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鬼姫の曼珠沙華 ─濡烏の章─  作者: 紫木 千
第一章『初恋編』
3/30

【第一章】道具

 曼珠沙華に文月として選ばれた鈴紅は、そのまま頭領の元へ引き渡された。義覚の屋敷が襲撃を受けた日の翌日のことであった。


「何なのだ、その小さいのは」

「二代目文月の妹らしく、新たに曼珠沙華に選ばれた三代目文月であります」


 拘束されたまま頭領の御膳に跪かされた。鈴紅は姉を死に追いやった男を目にし、心の奥底からふつふつと怒りが沸いてきた。


「姉様を返せ!」

「黙れこのガキ! このお方を誰と心得る!」


 鬼は鈴紅の黒髪を強く引っ張り、後ろに下がらせた。


「この子供が次の文月だと?」

「ええ、曼珠沙華で鬼をぶった切っていくのを確かに見ました」


 頭領は興味深そうに鈴紅を見つめる。やがて、頭領はにやりと笑うと鈴紅の小さな角を掴んだ。


「貴様を生かしてやる。その代わり我の元で存分に働いてもらうぞ」


 鈴紅は頭領を思い切り睨みつけた。道具のように扱われるなど真っ平御免だ。それが分かったのか、頭領は言葉を続けた。


「よく聞け、義覚と義賢の夫婦はまだ生きている」


 敵意剥き出しだった鈴紅はまさかの事実を聞かされて、目を見開いた。親代わりだった叔父夫婦はまだ生きて捕らえられているという。


「元々、お前の姉が目的だったのだ。あの夫婦は生かして閉じ込めておる。助けたくば、これからは我の言う通りに動くのだ」


 それでも鈴紅は頭領を疑った。もしかしたら、叔父夫婦は既に殺されていて、頭領は嘘をついているのかもしれない。すると頭領は立ち上がって鈴紅を見下ろした。


「ならば、ついてこい」



 頭領に連れられて、鈴紅は地下に足を踏み入れた。

 奥まで歩き、ある牢屋の前に止まった。


「鈴紅……?」


 聞き慣れた声が鈴紅の名前を呼んだ。


「叔父様、叔母様!」


 牢屋の中で、傷だらけの夫婦が座り込んでいた。

 叔父夫婦との再会に喜ぶ鈴紅の背後で、頭領は「これが証拠だ」と言った。


「どうだ、三代目文月よ。お前がしっかりと働き、我を満足させることが出来たなら、その夫婦に自由を与えよう」


 鈴紅の表情には迷いが生じていたが、叔父夫婦を救うため、そして自分を守るためにこの取引に応じるしかなかった。


「分かりました。お仕事、頑張ります……」


 鈴紅は大人しく従った。その様子に頭領は唇の端を吊り上げた。


「では、これからは我を父とするが良い」


 姉を死に追いやり、育ててくれた叔父夫婦をぞんざいに扱った男が親になるなど吐き気がするが、ここで反抗すれば叔父夫婦の命が今すぐにでも取られかねない。




 鈴紅は頭領の家来に連れていかれて、牢屋を出た。残った頭領は、叔父夫婦に視線を送る。


「ご苦労」


 頭領のその一言を聞いた途端、叔父夫婦は黒い化け物へと変化した。


「まんまと騙されたな、やはり子供だ」


 叔父夫婦の姿はどこにもない。あの黒い化け物のことを叔父夫婦だと思い込んだ鈴紅を、頭領は嘲笑した。


「我の元で必死に働くが良い。死ぬまでな」



………………………………………………



 鈴紅は頭領の管理下で必死に働き続けた。叔父と叔母を助けるために、多くの命を奪った。依頼されれば女であろうと子であろうと、弱き者であろうと殺した。


 それから十年。


「文月様がいらっしゃいました」


 襖が開き、現れた女に一同は感嘆の声をあげた。烏の濡れ羽色の髪を持つ、美しい女がそこにいた。


「滅を司る鬼神、三代目の文月にございます」


 集団の中心にいた、着物を纏った大ガエルがしわがれた声で「これが濡烏……」と女の呼称を呟く。


「よくいらっしゃったな、では、早速だが聞かせてくだされ。そなたの歌声は実に美しいと聞いている」


 文月、もとい、鈴紅は表情ひとつ変えず、まるで人形のような顔で礼を言う。

 部屋の隅に控えていた女たちが箏の弦を弾いた。それに合わせて鈴紅は美しい歌声を発する。優しく繊細な声に魅了された妖たちはうっとりとした顔で鈴紅を見つめる。


「お美しい方ですな」

「鬼神でなければ、我が嫁にしていたというのに」


 鈴紅の横顔を見つめる妖たちは、迫り来る黒い影に気づかない。歌声に乗り、黒く大きな手がある一人の妖に近づいてくる。


 そして。


「──ッ?!」


 突如大ガエルが口から血を吐いて倒れ込んだ。畳の上に鮮血が散らばる。

 皆は驚き、カエルの元へ駆け寄った。


「ガマ様、どうなされた!?」


 ぎょろりとした目は見開かれ、家来が揺さぶっても何の反応もない。

 その騒ぎの中でも微動だにしない鈴紅は、倒れた大ガエルをじっと見つめている。


「ガマ様は、確か病を患っていらっしゃった。突然悪化したのやもしれぬ……」


 カエルの家臣たちも口々にそう言い始める。


大蝦蟇おおがま様は、如何(いかが)なされましたか」


 鈴紅の問いかけに、家臣は慌てて答えた。


「申し訳ありませぬ、文月様。どうやら持病の悪化が……」

「そんな……」


 鈴紅は流れてくる涙を袖で拭いながら呟いた。

 その様子に一同はどよめいた。


「失礼致しました」


 袖の隙間から見える輝く玉のような涙。それを目にした途端、男たちはあっという間に鈴紅の虜となった。

 とにかく、ガマ様をお運びせねばと皆は立ち上がった。大ガエルの手足をそれぞれ四人で掴み、大きな腹を二人で支え、男六人がかりで運び始めた。




 結局、宴会はお開きとなった。大ガエルの死を伝えられた鈴紅はまたしても袖を濡らした。


「お亡くなりになられたのですか……。このお屋敷に来るまで良くしていただいたのに……」

「どうか、泣かないで」


 カエルの妖たちは涙を浮かべる鈴紅を励まそうと必死だ。美しい女へ点数を稼ぐために優しい声で宥める。

 後から大蝦蟇の補佐が部屋に入ってきた。


「やはりガマ様は病が悪化して死に至ったと医者が言っておったぞ」


 そう伝えると一同はやはりか、と納得する。


「文月様も突然の事でお心が傷んだことだろう。さあ皆、退いた退いた」


 この男がそう声をかけると皆は渋々引き下がった。全員が部屋を出たのを確認すると男は静かに戸を閉めて、鈴紅と向かい合うように座るととある箱を見せた。箱の中は、金銀財宝が詰まっている。


「確かに受け取りました」


 先程まで泣き濡れていた鈴紅はすっと涙を拭き取るとその箱を手元に引き寄せた。


「私の言いました通りでしょう、文月様。病に見せかけて殺せば誰も疑いやしないと。大蝦蟇は、横暴な奴でしたからな。これからは私が頂点に立つ番にございます」


 男は鈴紅の耳元でそっと呟き、悪い顔でにやりと笑う。


「では、私はこれで。失礼します」


 鈴紅は頭を下げて立ち上がり、戸に手をかけた。


「文月様、もしやあなたも、鬼の頂点を狙っているのでは」


 男は鈴紅を引き止めて、そう言った。

 鈴紅は振り返ると満面の笑みを浮かべた。


「あら、そんなことありません。私は上に立つよりも下にいる方がお似合いですもの」




……………………………………………………………………



 鈴紅はお宝を頭領、睦月の元へ直接渡しに行った。使いのものに頼めば、お宝に目がくらんでこっそり盗っていくかもしれないと考えたのだ。

 もちろん、頭領に会いに行くのは嫌に決まってるが、仕方あるまい。


「ご苦労、文月」


 鈴紅が一生恨むことになるであろう男は、満足そうに笑うと報酬のお宝を全て受け取った。


「では、私は帰ります」

「そう申すな。酒でも飲むか」

「結構でございます。明日も早いので」


 頭領は立ち上がった鈴紅をじっくりと見て、にやりと笑う。


「お前も随分と成長したな」


 出会った頃は生意気な餓鬼であったが。

 鈴紅は無表情を見せつけて「どうも」と頭を下げる。


「お前を我が嫁にしようとも思うのだが……」

「……! それは、考えておきます」


 早くこの屋敷からでていきたい。頭領の言動に嫌悪し、鈴紅はさっさと部屋を後にする。

 残された頭領はふんと笑ってお宝を愛でた。


「嫌われたものよのう」





 帰宅した鈴紅は早足で廊下を歩いて行く。非常に苛々とした様子で通り過ぎていくものだから、女中たちは心配そうに顔を見合わせる。

 自室に入ると鈴紅は着物を思い切り脱ぎ捨てた。


「おのれ、あの男っ」


 嫁にされると思ったあの瞬間、気持ち悪さが身体中を駆け巡った。

 懐から鈴を取り出して、それを大切に胸に抱くと座り込んだ。


「姉様……」


 助けて欲しいのに、一番の家族はもうこの世にはいない。一度生存が確認出来た叔父夫婦は十年間牢獄生活ではきっと体も壊すだろう。早く自由にしてあげなければ。


「見てなさいよ……あの男を頭領の座から引きずり下ろしてやる……」


 鈴紅はそう固く決意すると、唇を噛み締めた。




 それからも、いつもの一日が続いた。表向きは身も心も美しい歌姫。裏では頭領の報酬のために働く殺し屋。

 あとどのくらい働けば、叔父と叔母を解放してくれるのだろう。十年前に牢屋に閉じ込められている叔父夫婦に再開してから、それきりだ。あれから会わせてもらえていない。

 それでも、叔父夫婦と自らの命を惜しんで黙っていた。


 しかも、頭領との婚約の話は鈴紅の意思を無視して着々と進められていた。

 姉の紅華の時のように、この婚約を断れば殺されるかもしれない。だからこの件についても余計な事を言わぬよう努めた。

 そうやって自分の意見を押し殺して過ごしていくうちに、何もかもどうでも良くなっていった。



…………………………………………



「文月様、どちらへ」

「そこらをぶらぶらと歩いてくる」

「左様でございますか。このところお仕事ばかりでしたものね。気分転換も必要ですよ」


  鈴紅はそうね、と女中に笑いかけた。女中に青紫の着物を着せてもらい、鈴紅は屋敷を出た。


 人間の住む場所に足を踏み入れたのは、昼のことであった。特に深い意味は無い。ただの好奇心だった。


「そこの美人さん、休んでくかい」


 妖術で人間に化けた鈴紅に、茶屋で働く女性店員が陽気に話しかけた。鈴紅は黒髪を揺らしながら振り返ると困り顔で微笑んだ。


「せっかくですけど、急いでいるので。ごめんなさいね」

「そりゃ残念だね。いつでもいらっしゃいな」


 鈴紅は「ありがとう」、と心から感謝を述べた。

 歩き回れば色んなものがあった。たくさんの店が立ち並び、人々は賑わう。こんな場所もあったのだなと心が踊った。

 足取りが軽くなる。人間の住む町はこんなにも楽しい所だったなんて。


 ──妖の住む場所にも、町を作ることが出来たなら。


 町の景観を見つめながらそんなことを思い始めた。

 日々の疲れがすっかり取れて、人間の住む場所で十分満喫出来た。そろそろ帰るかと、来た道を引き返した。


「こりゃあ良い女を見つけた」


 人気のない道の途中で男たち三人が鈴紅を取り囲んでいた。


 ──何だ、この態度だけは一人前の虫けら共は。


 傍から見ればか弱い女一人を囲む大柄な男三人に見えるが、この女は鬼である。

 正しく言えば、虎一頭を囲む蟻三匹である。


「姉ちゃん、ちょっと付き合えよ」


 軽々しくも肩に手を置いてきた男を横目で睨みつけて、その手首を掴んで引き剥がそうとした、その時。


「男三人で女一人を囲むなど、卑怯ではないのか」


 突如、声がかかった。男たちの背後に立っていたのは見知らぬ青年だった。


「おいこら、おら達に喧嘩ふっかけるたァいい度胸してんな」


 その中でも一際大きな体を持つ男が、青年の胸ぐらに掴みかかった。だが青年は堂々としていて一切怯まない。ごつごつとしたその腕を捻り上げ、男を投げ飛ばした。この青年、見た目の割にはよくできるようだ。


「兄貴っ! 畜生!」


 他二人の男たちは鈴紅に掴みかかった。予想外の行動に青年も助けられず、鈴紅は捕らえられた。


「おい、それ以上近づいたらこの女、タダじゃ済まないぞ!!」

「おい」

「あ? ──……!?」


 鈴紅を捕まえたのが間違いだった。男たちは鈴紅に鳩尾を殴られて、白目むきながら仰向けに倒れた。


「私に触るんじゃないよ」


 鈴紅は手足を痙攣させる男共を鋭く睨みつけて、着物に着いた土埃を払ってその場をあとにした。



「なあ、待ってくれ」


 鈴紅の背中についてきたのは、鈴紅を助けたあの青年だった。慌てて追いかけてきたため、着物が着崩れている。

 もう用はないはずだが、何しに来たのだろう。鈴紅は首を傾げながら振り返った。


「何でしょうか」

「いや……怪我はなかったか?」

「ありません。どうも、ありがとうございました」


 礼は言った、他に話すことはない。素っ気なく青年に背中を見せた。


「あ、待て。ここで会ったのも何かの縁だ。茶でも飲まないか?」


 明らかに怪しい。それに、縁とはなんだ。人間はそんな理由で他人を茶に誘うのか。それとも助けてやったから金でも払えというのか。色んな考えが鈴紅の頭を巡るが、どれもこれも、世間知らずな彼女の被害妄想である。


「怪しいものではない。俺は蛍助っていうんだ、あんたは?」

「文月……」


 鈴紅は少し悩んだ末、自分の鬼神としての名を口にした。当時、鬼神となった者は暗黙の了解で、容易に自分の本名を他人に教えないようにしていた。古い風習ではあるが。


「文月、俺の奢りだ。一緒にどうだ」


 蛍助は優しい笑みを見せて、すぐそこの茶屋を指さした。面倒だが、一緒に行ってやるぐらいなら良いだろう。

 助けてもらった恩もあるし、別に急いで屋敷に戻らねばならないという訳でもない。鈴紅は大人しく蛍助という人間の青年について行くことにした。




「あれま、先程の美人さんじゃないか」


 その茶屋の店員は鈴紅を見て嬉しそうに目を輝かせた。


「嬉しいねえ、来てくれたのかい。お隣はもしや……」


 店員に耳元で恋仲かい、と聞かれたので全力で否定した。何故この男と並んでいるだけで恋仲と間違われなければならないのだ。

 隣に視線を移せば蛍助が不思議そうに首を傾げている。いっその事、一発殴ってやればこの勘違いもなくなるだろうか。


「ま、お二人さんに美味しいお茶を差し上げるかね」

「お、じゃあお団子くれよ!」


 無邪気に甘味を頼む姿はまるで子供だ。店員は、梅という名で旦那さんと二人で茶屋を営んでいるらしい。客だ客だと嬉しそうに準備しにいく姿を見送っていると、


「なあ、文月」


 蛍助がおもむろに頭を掻きながら話しかけてきた。


「その、なんだ。あんたって強いのな」

「そうですか」

「それに……あんた、もしかしてどっか良いとこのお嬢様か?」


 鈴紅の立ち振る舞いや品のある口調から、金持ちの娘だと思ったらしい。実際、鬼神なので良い所のお嬢様には間違いないが、ここで鬼であると疑われる訳にはいかない。バレたらその場で捕えられるかもしれない。


「いいえ、別に」


 鈴紅はそう言ってつん、とそっぽ向いてしまった。しかし、烏の濡れ羽色の髪と外の世界を知らない白い肌。ほのかに香る花の香り。どう考えてもどこかのお嬢様だろう。

 それにしても、男を虜にしてしまう容姿を持ちながら、素っ気ない態度。本当に良い所の女性だったら、こっちは見向きもされないだろうなと、蛍助は心の中で呟き、溜息をついた。


「まあ、あんたがどんなに強かろうと、あんな人気のない道はあまり通らぬ方が良いぞ」

「そうします」

「それに、危ないのは人だけではなく、妖もだ」


 その言葉に、鈴紅はぴくりと肩を震わせて俯いた。


「近頃、この辺りで妖が人間を襲っているらしくてな。お前も十分気をつけろよ」

「……ええ、わかりました」


 この辺りに妖が出るのか。人間が密集しているからてっきり妖は寄り付かないものと思っていた。もしかすると、知能が高い奴なのかもしれない。


「それって、この間、宿屋の主人が体を裂かれて亡くなってたってやつのことかい?」


 お茶と団子を持って梅が尋ねてきた。


「お、きたきた」


 蛍助は団子を受け取ると美味しそうに頬張り始める。その隣で、鈴紅は首を傾げて梅に聞き返した。


「体を、裂かれて?」

「そうなんだよ、夜中にご主人の叫び声が聞こえてきて、そこの奥さんが駆けつけた頃には見るも無残な姿で倒れていたんだってさ。何でも、鬼がやったんじゃないかって噂だよ」

「鬼……」


 鬼という種族は沢山いるが、そこまで凶暴な鬼となると余程体が大きいのだろう。ならば、すぐに誰かに見つかるはずだ。しかもここは人口が多いから尚更目立つ。


「人喰い鬼だな」


 梅の旦那、卯吉が腕を組みながら話に入ってきた。


「やっぱり、鬼は人を食らうんだね。前は神として祀られてたらしいが……」

「確かに鬼は神様とか聞くけど、食われちゃたまったもんじゃない」


 その何気ない言葉の一つ一つが、鈴紅の表情を曇らせていく。鈴紅の様子に気づいた蛍助はどうした、と鈴紅の肩を叩いた。


「文月、具合悪いのか。顔が真っ青だ」


 無視してくれればいいものを。鈴紅は目を瞑って冷静に言葉を紡いだ。


「人喰い鬼だなんて、少し恐ろしくなっただけです」


 そう言うと、茶屋の夫婦も心配そうに鈴紅の背中を摩った。


「すまないね、こんな話。怖がらせちゃったかい」

「いいえ、昔から怖がりなもので」


 苦笑いを浮かべれば、夫婦はすぐに信じてくれた。ここで正体を知られてしまえば、その宿屋の主人を襲った鬼が鈴紅だと思われてしまう。いつもの演技で誤魔化せばすぐにその場は収まった。

 だが、蛍助だけは意味深長な顔で鈴紅を見つめていた。鈴紅も、そんな彼に気づいていない。


「おや、綺麗な夕暮れだね」

「お二人とも、そろそろ帰った方がよろしいのでは?」


 空を見上げると陽は傾いていて、真っ赤になっていた。まるで血の色のようだ。

 蛍助は立ち上がると勘定を済ませて鈴紅に手を差し伸べた。


「行こう」

「え……」


 鈴紅がじっとその手を見つめて固まっているので、蛍助は痺れを切らして彼女の手を掴んで立ち上がらせた。


「ちょっと……!」


 鈴紅の手を引いて、歩き出した蛍助。何を考えているこの男、と鈴紅は掴まれている左手を見つめて顔を赤くした。


「そんじゃ、ありがとな!」

「毎度、ありがとうございました〜」


 並んで帰る二人を見送り、梅はにやにやと笑いながら夫の肩を叩いた。


「やっぱりあの二人出来てるよ」

「お前、そういうの好きだもんなぁ」


 卯吉は困り顔で溜め息をついて、仕方ないなと笑った。この夫婦も、若い頃はあんな風に初々しかったものだ。




 蛍助に手を引かれながら、鈴紅は後ろから何度も呼びかけた。


「蛍助、離してください……あの……」


 夕焼けの下、人々は家に帰ろうと道を急いでいる。その反対方向に向かって歩いていく蛍助。ただでさえ、殿方には慣れていないというのにいきなり手を取られては気絶しかねない。誰かこの状況から救ってはくれまいか。

 しばらく歩いて、人気のない所まで来ると蛍助は足を止めた。


「なあ、文月」


 そのまま、ゆっくりと振り返る蛍助。その表情は真剣で、そして鋭い目付きで鈴紅を見つめている。


「お前、人間じゃないだろ」



………………………………………………



 鈴紅はその場に硬直してしまった。蛍助の目に射抜かれて、体が痺れたように動かない。動悸が激しくなる。苦しいのに、彼から目が離せない。


「何を、言うの……」


 とにかく何か言わなければ。そうしてやっと声を出したが上手い言葉が見つからない。そもそも、蛍助はいつから気づいていたのだろう。何故バレたのだろう。


「人喰い鬼の話が出た時、様子がおかしかった」

「それだけで、私が人間ではないと言えるのですか」


 たったそれだけの理由なら、どうにか誤魔化せる。この蛍助という男は意外と鋭いが、言葉の用意が足りない。

 鈴紅は口元を抑えて、おかしそうに笑ってやった。


「おかしなことを言いますね」


 しかし、蛍助は懐から紙を取り出して鈴紅に差し出した。


「これが証拠だ」


 何だそれは。鈴紅は首を傾げてその紙を受け取ろうとした。が、何かを感じとりすぐに手を引っ込めた。


「どうした、早く読め」


 差し出されたその紙は受け取れない。何故ならその紙は、妖怪が触れれば跳ね返されてしまう魔除けの文だからだ。恐らく、そこには大量のお経が綴られているのだろう。


 ──この紙に触れてしまえば、手を弾かれて変化が解けてしまう……!


 真の姿を見せたその時は、この男を殺さねばならない。鈴紅は仕事以外で命を奪いたくはなかった。


「何故、受け取らない」


 蛍助は鈴紅を完全に疑っている。魔除けの紙を持っていたとしても、どうして正体が分かったのか。


「ならば、力づくで」

「あ、待っ……!」


 蛍助にその紙を押し付けられてしまった。紙が鈴紅の体に触れた途端、稲妻が走り、鈴紅は弾かれた。そのまま、変化が解かれて蛍助に本当の姿を晒してしまった。頭に生えた二本の角と辺りを漂う妖気からして、鈴紅が鬼であることは明らかであった。

 鈴紅も、蛍助の持っている刀を見て全てを悟った。


「霧の…部族……」


 蛍助は、妖退治の一族、霧の部族の者だった。だから、妖に敏感で、鈴紅の正体もすぐに勘づくことが出来たのだ。

 倒さねば、そう思って曼珠沙華に手をかけたが、そのまま鞘から抜き出すことなく鈴紅は姿をくらました。大量の物の怪たちを放ち、蛍助がそれに気を取られている隙にその場から逃げ出した。



 鈴紅が完全に姿を消すと、それと同時に物の怪たちもパッと消えてしまった。戦う準備をしていた蛍助だったが目の前にいた化け物は一瞬にして消えて、何が何だか分からなくなった。

 あの鬼の女もいない。どこにも気配は感じられない。静かに刀を鞘に収め、地面に落ちた魔除けの文を拾い上げた。


「あの鬼……消えたか……」


 取り逃してしまった。とは言っても、あの鬼が宿屋の主人を殺したとは断定出来ない。次見つけたら問い詰めるか、と文を懐にしまった。

 しかし、あの綺麗な横顔と黒髪、仕草。素っ気ない態度だったが、触れると顔を赤くしていて可愛いなとも思ってしまった。その全てが鮮明に思い出されて、彼女が鬼であることをてっきり忘れてしまいそうになる。文月の姿が頭に焼き付いて離れない。



………………………………………………



 鈴紅は転がり込むようにして帰宅した。心臓の音がうるさい。高鳴る鼓動を両手で押さえつけた。これはきっと、人間に正体を知られて驚いているのだろう。そうに違いない。


「文月様、やっとお帰りになられたのですね」


 女中は慌てて鈴紅に駆け寄った。


「あの…頭領がいらっしゃってます」

「何ですって……」



 案内された部屋で、あの男が腕を組んで待っていた。鈴紅を来た途端、気味の悪い笑みを浮かべてじろじろと見つめてくる。


「遅かったではないか、文月」

「遅れて申し訳ありません。なんでしょうか、こんな所まで……」

「お前に仕事を持ってきた」


 そう言って頭領は紙で包まれた何かを鈴紅に渡した。そっと開いてみると、そこには少量の金の粒があった。


「依頼人は、人間だ」

「人間?」


 鈴紅の殺しは妖だけでは留まらず、人間も依頼が可能であった。


「今回は報酬が多くてな。少しばかりお前に分けてやる。有難く思え」

「感謝致します」


 しかしこれは、本当に報酬のほんの一部なのだろう。鈴紅に仕事をさせて、その多くは頭領が全部横取りしているのだから。


「人間の町で、鬼に食い荒らされた男がいる。その妻からの依頼だ。夫を殺した鬼を始末してほしいと」


 茶屋で聞いた、あの宿屋の主人か。


「殺した後はもっと大金が送られるそうだ。よろしく頼むぞ、文月」


 鈴紅は眉間に皺を寄せて、その心中を悟られぬように丁寧にお辞儀をした。

 頭領は楽しみだと言わんばかりに唇の端を吊り上げた。


 ──よく働くが良い。お前は我の道具なのだからな。文月。

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