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鬼姫の曼珠沙華 ─濡烏の章─  作者: 紫木 千
第一章『初恋編』
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【第一章】見られてる

 鈴紅はいつものように、依頼人から金を受け取り、月火の社から立ち去ろうとしていた。だが、何者かの気配を感じて、鳥居の前で足を止めた。その人物は確実に鈴紅を見ている。

 僅かに殺気を感じる。だが、鈴紅の様子を見ているだけの気もする。どちらにせよ、何が目的でなのか。


「誰」


 鋭い声で問いかければ、彼女は静かに姿を現した。鈴紅は振り返り、その姿を目にして眉をひそめる。


「あなた、誰?」


 そこにいたのは、巫女装束の女。この巫女の持つ霊力は高い。今は人間に化けているが、もしかしたらこの巫女は鈴紅の正体に気づいているかもしれない。鈴紅は無意識に拳に力を込めた。


「私は八重。あなた、妖?」

「突然何を言うのですか、巫女様?」


 知らぬ顔をして笑ってみせても、巫女の警戒は解けない。


「誤魔化さないで」


 徐々に鈴紅に近づく巫女の手には、大幣が握られている。やはり妖であると気づいているようだ。

 ふと、巫女は足を止めた。


「あなた…蛍助さんの…」


 ──蛍助…?


 愛しい名を聞いた瞬間、鈴紅は頬を叩かれたような顔で俯いた。今は蛍助の名を聞きたくなかった、この気持ちを抑えられなくなってしまうから。辛くなるのは自分なのだから。

  それなら、目の前にいる、蛍助の知り合いと思われる巫女にも関わってはならない。蛍助の全てを忘れなくてはならない。感情が爆発する前に、鈴紅は巫女に背を向け走り出す。


「待って!!」


 巫女が叫んだと同時に、鈴紅の体が動かなくなった。見れば、透明の鎖が体中に巻きついて、鈴紅の自由を奪っていた。

 もがいても、もがいても、解くことが出来ない。巫女の足音が近づいてくる。仕方なく、鈴紅は曼珠沙華を呼び出し、透明の鎖を斬った。まるで硝子が砕けるような音が鳴り響き、鈴紅はやっとのことで鎖から解放された。


「私の術を解くなんて……!」


 術を解かれたのが初めてだったのだろう、背後から驚愕の声が上がる。鈴紅は隙をついて物の怪を呼び出すと、目くらましのために砂埃を起こす。困惑する巫女に構わず、鈴紅は鳥居を走り抜けた。


 砂埃を払いながら、咳き込む巫女。あの黒髪の妖の姿はどこにもない。


 ──逃がしてしまった。


 自らの失態に悔いる八重の目に、金色に光る何かが映った。


「……?」


 屈んで、地に転がる何かに手を伸ばした。朝日を浴びて、きらきらと輝く小さな鈴だ。


「綺麗…」


 もしかすると、今の女がこの鈴の持ち主かもしれない。拾ったものは持ち主に返すべきだが、相手は妖だ。どう差し出せば良いのだろう。


…………



 息を切らしながら、自分の屋敷に転がり込む。


 ──あの巫女、想像以上に強かった…!


 あのまま逃れられずに捕らえられていたら、どうなっていたことか。心臓がうるさいほど鳴り響き、鈴紅は肩を上下に揺らしながら息を整える。


「文月様!?」


 玄関先でうな垂れる鈴紅の元へ金音は慌てて駆け寄った。

 金音が心配そうに顔を覗き込むと、鈴紅は首を振って微笑んでみせた。


「大丈夫、うっかり捕まりそうになったの」

「捕まる!? あ、と、とりあえず、部屋で休んでください!」


 金音に連れられて自室に戻ると、他の女中たちがてきぱきと寝床の用意をし始める。心配しすぎだ、走って逃げてきたから疲れただけだと伝えても、金音を中心に全員首を振るだけだった。


「とにかく、休んでくださいね」


 金音は腕を組んでそう言うと、鈴紅の部屋から静かに出ていった。

 眠くもないし、怪我を負ったわけでもないので、ただ布団の上をごろごろとするだけで退屈だ。

 癖のように懐を探ると、そこにあるはずのものが失くなっていることに気づき、血の気が引いた。


「鈴が、ない……」


 姉に託された、母の形見の鈴がない。どこかに落としてしまった。心当たりがあるとすれば、巫女と争った月火の社だけだ。


「どうしよう…」


 今から取りに行けるだろうか。でも、もしあの巫女が待ち伏せていたら終わりだ。相手は巫女だから、この場所を特定されてしまうかもしれない。下手すれば封印されかねない。

 だが、あの鈴は大切なものだ。いてもたってもいられず、女中たちの目を盗んで屋敷から出た。



 月火の社にはもう気配はなかった。安心して探し回ったが、鈴は見当たらない。大切なものなのに、なくしてしまった。


「紅華姉様、ごめんなさい…」


 亡き姉に小さな声で謝罪し、泣きそうな顔で俯く。最低だ。もしかすると、蛍助を傷つけてしまった罰なのかもしれない。

 明日、探すしかない。そろそろ屋敷に戻らないと、女中たちが心配してしまう。鈴紅は酷く落胆したまま、社を去った。



………………



 翌日、鈴紅は頭領に呼び出された。昨日依頼された件について、頭領と話さねばならなかった。


「依頼内容は、依頼人の子供を攫った……いわゆる神隠しというものの元凶を討伐せよとのこと』


 依頼内容を事細かに説明すると、頭領は面倒臭そうに目を細める。


「神隠しだと…情報が少なすぎて対処出来ぬわ」

「人を攫う妖だと思うのですが、頭領は何かご存知ありませんか?」

「知らぬ」


 いずれ夫婦になる仲だというのに、頭領は非協力的で、妖の国を治める者としての責任感も足りない。依頼を承った身として、この件を放置する訳にはいかないのに。鈴紅の力だけでは殺す相手を特定できない。


「人を食う妖とは、どんな奴らだと思う?」

「それなら、体の大きな者や力の強い者など多くいますが……」


 頭領は自分を仰いでいた扇を閉じて、唇の端を吊り上げると、とんでもない提案を挙げた。


「人喰い鬼、とよく言うではないか」

「頭領は、元凶が鬼だとおっしゃるのですか?」

「そういうことに、してしまえばいい」


 鈴紅の眉毛がピクリと反応する。頭領は何を企んでいるのか、一人ほくそ笑んでいる。


「近頃、我に楯突く鬼神が一人いてな」


 無実の鬼を利用する気はしていたが、まさかの鬼神に罪をなすりつけるつもりなのか、この男。しかも、理由が自分の言うことを聞かないからだと。

 鈴紅は慌てて首を振った。


「無実の鬼神に罪をなすりつけるおつもりですか!? 下手すれば、頭領の立場が……!」

「元凶が見つからぬのであれば、仕方あるまい」


 鈴紅の言葉を遮り、頭領は当然のように言った。鈴紅を見る頭領の目は、これ以上批判すれば、叔父夫婦を殺すと語っていた。

 家族を人質に取られている鈴紅には、何も出来ない。


「二代目の如月だ。そいつを殺せ」


 二代目の如月は、二人の子供を持つ母親らしい。如月を殺せば、その二人の子供はどうなる。母を殺された恨みで、頭領の暗殺を企てるはずだ。

 そう伝えても、頭領は構わないといった様子だった。


「如月の長男、次男が我を殺しに来ようとも、返り討ちにしてくれるわ」


  確かに、頭領は強い。だから頭領になれたようなものだ。それに、戦闘能力のあった先代の文月を死に追いやったとして有名になっている。それにずる賢いので鈴紅も手が出せない。


「ほれ」


 頭領は金銀財宝を鈴紅の目の前に放り投げた。それを凝視している鈴紅の顔を、頭領は片手で掴み、引き寄せた。


「お前の屋敷は金に困っているそうだな。それをくれてやるから、如月を殺せ。依頼人には、如月の死体の一部でも見せて誤魔化せば何とかなるだろう」


 鈴紅の瞳が揺れる。


 ──鬼神を、殺す?


 今まで囚われている叔父夫婦のために、多くの命を奪ってきた。そしてついに、鬼神の殺しまで要求してくるとは。

 本当は嫌だと言ってこの手を振り払いたかった。でも、幼い頃から植え付けられた恐怖は、鈴紅の行動を縛り付けてしまう。


「ちょうどいい、如月はお前の歌を聞きたいそうだ。偵察してくるが良い。言っておくが、余計なことをするな。我はいつでもお前を見張っているからな」


 十分に脅された後、乱暴に解放された。掴まれた頬を手で押さえて、鈴紅はもう片方の手を握りしめる。

 そんな鈴紅を、頭領は鼻で笑う。


「もう帰れ。歌を存分に作って本番に備えよ」


 そう言って部屋を立ち去る頭領の背中を、鈴紅は鋭い目つきで睨みつけた。

 この男、どれだけ苦しませれば気が済む。どうして、このような傲慢で独裁的な男がこの国を治められる。

 鈴紅の頭領への殺意は増すばかりであった。


………………


 早朝から、巫女は月火の社に訪れていた。金の鈴を持って。運が良ければあの黒髪の女に会えて、神隠しについても何か聞けるかもしれない。

 鳥居をくぐった時、気配を感じた。巫女、八重は急ぎ足で社へと向かう。大樹の下で、黒髪の『鬼』が酷く悲しい顔で、泣きそうな顔で俯いている。


「あら、巫女様。またお会いしましたね」


 黒髪の女は、巫女を目にしたというのに逃げもせず、皮肉っぽく笑いかけてくる。まるで、この世に落胆したような表情の女に、八重は眉をひそめた。

 これは、話を聞いてくれるのだろうか。八重はゆっくりと屈むと、そっと鈴を差し出した。


「──!」


 鈴を見た途端、鬼の女は目を見開いた。


「やはり、この鈴はあなたのものね」


 指先は震えさせながら、鬼は恐る恐る手を伸ばす。


「昨日はごめんなさい。あなたを殺すつもりはなかったの。ただ、話を聞きたくて…──?」


 鬼は八重の手を両手で握ると、涙をぼろぼろと流しながら、八重の指先に額を押し付けた。


「姉様……っ」


 鬼は泣きながら声を絞り出した。その様子があまりにも哀れで、八重は言葉が出なかった。

 美しく成長した女の姿をしているが、心は、まだ誰かが支えていないと壊れてしまいそうだ。

 しばらく二人はそのままの体制でいたが、やっと顔を上げた鬼は袖で涙を拭って、鈴を受け取った。


「ありがとう巫女様、助かりました。私はこれで」

「待って、お願い。教えて欲しいことがあるの」


 鬼は一瞬、眉間に皺を寄せたが大人しく向かい合ってくれた。


「神隠しを、ご存知?」


 その言葉を聞いた途端、鬼の肩がビクリと反応した。どうやら何か知っていそうだ。


「最近頻繁に人がいなくなっていて。どんなことでもいいの。何か知っていたら教えてほしい」


 だが、鬼は困り顔で首を振るだけだった。


「神隠しについては存じております。私たちもその正体を探っていますので。ですが、詳しいことは分かりません」


 そう、と残念そうに呟いた八重に、今度は鬼が問いかけた。


「あなたは、霧の部族の方? 昨日、蛍助の名を……」


 そこまで言って、鬼は慌てて口を噤んだ。しまった、といった表情で、八重から目をそらす。

 八重は眉をひそめて、真っ青になった鬼を見つめる。何故、蛍助の名を聞いただけで霧の部族という答えに辿り着いたのだろうか。それに、この鬼からは蛍助の気を感じる。どういう関係なのか。


「蛍助さんとは……一体どういう関係?」


 八重の問いかけに、鬼の肩が更に強ばった。そういえば、蛍助からも鬼の気を感じた。そこで確信した。この二人は、何度も会っているのだ。


「まさか、恋仲…」

「違いますっ!」


 鬼は苦しそうな顔で必死に首を振った。たとえ、恋仲でなかったとしても、二人は親しい間柄に違いない。八重の考察は見事に当たっていた。


「それで、お名前は?」


 これ以上は探ってはならないと判断した八重は、警戒心を解くために鬼の名を聞くことにした。

 鬼は暫し迷うと、両手を握って上品に頭を下げて答えた。


「文月。鬼神一族の文月と申します」





 鈴紅は八重を警戒していたが、話していくうちに徐々に打ち解けていった。鈴紅は見た事のない美女で、女である八重でさえも見惚れるほどであった。


「巫女様、神隠しについては協力いたします。ですが、全てが終わったら、私に関わらぬように」

「何故?」


 八重は不思議そうに問いかけた。


「何故って、私とあなたは違うから……」

「なんだか、周りの者を自分から遠ざけようとしているようにしか見えないわ……」


 八重は勘が鋭いようだ。鈴紅は図星を突かれて、ぎこちなく視線を逸らした。鈴紅はどこかそわそわして落ち着かない。まるで何かに怯えているようだ。

 八重が鈴紅の肩にそっと触れると、鈴紅は泣きそうな顔で八重を見上げた。


「しっかりしていそうで、本当は一人では何もできないのね」

「ば、馬鹿にしているのですか」


 眉間に皺を寄せて、鈴紅は自分よりも背の高い八重を睨んだ。


「馬鹿にしてない。ただ、あなたは私の兄弟に似ているから」


 八重はそう言って、優しく微笑んだ。鈴紅はキョトンとした顔で瞬きを数回繰り返す。


「兄弟…?」

「ええ、弟と妹がたくさんいるの。私は長女」

「ご兄弟は故郷にいらっしゃるの?」


 鈴紅は興味深そうに八重の話に食いついてくる。その様が、甘えてくる妹のようで可愛らしい。

 天涯孤独だった鈴紅も、ずっと誰かに甘えたくて仕方なかった。初めて、年上の女に出会えたことが嬉しかったのだ。

 だが、自分がらしくないことをしていると気づいた時、鈴紅は顔を真っ赤にして慌てて八重から距離をとった。


 ──恥ずかしい……。


 咳払いをして、その場を誤魔化した。


「ですから、ね、私と関わってもろくなことないです。こちらも困っていますので今回だけは協力します」

「分かったわ」


 鈴紅は考えた。頭領の言う通り、如月に罪をなすりつけてしまえば、神隠し問題は解決しない。それに加えて、如月の身内の恨みを買うことになる。何事も慎重に動かねばならない。

 八重は多くの情報を提供してくれた。攫われた人達についてや、最後に目撃された場所。聞いてみると、いくつか共通点があった。


「攫われたのは、女や子供が多いですね」

「皆、あそこの山で姿を消したみたいなの」


 八重は、濃い霧に包み隠された山を指さした。周りの風景と比べて、あそこだけ暗く静かな雰囲気を纏っている。それに、おぞましい邪気を感じる。


「巫女様は、あの山に行ったことありますか?」

「私はないわ。でも、霧の部族から数人が向かったけど、誰も帰ってきていないの」


 行方不明者は誰も帰還していない。あの山に足を踏み入れた時点で、命の保障はないらしい。

 しかし、よく考えてみれば、行方不明になったのは人間だけだ。妖なら、無事に帰ってこられるかもしれない。


「私が、入ってみましょうか?」

「え?」


 八重の目が大きく見開かれた。


「何を言うの、あなた一人で行くというの?」

「私は鬼です。私なら、帰ってこられるかもしれない」


 "無事"に帰ってこられるかは分からない。それでも、鈴紅は妖を統率する鬼神の一人だ。自分の価値ぐらい分かっている。


「これは、私の仕事でもあります。自分で確かめに行くぐらいは出来ます」



「───それは無理だ」



 突如、聞き覚えのある声が、鈴紅の言葉を否定した。鈴紅と八重は同時に目を見開いて振り返る。


「蛍助……」


 ちょうどいい所で、鈴紅の会いたくなかった男が現れた。


………………


「あの山の周辺は、霧の部族が見張りをつけている。誰も近寄ることは出来ない」


 蛍助はそう言って、鈴紅と八重を厳しい顔つきで交互に見つめた。


「それで、いつの間にあんたらはそんなに仲良くなってんだ」


 蛍助が睨めば、八重は眉間に皺を寄せてそっぽを向く。明らかに仲の悪そうな二人を、鈴紅は不安げに眺める。お互いに嫌っているようだ。


「私、帰るわ。さようなら、文月」


 八重は気分の悪そうな顔で、颯爽と蛍助の横を通り過ぎて社を出て行った。

 その背中を見送った後、鈴紅は立ち上がって蛍助を睨んだ。


「あんな態度、あんまりじゃないの? あの巫女様と仲悪いの?」

「どうでもいいだろう」


 蛍助は八重のことを考えるだけでも鬱陶しいといった態度で、鈴紅から目をそらす。

 八重は優しくて面倒見のいい、出来た女だ。鈴紅を妖だからといって嫌悪しなかった、優しすぎる性格の持ち主だ。蛍助は八重の何が気に食わないのか。


「それに文月、さっきの話はなんだ!」


 急に怒鳴られて、鈴紅の肩がビクリと震えた。蛍助は怒ったような顔で、鈴紅を鋭く見つめている。


「一人で行くなんて、そんな…」

「蛍助には、関わりのないこと。どうするかなんて、私の勝手でしょう」


 自分でも、何故こんな冷たい言葉が出てきたのか分からない。鈴紅が自分自身に戸惑っていると、蛍助は更に怒りに満ちた表情で鈴紅の肩を掴んだ。


「関わりのないこと……?」


 蛍助は今にも泣いてしまいそうな表情を浮かべていて、肩を掴んでいる両手は、小刻みに震えている。


「何で、そんなこと言えるんだ……俺は、俺はあんたが…あんたが好きで……!」

「──っ! やめてってば!!!」


 喉が潰れんばかりに叫び、蛍助を押し返してしまった。だって、こうでもしないと、本当に蛍助を愛してしまいそうになるから。愛してしまえば、鈴紅の大切なものも、蛍助の大切なものも壊れてしまうから。

 鈴紅は大粒の涙を流した。もう、止められなくなった滝のような涙を見せながら、鈴紅は蛍助に頭を下げた。


「ごめん…なさい……」


 次の言葉を言ってしまえば、蛍助との関係は終わりだ。でも、伝えなければならない。

 鈴紅は震える唇をなんとか動かして、言葉を紡いだ。


「私、お嫁に行くの……」

「………」


 蛍助の目が大きく見開かれる。鈴紅が一人ぼっちだったなら、蛍助は何がなんでも鈴紅を手に入れていた。でも、鈴紅には既に相手がいたなんて、知りたくもなかった。

 

 ──何だ、それ……。


 蛍助は重く硬いものに頭を殴られたような衝撃を受け、倒れそうになるのを必死に堪えた。


「はは…そうだったのか……」


 まるで自分を嘲笑うように、蛍助は肩を震わせる。


「嫁に行くから……だから、俺を……」


 傷心のあまり鈴紅と目も合わせられなくなった蛍助。その様子を見て、鈴紅は口元を押さえた。


 ──私、なんてことを……。


 あれほど大切だった蛍助を、傷つけてしまった。鈴紅は胸の前で拳を握りしめると、一歩後退した。


「ごめんなさい……ごめんなさいっ!」


 ついに蛍助に背を向けて、鈴紅は走り出した。後ろから、追ってくる気配もない。鳥居をくぐり抜けて、がむしゃらに走った。

 社から大分離れた所で、鈴紅は近くの木にすがりついて、声を上げて泣いた。



 いつでもお前を見張っているからな。



 憎き頭領の言葉が、何度も頭の中で響き渡る。その度に、鈴紅は動けなくなる。


「誰か…誰でもいい……助けて……」


 誰か、家族の愛情を分けて欲しい。少し前までは、大切な姉と、育ててくれた叔父夫婦と平凡に暮らしていたはずなのに。いたずらをしたり、料理をつまみ食いして、よく叔母に怒られていた。外で遊んだ後、眠くなって叔父におぶってもらっていた。姉とお歌を歌って、笑いあっていたのに。あの時と思い出は、どこに行ったのか。

 姉を死に追いやった男と、何故、夫婦にならなければならない。おかげで好きな人と一緒になれない。毎日毎日、怯えた生活を送らねばならない。どうして、こうなった。どうして。


 ──どうして……………。

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