【最終章】濡烏の決断
彼の御方の腕の中で迎える朝は、これまでに感じたことのなきほどに快く、敷布にありありと付いた皺と流体は、昨夜の事を思い出させ、その都度冷えた柔肌が火照ってゆく。己が身を焦がすが如く。
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練清との間に娘が生まれたのは、月の美しい、静かな夜のことだった。母の腕に抱かれ安心したように眠る赤子は、どことなく亡き娘の瑞華の赤子だった頃によく似ていたが、息子の瑞樹の前で涙を見せるのも憚られ、ぐっと堪えた。 瑞樹は初めての妹にとても関心を示しており、しわくちゃの顔を覗き込んでは、まだあどけなさの残る顔を緩ませる。美しい月と書いて、美月という名はどうだろうかと提案してみると、瑞樹も練清も、他の皆も、素晴らしい名だと快く頷いてくれた。瑞華が好きだった美しい月が宵闇に浮かぶ日に、歴史を動かすであろう最後の娘が誕生したのであった。 しかし、美月を産んで間もなくして、鈴紅は寝床から離れられない状態が続くようになった。竜宮の医者、アマによれば、もう子を授かることは出来ないであろうと告げられたが、鈴紅にはもう望むものはなく、悔いることもしなかったが、成長し、お喋りが出来るようになった美月から遊ぼうとせがまれて、もう母としての責務を果たせないことにようやく気付かされた。 瑞樹は必死に母の代わりになろうとまだ幼い美月の面倒を見るようになり、その甲斐もあって、二人はとても仲睦まじい兄妹となった。瑞樹もきっと、寂しかったのかもしれない。信頼していた双子の姉の命を実の父に奪われた衝撃は、小さな体で受け止めるにはあまりにも強大で、練清に引き取られた後も常日頃から疑心暗鬼になっていたのだ。ようやく血のつながった愛しいものに出会えて、瑞樹は本当に幸せそうであった。
横になったままの小さな鈴紅の手を、大きな手が強く包む。鈴紅は、気づいていた、夫の練清の異変に。しかし、見栄っ張りな彼を思って、気づかないふりをしていた。
「私の、曼珠沙華の能力は、恐ろしいものです。私が今こうなったのも、この力を使い過ぎたがため。次の代の鬼神は、場合によっては血で判断されると聞きます。美月には、文月になって欲しくはありません」
最終的に決めるのは曼珠沙華。自分がいなくなった時のことを考えると胸が痛む。 しかし、血などはおまけに過ぎない。文月になる条件は、この世に絶望すること。または、心に隙があること。衝撃的な何かが、あの幼い身にぶつかりでもすれば、確実に四代目に選ばれてしまうだろう。練清は、弱り切った愛しい女の手を握り、美月は幸せな子だから、そんなことは起こりえるはずがないと、否定した。鈴紅も、唇の端を緩ませ、頷いた。
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鈴紅にも、ささやかな幸せが訪れたと思われていた頃、妖の国の空模様が怪しいと、練清を始め、多くの者達が気づき始めていた。 同じ頃、空模様を心配したらしい医者のアマが、竜宮から地上へと上がってきては、頭領である練清に謎の病が流行り始めると告げた。しかし練清が手を下す前に、病が容赦なく不特定多数の者に襲い掛かった。 悔いる練清に、アマも同じく悔しそうに肩を落としながら、この病を止める術はないと伝えた。
「この病の正体は」
練清にそう問いかけられたアマだったが、俯き、頑なに答えようとはしない。 代わりに、奥方が病に侵されないことを願うとだけ伝え、長い髪をずるずると引きずりながら、どこかへ消えてしまった。
鈴紅は、夢を見た。青年が、ボロボロの体で、無気力な顔で、妖達を次々と無差別に殺していく様子を傍観しているような、恐ろしい夢だった。 しかし、鈴紅を最も苦しめたのは、その青年が、前の夫に利用され消滅したはずの、緤那であったこと。彼の背後に潜む影の正体が、元夫の前頭領で、自分に向かって不敵な笑みを浮かべていたことである。
目を覚ました鈴紅は、汗でじっとりと張り付いた黒髪も構わず、荒い呼吸を整え、掛け布を掴み握りしめた。緤那は消滅していない。簡単に消滅出来るはずがないのだ。なぜなら、彼の命は、鈴紅と繋がっているのだから。鈴紅が死なぬ限り、彼は死なない。それよりも最悪な事態が起きている。緤那を操る頭領の執念は強く簡単には剝がせない。つまりは、死んでも死にきれないあいつが、悪霊と化した時、緤那の力を使って復讐をしにこの世に舞い戻ってくるだろう。練清が鈴紅を殺せないことをいいことに。
一人思い悩む鈴紅の元へ、馴染んだ顔の医者が訪ねてきた。彼がまず真っ先に伝えてきたことは、鈴紅の予想をはるかに上回る言葉であった。
「落ち着いて聞いてください。美月姫様は、二代目の頭領の呪いに既にかかっておいでなのです」
「どういうこと…」
「あなたは、二代目の頭領が生み出したとされる人形と命が繋がった状態で、姫君をお産みになられた。つまり…」
つまりあの男は、緤那を通してこの国に異変や病をまき散らしただけでは飽き足らず、鈴紅の最愛の娘にまで呪いをかけたのだという。
「呪いとは…」
「姫様は、この先、不幸に見舞われることでしょう。たとえ二代目の頭領を退治出来たとしても、呪いは強く残り続ける」
「瑞樹は…大丈夫なのですか…美月だけを狙っているのですか」
「そうです。姫様は、唯一頭領とあなたの血を引く御方だからです」
唯一、練清と鈴紅の血を引く姫。自分を殺し男と、自分の元から逃れた女の娘だから、呪いをかけた。 まだ幼く無垢な子なのに、何の罪も犯していない唯の子なのに。まだ自分の身を守る術さえも持たないというのに、これからどんな目に合うのかも分からないまま、生きていくのだ。あまりにも酷すぎる。
ふと、鈴紅はとある考えを思いつく。
「あの子が、鬼神になれば…。あの子は両親とも鬼神だもの…そうすればきっと」
「鬼神を決めるのは武器の気まぐれと言っても過言ではありません。器に十分適していらっしゃる野々姫が選ばれないのが何よりの証拠」
では、もしも鈴紅が息絶えたとしても、美月が文月になるかは分からない。 思い悩む鈴紅は、重い口を開き、震える声でこう伝えた。
「とにかく、私はもう長くはありません。私が死ねば、緤那も息絶え、この国の異変は止まるでしょう。美月のことは、美月自身に委ねるしかない…」
美月はまだ幼い娘とはいえ、鬼神の子であり、頭領一家の姫、時期にこの国を率いらなければならない。どんなに打ちのめされても、泣いている暇もないのだ。全ては美月次第。 鈴紅は頭領の妻として、その覚悟は出来ているのだが。
「ははうえー」
母として、決断を鈍らせていた。
「兄上と、お花を摘んでたの。母上にもーー」
小さな手で、可憐な花弁を輝かせる小さな花を見せて微笑む娘を、その後ろから付いてきた息子を、鈴紅は両手に抱きしめる。 母の腕の中で困惑する子供達の心配そうな声にも反応出来ずに嗚咽を零す鈴紅を、アマは悲しそうな顔で見つめていた。
…………………
如月となった練徳と、妻、野々姫は、鉛色の空が徐々に赤黒く染まっていく様を見上げながら、表情を強張らせた。二人の間に生まれた青葉と楓を部屋に戻し、夫婦は練清の元へと足を運んだ。
訪ねてきた弟夫婦と練清は、多くの部下に城下での様子を探らせた。病により苦しめられていく者達、枯れた植物。各地に散らばった鬼神達が修復を施しても効果は期待できないという。 鬼神の力をもってしても、この威力。元凶は、ある男しか考えられなかった。しかも練清を狙うように、菊ノ清城を中心に脅威は広がっている。二代目の執念深さには、驚かされる。死んでも尚、己の存在をこの地に刻み付けたいというのか。
鈴紅もその呪いを受けたのか、病状が悪化し、咳き込むことが極端に増え、練清はやむを得ず、鈴紅と瑞樹と美月を手放すしかなくなり、鈴紅が二代目の元へ嫁ぐ前に暮らしていた屋敷へと住居を変えた。
屋敷では、鈴紅の身の回りの世話をしていた女中達が、かつて慕っていた主の帰還に歓喜し、鈴紅自身も故郷に帰ってきたような気持ちになり、心の底から喜んだ。 城を出る前に、練清に抱きすくめられ、彼にしては弱弱しい声で、全てが終わったら必ずまた会うことを約束した。しかし鈴紅は、その約束を果たせないことを知っていた。
鈴紅は頻繁に緤那の夢を見るようになった。感情の一切灯らぬはずの瞳からは、涙が静かに零れていく。 初めての感情を受け止められず、混乱する童のように泣く彼を抱きしめ、鈴紅は静かに尋ねた。
「緤那、あなた、瑞華と瑞樹のこと好き?」
緤那は答えない。その代わり、静かに頷いた。
「私ね、もうすぐ死ぬの。その時は、一緒に瑞華に会いに行きましょう」「……」「……」
鈴紅の悲しい提案に、緤那は頷かない。暫しの沈黙の後、鈴紅は、小さな小さな声で、意を決したように尋ねた。
「ーー今すぐ、終わらせよう」
鈴紅の声は確かに震えていた。緤那は、涙で濡らした頬を鈴紅の肩に預け、首を縦に振ったのだった。
…………………
国を襲っていた頭領の呪いは、突如として終わりを告げた。 練清や練徳、野々姫が呆気にとられている中、三人の元に、師走が最悪の報せを持って訪ねてきた。
三代目の文月、曼珠沙華で自ら喉を掻っ切って息絶える。 母の自害を目の前で見たことによる衝撃に心を打ち砕かれた娘の美月が、四代目に選ばれたことを、ここに記す。




