飛ばし、蛍助は向かってきた不死身の化け物を相手に刀を振るった。
暫く廃村で激戦が繰り広げられ、二人とも血塗れになって、体力にも限界がきていた。化け物の女は全く疲れていない様子で、高笑いしながら迫ってくる。
「もう、無理よ……ここで、死ぬんだ……」
八重の弱々しい声が背中越しに聞こえてくると、蛍助は八重の手を優しく握ってやった。行方知れずになった人達のために何もしてやれなかった、何も解決出来ないままここで終わるなんて、惨めな最後だ。
やり残したことはあるだろうか、ふと、蛍助の脳裏に一人の女の姿が浮かんだ。
「ごめんな」
蛍助の言葉を聞いた八重は、目を大きく見開いた。
女の爪と、物の怪の牙が二人に飛びついたのは同時だった。互いの体温を感じながら、迫りくる死を受け入れるように、武器を下ろした。
こんな所で死ぬなんて、悔しい、まだやり残したことはたくさんあるのに。冷たい八重の手を強く握った。勝ち目のない相手に、勇気ある姿勢を見せたのだ。
まだ、やりたかったこと、たくさんあったのに……───
「死ぬな!」
聞き覚えのある声が、蛍助と八重の耳に届いて、二人はパッと目を開いた。物の怪たちの頭が飛び、体はばらばらに切り裂かれた。あれほど苦戦していた敵が一瞬にして倒されてしまい、圧倒されている蛍助と八重の目に、風になびく美しい黒髪が映る。
蛍助は、まさか来るとは思わなかった女の姿に唇を震えさせる。
「文月…どうして…」
鈴紅は、紅の着物を翻し、元凶と思われる女の化け物を睨みつける。
「やりすぎではなくて、山姫?」
山姫と呼ばれた女は、訝しげに鈴紅を見つめる。半開きの口からは、血の付着した鋭い牙が覗いている。
「誰か知らぬが、退け…!! 邪魔をするなっ!!!」
山姫は鈴紅に向かって獣の如く駆け出す。鈴紅は紅色の鞘から刀を引き抜き、鞘を地に捨てると、山姫の向かってゆっくりと歩いて行く。
紅の刀、烏の濡れ羽色の髪、鬼、どこかで聞いたことのある容姿を持つ女を見て、山姫の顔がひきつった。だが、迷いを振り払うように、また、笑いだした。
「クク…きゃはははははっ!!!! 小娘が、小娘がぁ!! 誰に口を聞いている……!!」
山姫は牙をむき出しにして、鈴紅の首筋を狙って飛び上がった。だが、鈴紅の鋭い瞳が、山姫を捕らえた。
「ッ!!」
紅の刀が唸り、山姫は突如襲ってきた痛みに、慌てて鈴紅から離れる。初めて経験する終わらない痛みに、山姫は咄嗟に右肩を押さえて、そこに腕がないことに気づき驚愕する。今までどんな傷や痛みも一瞬で治っていたのに、赤黒い血はとめどなく流れて、収まる気がしない。そして、失った腕は二度と元に戻らない。
後退した山姫の元へ歩いて来る鈴紅の手には、山姫の血が付着した刀がしっかりと握られている。それが滅びの刀、曼珠沙華だと気づいた時、山姫の全身に鳥肌が立った。
「お前こそ、誰に口を聞いている…」
普段の気品溢れる鈴紅からは考えにくい、低く鋭い声が山姫を貫く。山姫は怯えて声も出せずに、一歩一歩後退して、鈴紅から距離を離していく。
「逃がさぬわ!!!」
鈴紅に従う物の怪たちが、影から這い出てくると逃げ出そうとしていた山姫を拘束した。
「攫ってきた人間はどうした、全部吐いてもらうよ!」
依頼人の家族も、この山のどこかにいる。見つけて返さねばならない。この極悪妖怪は、痛い目に合わせてやった方が良さそうだ。だが、山姫は唇の端をつり上げて、空に向かって大きな声で笑い出す。
「会わせてあげようか??」
さっきまで恐怖の対象だった鈴紅に、なめくさった態度を見せる山姫。
「……!」
突如、地が大きく揺れ始める。何事かと辺りを見渡せば、さっき倒したばかりの物の怪が再び這いつくばってこちらに向かってくる。
「まさか、あれが攫ってきた人間たち……?」
「あははは! みんなみんな、この村の住人!! 私と一緒にここで暮らすの、永遠に」
物の怪たちは元人間とは思えぬほど凶暴で、ヨダレを垂らしながら、木を薙ぎ倒し、無我夢中で鈴紅に向かってくる。山姫は自分を捕らえている鈴紅の物の怪に噛み付いた。物の怪の痛みが伝わり、鈴紅は顔をしかめる。
拘束が緩んだ隙に山姫は物の怪を蹴り飛ばして鈴紅に飛びついた。咄嗟に曼珠沙華で山姫の口元を切りつけて間一髪逃れられたが、今度は物の怪たちが目前まで迫り、爪を向けてくる。
油断すれば山姫か物の怪のどちらかに食われる。血塗れになりながら立ち上がった山姫を睨み、腰に力を込めたその時、すぐ後ろに気配を感じて目を見開いた。
「二人とも…傷は……!」
「すぐに回復したよ、文月。薬はたくさん持ってるからな」
蛍助と八重は、鈴紅に寄り添い、戦闘態勢に入る。
「ありがとな、助けに来てくれて」
「私達も、まだ戦えるわ」
背中越しに二人の優しい声が聞こえてきて、鈴紅は自然と頬を緩ませた。しかし山姫にとっては、少し回復しただけの傷だらけの人間が加わっただけだ。
数十体の荒れ狂う物の怪と、多くの命を奪ってきた山姫に挟まれた三人は、武器を握りしめて、足を踏み込んだ。
鈴紅は曼珠沙華を山姫に向けて、息を吐いた。相も変わらず、山姫は不気味な笑みを浮かべている。
(一気に三人の血が吸えるなんて、興奮が収まらない…っ!!)
山姫はがたがたと震える体を片腕で抱きしめて、舌なめずりをする。山姫が狙っているのは人間だけではない、一人は妖を統べる鬼神だ。それだけ価値の高い血を頂くことへの最上級の喜びを、牙に込める。
山姫は獣のように腰を低くすると、鈴紅目掛けて、突っ走る。
「かかってこい、亡者」