【第二章】春の息吹、花を散らす
久しぶりの殺しの依頼、普段から血飛沫を浴びぬようにと心がけていたというのに、どうしてか、今回だけは油断してしまったようだ。
この後も用があるため、一度屋敷に帰って新しい着物に着替えていると、寝ぼけた顔で娘の瑞華が部屋を訪ねてきた。「母様?」とおぼつかない足取りで歩み寄ってくる娘の頭を撫でて「瑞樹と一緒に良い子で待ってて」と言い聞かせると素直に頷いて双子の弟の元へ向かってくれたので安堵した。
此度の依頼は、金をたんまり持った自分の親戚を殺して欲しいとのことであった。
人も妖も、美しさと醜さを兼ね備えた妙な生き物であることには変わりない。蛍助と八重という心から愛する友人に出会い、人間の儚さ美しさに心打ち震えるほどの感動を覚えてから、人間の心の秘めたる醜さはより際立って見えるようになった。
蛍助と八重は、鈴紅が精神的な成長を遂げるのに重要な役割を担った特別な人間だ。鈴紅が常に不足していた恋も友情も愛も分け与えてくれたのだ。
恋を教えてくれた蛍助と、実の姉を失った鈴紅の姉がわりのような存在であった八重。そんな二人の娘が会いたいというのなら喜んで会いに行こう。
それにしても、春日は最近生まれたばかりのはずだが、あの文に綴られていた字は大人そのもの、あれは本当に春日の字なのだろうか。
辿り着いた月火の社、今しがたくぐり抜けてきた鳥居を振り返り、蛍助と八重と最後に別れた日を思い出す。
文月になってから初めて鈴紅は本名を告げたのだ、夫である頭領にさえも教えたことのない実名を、蛍助と八重にだけ口にした。大好きな二人、今頃どうしているだろうか。
二人を想うように視線を上げて闇夜に浮かぶ月を見つめていた時、空気が揺らめいてはっと息を呑む。
誰かが鳥居をくぐった気配など全くしなかったのに、そこには巫女装束の、凛とした佇まいの人間の女が立っていた。
「あなたは……」
「はじめまして、鬼神様。あなたが文月様で間違いありませんね」
人間に化けているというのに、巫女は鈴紅が鬼神の文月であると見破る。もしや巫女の目は何か特別な力が宿っているのかもしれない、神に仕える巫としての何かが。
「私は、蛍助と八重の娘、春日でございます」
「え?」
鈴紅の中での、春日という人物はもう少し幼い童のような姿を想像していた。しかし、自らを春日と名乗る目の前に立つ巫女はどうだろう、どこからどう見ても大人だ。
蛍助から受け継いだ優しげな瞳と八重の血を色濃く宿した表情からして、春日であることに間違いはなさそうだ。
「春日、あなた、私の想像と違う…。もうそんなに時が経ったの?」
春日は動揺している鈴紅の言いたいことをうまく汲み取ってくれたようで、首を縦に振って詳しく話してくれた。
春日が産まれてから、十七年。蛍助と八重が、蛍助の実家に帰ってから十八年、時が過ぎていた。
なんだそれは、どういうことだ。混乱する頭をなんとか落ち着かせて、春日に、蛍助と八重について聞いてみることにしたが、返ってきた答えに開いた口が塞がらなくなる。
「母は、亡くなりました」
目を見開き、両手を組んで俯く春日を見据える。
八重は、既に亡くなったという。
「え、え? どういうこと?」
「母は、病で…」
「嘘でしょう? だってそんな……」
動揺し、声を強ばらせる鈴紅の肩を押さえて、春日は落ち着いてくださいと強く言いつけた。
文がなかなか届かなかったのは、そういうことだったのか。人間ではない鈴紅は、時間の感覚が狂っていたようだ、もしも春日に出会わなかったら蛍助と八重の死に気付かぬまま年老いていたかもしれない。
「父も、病にかかって……余命幾泊もないのです」
春日のその言葉がトドメであった。震える手を押さえつけて、受け止めきれぬ現実に唇をぐっと噛んで耐える。今にも気を失ってしまいそう、そのまま倒れて、蛍助と八重と共に笑い合う儚き夢を見てしまいそう。
しかしそんな馬鹿なことを考えている場合ではない、一刻も早く蛍助に会わなければ取り返しのつかないことになる。
鈴紅は漆黒の瞳を戸惑うように揺らめかせ、叫び出したくなるような胸の痛みに耐えるように唇をかみしめて、春日を真っ直ぐに見据えて口を開いた。
………………
蛍助。元霧の部族の剣士にして、後に戦力として加わった火ノ壱村の巫女、八重を妻に迎えた男。
そして、人の身でありながら烏の濡れ羽色の髪を持つ美しい鬼に恋をした、普通の人間には経験出来ない奇妙で複雑な道を歩んできた者。
実家の持ち主であった両親は他界、妻の八重も亡くなり、今やこの家には彼と彼の娘である春日しかいない。
蛍助自身も、もう長くはない。
恋もして、身が擦り切れるほどの戦を切り抜けて、結婚もして子供も生まれた。短くも飽きのない、囂然たる人生であった。
縁側に腰掛け、白んでいく空と忙しなく飛ぶ二匹の雀の親子をぼんやりと眺めていると、地を掠る草履の音が耳に届き、視線をそちらに向けた。
「春日、帰るのが早かったようだな」
「おとう……」
母親の八重に似て、綺麗で優しくしっかり者、自慢の娘である。もうすぐ幕を閉じようとしている人生の中で、思い残したことといえばこの娘の春日だ。
見兼ねた霧の部族の頭領が、是非春日を息子の嫁にと言ってくれたため、つい最近霧の部族の本邸に向かったばかりだというのに、思いのほか帰郷が早い。
「お前、頭領のご子息とお話は出来たのか?」
「まだよ」
「春日……?」
「お客様をお連れしたの。おとうに会わせたくて」
大切な縁談のために元職場に送り出したはずの娘は、いつもより真剣な表情――真面目な性格のため表情の変化が乏しいのだ――を向けた。
春日は向こうで待っている客とやらを呼んだ。家の影からちらりと見えた濡れ羽色の髪を見た瞬間、はっと息を呑んだ。
出会った頃と何一つ変わらぬ姿で、鈴紅は微笑んだ。
「文月……いや、鈴紅か」
「蛍助なの?」
痩せて弱り果て、青年であった頃の気迫も失われている男を、鈴紅は不思議そうに見つめている。妖である彼女のことを十分理解しているため、蛍助はあたたかな笑みを浮かべてゆっくりと頷いた。
「久しいな、息災か」
「ええ…」
「来るなら言ってくれたら良かったのに。こんな情けねぇ姿、見せたくなかったよ」
「ごめんなさい、じっとしていられなくてここまで牛車で飛んできたの」
「あー、あの空飛ぶ牛車、懐かしいな」
そう、心から笑ってくれる蛍助の目からは少しだけ疲労が見える。
あれだけ活気的な性格だった蛍助からは想像も出来ない落ち着きようだった。まるで、迫り来る死を静かに待っているかのよう。
春日はお茶を持ってくると言って席を外した。娘の後ろ姿を見つめながら、蛍助は優しい声で「良い子だろう」と言った。鈴紅は目を細めて首を縦に振る。蛍助も親になったのだなと、しみじみ思う。
「鈴紅は、その後どうなんだ」
「子が産まれたよ、女と男の双子」
「双子か。死んだ親父に聞いたんだが、双子は互いに支え合うために同時に母親の腹に宿り、二人分の頭と心臓を持つ逸材として共に生まれてくるんだと。なんか訳わかんねぇけど、尊敬する親父が言ってたんだ、間違いねぇ」
その時の笑顔は、現役だった蛍助そのものだった。
自分の子を肯定してくれた暖かな言葉、実に嬉しかった。
「同時に二つもの命が生まれてきたんだ、めでたいことじゃねぇか」
「ありがとう」
蛍助に促され、縁側に腰掛けるとやせ細った蛍助の白い腕が目に入った。鈴紅も十分な食料を得られず痩せていたというのに、蛍助はそれよりも細い。
弱り果て力を失いつつある体をもってしても、蛍助の笑みは絶えない。まるで短すぎる人生を惜しみなく楽しめたと言わんばかりの横顔に、なぜか胸が締め付けられた。
「八重は先に逝っちまった。ごめんな、会わせてやりたかったのに」
「どうして謝るの」
「お前、八重と仲良かっただろ。八重も最期までお前のこと気にかけていたからな。手紙出してやれれば良かったんだが…どうも手が言うこと聞いてくれなくてな」
手首を動かして字を書くフリをする蛍助を横目で見つめて、鈴紅は両手を組んでぎゅっと握りしめる。
大丈夫、また筆を持てるようになるよ。そんなこと容易に口にすることは出来なかったけれど、寂しそうな表情を見ているとつい眉間に皺が寄ってしまう。
蛍助は鈴紅の視線に気づくと面白おかしく笑って「そんな顔すんな」と言う。
「俺は良いよ、もう」
「どうして……もっと生きて、春日の成長を見たいと思わないの?」
震える声で問うと、蛍助は浅い溜息をついて優しい声でこう答えた。見たいさ、見たいに決まっているさ、出来れば孫の顔を見て死にたかったと。
長生きの妖は、戦って命を落とさない限り、曾孫たちの活躍を見守ることだって出来る。しかし、妖たちの人生のほんのひと握りを生きる人間たちにとって、血を分けた子孫を見ることが出来るのは奇跡なのだろう。
この不平等すぎる世界に、鈴紅は胸を傷める。
「でもな、これまでのことは決して無駄なんかじゃない。春日と、生まれてくるであろう春日の子、俺が守ってきた多くの命が何よりの証拠だ。俺はこの世に生きた証を十分に刻んできた。あとのことはこの先を生きる者達に託して、誰も知らない場所で、先に逝った家族や仲間と共に"新しい人生"を歩みに行くんだよ」
蛍助の言葉を聞いた瞬間、寒さに凍えるように収縮していた体が、大きく鳴り響く心臓の音と共に熱をあげた。
なんという男なのだろう、死を、死として見ていない。あの世に行くことを、新しい人生を歩みに行くと称した。
まるで自然の中に溶け込んでいるような静の心を貫き通した考え方、鈴紅は感動した、驚愕した。
「俺が居なくなったら、春日は霧の部族の頭領のご子息の元に嫁ぐんだ」
「そう、春日もあなたと同じ仕事に就くのね」
「まあ、女が武器を手にするなんて良い気はしないけどな。あの子は真面目で慎重な子だ、誰かに甘えたりできない。俺が居なくなった後は、どうか気にかけてやってくれないか。住む場所が違うからちっと大変かもしれねぇけど」
「ええ、あなたと八重さんの子だもの」
鈴紅が頷くと、蛍助は安心したように目を細めた。本当は愛する娘の白無垢を着た姿を目に焼き付けたかっただろうに。
だが、蛍助の話を聞いていると哀れとは思えない、こんなにも弱り果てて痩せていて死を待つだけの状態だというのに。体は弱っていても、心はかつての青年の頃の蛍助のままなのだ。
「お茶、お入れしました」
凛とした声が響き、湯気の立つ湯飲みがそっと縁側に置かれた。鈴紅は微笑んで礼を言うと、茶を口にして一息つく。
春日は表情の乏しい娘だが、笑う時は女らしく静かな木漏れ日のような微笑を見せてくれる、綺麗で品のある娘だ。
「おとう、今日は調子が良さそうね」
「ああ、随分と気分が良い」
春日は父親の穏やかな表情を見て、やっぱり連れてきてよかったと鈴紅に視線を移す。
春日がいない間は蛍助は近所のおばさんたちに身の回りの世話をしてもらっている。話を聞けば、あまり食事も口にしないし、たまに酷い咳をするらしく普段の体調はあまり良いものとは言えないのだ。
しかし、鈴紅と会話を楽しむその姿は昔の元気だった頃の父に戻ったようで、春日は嬉しかった。
「春日、鈴紅には三つ名前があってだな……実名が鈴紅で鬼神としての名が文月で、あとは確か濡烏だったか?」
「沢山名前がありすぎてね、困ってるの」
面白そうに豆知識のようなことを話し出す父の隣で、苦笑を浮かべる鈴紅。春日は首を傾げて、どうしてそんなにあるのと率直に問えば、鈴紅が丁寧に教えてくれた。
鬼神の世界では安易に本名を教え合わない習慣があるらしく、基本は鬼神としての文月という名で通っているが、大切な友人である蛍助と八重だけには実名の鈴紅の名を教えたらしい。濡烏というのは、烏の濡れ羽色の髪を持つ鈴紅の愛称のようなものだという。
「なら、私は濡烏と呼ぶわ」
「それまたどうして?」
「本名を他人に聞かれないようにするためよ。あと、濡烏って名前、結構気に入ったの」
それを聞いた蛍助が、変わったヤツだろうと笑った。
確かに真面目で変わった子だが、濡烏の名を気に入ってもらえたことに鈴紅は擽ったそうに口角を上げる。
鈴紅の外見年齢は春日と変わらない、実年齢ははるかに上回っているが妖の世界ではまだまだ幼い年頃。もしかしたら春日と気が合うかもしれない、そうでなくても無二の親友になってくれるのなら、蛍助も安心して逝ける。
鈴紅が最後の一口を飲み込み、湯呑みを盆の上に置いたのを見て、春日はそろそろ向こうに戻らなくてはと囁く。
「霧の部族の本邸に行かないと、御挨拶もまだだから・・・」
「ありがとう、春日。私を蛍助の元に連れて来てくれて」
鈴紅の優しい微笑みに、春日は戸惑うように視線を彷徨わせ、おもむろに頭を下げた。律儀な子だなと改めて感心していると、蛍助は袖の中から巾着を取りだし自身の娘に渡した。
「なあに、私もう子供じゃないんだからお小遣いなんて要らないわ」
「違ぇよ。まあ、小遣いぐらいくれてやりたいところだがな。開けてみな」
そう促され、春日は麻の葉柄の巾着を開いて中に入っていた髪紐を取り出して目を丸くする。赤一色の丈夫な紐を手にして、春日は首を傾げて蛍助に尋ねる。
「それは、八重が家の事する時に使ってたんだよ。お前も随分髪が伸びたから、それで縛れ」
日に照らされて靡く長い髪を見つめて、蛍助は亡くなった妻の面影を映して寂しそうに笑った。
母の形見で颯爽と髪をまとめて、春日は凛とした、決意を宿した表情で父を見据える。
「私、頑張るからね」
どんなに辛くても、蛍助と八重のいない世界で生き続けられる勇気が、あの髪紐には込められているのかもしれないと、鈴紅は瞳を伏せる。
まだ昨夜会ったばかりの鈴紅にとって、春日の未来は全く分からない。もしかすると突然地獄に叩き落とされることもあるかもしれない、時に救われることもあるだろうが、春日に差し出すその救いの手は鈴紅のものではないかもしれない。
それでも、守ってあげたいという気持ちは変わらない。
「春日、送っていくよ」
「ありがとう」
初恋の女と娘を見つめて、蛍助は嬉しそうに目を細めて、弱々しく手を振った。
「俺はいつだってお前たちの無事を祈ってる」
それが、別れ際に蛍助が放った最後の言葉である。
………………
「蛍助さん! 冷えるだろう、寝ときなよ」
「これおすそ分けね」
快活に話す年のいった男女に、蛍助は礼を言っていつものように笑った。
体の自由が利かない蛍助のために、近くに住んでいる夫婦がこうして訪ねて世話を焼いてくれているのだ。
「いつもすまねえな」
「何言ってんだ、春日ちゃんにうちのせがれを助けてもらったんだ、お礼ぐらいさせろよ」
蛍助の家は、霧の部族から支給された金と春日が妖退治で稼いできた金で生活していた。
この夫婦の息子には、春日に妖から命を救ってもらった恩がある。だからこそ、仲のいい父娘の手助けをしたいと進んでこの家に訪れたのだ。
こうして最後の最後まで人の温もりに触れらたこと、もう一度会いたいと思っていた女と再会出来たこと……幸せだ。
不意に縁側の方から嫋やかな春の風が吹いてきて、蛍助の髪が揺れる。
あたたかいな。お前みたいだな、春日。
心の中でそう呟いて穏やかに微笑み、蛍助は静かに横になった。
目を閉じる寸前、桜の花びらがはらりと弧を描きながら枕元に舞い降りる。幻聴だろうか、耳元で自分を呼ぶ懐かしい声がして、蛍助は瞳を伏せたまま笑みを浮かべて声の持ち主の名を囁く。
「――八重」
蛍助の呼び掛けに答えるように、もう一度、風がなびいた。
蛍助の家の手伝いをしながら、ふと、女房の方が布団の上で横になっている蛍助を見て「蛍助さん、寝たのかい」と呼び掛けた。しかし、余程寝入っているのか返事がない。
ふと顔を上げると、春を告げる草木や花々が景色を鮮やかに彩っているのが目に映り、自然と口角が上がる。
「もう、春だねぇ」
この立派な邸の主である蛍助の娘、春日の嫁入りにちょうど良い日だ。
前に蛍助に聞いたが、春日が生まれたのは春だったらしく、この家から見る春の風景に感動した勢いで名付けたのだとか。今ならその気持ちもよく分かる。
蛍助が起きたら粥でも食わせてやろうと、外で薪割りをする旦那に軽口を叩きながら、女房は朝飯の準備を始めるのだった。
――――ばか。
花の咲きほこる未知の世界にて、最初にかけられた言葉はこれだけだ。何年か振りに会えたというのに、この女は変わらないようだ。
仕方ない、そういう所もひっくるめて惚れたのだ。夫婦となった仲だ、どんな悪口だろうと笑って流してやる。
『娘を置いて、どうしてあなたまで死んでしまったの』
『せっかく会えたのに、嬉しくねえのか?』
『再会はもう少し先が良かった』
『なんだよ、そんな顔すんな』
妻との再会は想像していたものと違った、早すぎる夫の死に、戸惑いを隠せない様子だった。
悔しそうに、悲しそうに逸らさられる視線に、胸が軋む。
生きていた時は、自分は健康でまだまだ大丈夫、全然戦える、そう思っていたのに時間はあっという間だった。
妻の表情を見て、そこで初めて死への後悔に苛まれる。
『私は……あなたには、春日と、春日の子と共に、生きていて欲しかった!!』
そこまで言われて黙ってはいられない、こちらも息を吸い込んで堪えていたものを吐き出した。
『俺だって、お前に死んで欲しくなかった。悔しかった、お前を救ってやれなかったんだ、どうせこれからもずっと一緒だと、当然の如く口にしていた過去の自分を恨んだよっ!』
夫の気迫に、涙を流しながら目を見開く妻。
この夫婦の間をふわりと風が抜けていく。誰も知らない二人だけの世界ではあたたかな風がいつまでも緩やかに吹いていて、花びらが沢山散っている。
やっと出会えたのに、こんな話、こんな場所には似つかわしくない。
『私は……あなたに、私の代わりに長生きして欲しかったの…春日の成長を見守ることが、私には出来なかったから……あなたに、あなたに託したの……幸せに、なって欲しかった…っ』
『――――すまない、八重』
『……』
『俺、病に負けてしまった、あの子を置いてきてしまったよ。俺は、本当に駄目な父親だな』
『蛍助さん……』
『ごめんな、ごめんなぁ』
わっと泣きついてきた妻を優しく抱いて、泣きながら何度も謝罪を繰り返した。夫婦で抱きしめ合いながら、泣いて泣いて泣き喚いた。
二人の間を流れるように抜けていた風が、散りゆく花弁を起こしてざわりと音を立てながら花吹雪が巻き起こる。
そして、抱き合う夫婦を優しく包み込んでいった。
…………………………
………………
蛍助の訃報は、娘の春日の元に届いた。父親の死に、春日は至って普通の対応で済ませ、特に気にする素振りも見せなかった。
霧の部族本邸にて、だいぶ歳をとった頭領、狭霧の跡取り息子の元に嫁いだ身として、油断や隙を見せないためと思われるが、果たしてそれを理解してくれるのは狭霧以外に居ただろうか。
狭霧は、春日を、両親の良い所を引き継いだ子として評価し、本当の娘のように可愛がった。なんせ、霧の部族にて最も活躍してくれていた蛍助と八重の子が義娘となれば彼としても嬉しい限りだろう。春日とて、生真面目ではあるがそんな狭霧を尊敬するようになっていた。
「そう、嫁いだのね」
町を一望できる山の頂きで、春日の隣に腰掛ける黒髪の美女が小さな声で祝福する。
春日は風になびく長い髪を鬱陶しそうに赤い紐で縛り、山の上から町を見下ろした。
「よくここで、八重さんとお話してたの。まだ八重さんと蛍助が夫婦になる前のことだった……」
「……」
「あっという間ね」
懐かしそうに息を吐く鈴紅を横目で一瞥して、もう一度賑やかな町へと視線を送る。
春日は、最後に父から貰った麻の葉柄の巾着を懐から取り出して、鈴紅に渡した。
「見て」
これは、八重の形見の髪紐が入っていた巾着のはずだ、何を見ろというのか。鈴紅は首を傾げながら両手で受け取り、おもむろに指を入れて中身を確認した。
折り畳まれた紙切れが指先にあたり、息を呑んだ。これは一体なんだと、ゆっくりと中から引き出して広げてみると、縦の長さが五寸ばかりの紙に、春日の名と、蛍助と八重の名、そして蛍助の両親の名が、それぞれの字で綴られていた。
そして、端の方に、震えた字でこう書かれていた。
春日 生✕れて✕てくれてあり✕とう。
震え過ぎてきちんと書けなかった字がいくつかあり、蛍助が亡くなる少し前に書いたものであることが分かる。
言うことを聞かない手を必死に動かしやっとの思いで筆を走らせる様子が思い浮かぶ。
「春日……」
「私、平気よ。おとうもおかあも居ないけど、前とそう大して変わらないわ」
震える声でそう言った春日はどこか強ばっていて、爆発しそうなほど膨れ上がった感情を必死に抑制するような辛く苦しい表情をしていた。
締め付けられるような胸の痛みを感じた鈴紅が黙り込んでいると、春日は克己心を保ち立て続けに立派な言葉を並べ始める。父を亡くそうと、自分は強いから大丈夫と。
まだ嫁いだばかりの若い女が、武士じゃあるまいし、なにゆえそこまで虚勢を張りたがるのだろう。
そんな疑問を抱えたまま、もう一度巾着の中に入っていた一枚の紙を見つめて、蛍助が必死に筆を動かして書いた、娘の春日への思いを指で辿った。
「蛍助は、あなたが生まれてきてくれたことが、心の底から嬉しかったのね」
「……」
「前と変わらないって言ったけど、身近な存在が居なくなるんだよ、随分と変わるよ。何もかも、変わるの。それまで歩んできた道から逸れて、全く知らない道に放り込まれるの」
俯いている春日に紙を渡して、しかと見よと、蛍助の字を指さす。
「それでも、ここに記されたものは、蛍助のあなたへの思いは変わらない。あなたの手の中にずっと残り続ける」
「――!」
「蛍助と八重さんの、あなたを愛する気持ちは変わらない、永久に」
ありがとうと、生まれてきてくれてありがとうと、死期の迫る己の体を無理やり動かして、娘に向けて書いた短い手紙。
一人になってしまう娘に、どうか寄り添っておくれと残した赤い髪紐もそうだ、いつでもそばに居るからねと、伝えたかったのだ。
蛍助が残した一文に、雨が連なり、紙を持つ手がぶるぶると小刻みに震えた。結った赤い紐から弾かれた横髪で、顔を隠すように俯く。
悔しげに、悲しそうに噛み締められた唇、真っ赤になった頬、まるで童のように泣き出した春日の頭を、鈴紅は優しく撫でた。
春日は喉の奥から込み上げてくるうめき声を発して、涙をぼろぼろと流す。
鈴紅に頭を撫でられて、父と母の温もりを思い出した。
――頑張ったねえ、春日。
今は亡き両親の懐かしい声が頭上から聞こえてきた気がする。頭を撫でられていた頃は、まだ小さかったから、両親の顔を見る時は見上げなければならなかった。
今見上げたって、二人の顔がそこにあるわけではないけれども。
………………
二代目睦月と三代目文月の子、瑞華と瑞樹は仲の良い双子の姉弟だ。瑞華は明るく好奇心旺盛な女の子、瑞樹は病弱で大人しい男の子、全く正反対の二人だが、いつも一緒だった。
部屋に籠りきりの瑞樹に寄り添うように、瑞華は本を開いて好きな物語の内容を長々と語る。これが止まらないのだが、瑞樹は嬉しそうに相槌を打ち、快く耳を傾ける。これがいつもの光景である。
「緤那!」
偶に、部屋に現れて双子を観察するように見つめる緤那の存在もあった。
父親である頭領が自分の欲望のために作った殺戮人形なのだが、母親の鈴紅と命を繋いだために、鈴紅の感情が投影されるようになり、こうして双子の元に引き寄せられるように訪れる。
何の反応も無い、面白くもない男だが、おしゃべりが大好きな瑞華が勝手に話を進めるので自然と成り立っている。
「それでね、この子が主人公ってわけじゃないんだけど、物語の始まりに出てくるし、重要な役割を持ってるの」
「瑞華姉様、緤那にそんなこと聞かせても意味無いのでは?」
「でも、もしかしたら刹那にも分かるかもしれないし」
恐らく喋りたいだけだろうと、苦笑してそれ以上は何も言わないでいると、瑞華は好奇の目で語り続けた。
緤那はただ、じっと瑞華を見つめているだけで何も言わない。
「緤那は、母上と同じ心を持っているのでしょう? 私と瑞樹も母上と同じ心を持ってるの。だから刹那は、私と瑞樹の兄上ってことだよね」
「でも血は繋がってませんよ」
「血なんて、どうにでもなるよ。私も瑞樹も母上も、緤那のこと好きなんだから、それだけで家族になれるの」
瑞樹も瑞華と同様、決して緤那のことが嫌いというわけではない。こうして遊びに来てくれるのは、子供としては嬉しく思えるもの。
しかし、瑞樹は父親が嫌いなのだ。母に罵声を浴びせて、双子の姉を邪険に扱う父親の、鬼神の頭領、二代目睦月を心から憎んでいる。
双子だから、後継だけが欲しいからという理由で、女の瑞華が傷つけられる姿を見るのは苦しい。
そんなクズみたいな父親が、己がために作った人形となると、どうしても近寄り難くなるのだ。それにきっと、緤那は父親の命令で多くの同胞たちを殺しているはずだ。嫌いではないが、好きにはなれない。
「瑞樹、なんて顔をしているの」
姉の呼び掛けに、自分が今、顔を思い切り顰めていたことに気づく。
「ごめんなさい、瑞華姉様」
「しっかりなさいな、瑞樹。あなたは次期頭領なのよ」
「僕は、頭領になどなりとうございません」
「何を言っているの、もう」
――姉様を置いて、あんな男の跡を継ぎとうございません。こんな自分を、いつも守ってくれる姉様が、大好きだから。
今、どんな表情をしているのか自分でも分からない、きっと酷く顔を歪めているのだろう、姉の眼差しがとても優しいものであったから。
「それなら、私と瑞樹で頭領になりましょう?」
「そんなこと、出来るわけ…」
「出来るよ、瑞樹が嫌な時に私と入れ替われば良いの。双子だもの、誰にも分からないって」
瑞樹は、くすくすと笑う姉の顔を目を丸くして見つめた。入れ替わって、父に見つかったら叱られる所の話ではないのに。母に見つかれば叱られて終わりだろうけれど。
瑞樹が不安げに眉をひそめると、瑞華は困ったように眉じりを下げて俯きがちな頭を撫でた。
便乗するように、緤那もそろりと手を伸ばして一緒に頭を撫で始める。二人から慰められて、母譲りの濡れ羽色の髪がボサボサになってしまった。瑞華はそれを見て腹を抱えて笑い始める。
「瑞樹、髪が変〜」
「二人が乱したのでしょう?」
「そうだねー!」
「はあ……」
笑い転げる双子の姉に呆れ顔で溜息を着く瑞樹の視界には、
「――――」
緤那の微笑が映った。
緤那が、笑っている。まるで信じられないものを見ているかのように目を見開く瑞樹に構わず、瑞華は変わらず殺那に話しかけてお喋りを再開し始める。
その時、三人の居る部屋の戸が、そろりと開いて鈴紅が顔を見せた。
「母上! 瑞樹と緤那とね、御本を読んでいたの!」
「瑞華、落ち着いてお話しなさい」
鈴紅が来た途端、瑞華、瑞樹、緤那の表情がより一層和らいだ。
そして、後から金音と菖蒲が訪れて、部屋は賑わう。
双子は、この空間がいっとう好きであった。
「母上、元気ない?」
瑞華は、どこか寂しそうな雰囲気を纏う母を気遣い、いつも自分にしてくれているように頭を撫でた。
優しい子に育ったものだ、こんな両親の間に生まれたというのに、純粋で美しい心を持ってくれている。こんな子が傷つけられてたまるものか。
――――瑞華、瑞樹、緤那。あなたたちは、私が守るから。
……………………
とある郎爺が杖をつきながら赴いたのは、鬼神の頭領一家を陰ながら支え続けている忍びの里、静美。
静美の頭の前に重い腰を下ろし、しわがれた声で笑った。
「歳をとってしまって、なかなか思うように体が動きませぬな。しかし、わしとて鬼ですからな、まだまだ生きて行けますよ、蟷郎殿」
そう言って髭をいじる郎爺に温かな目を向けて頷くは里の若頭、静美蟷郎。
黒い忍装束を纏う大柄な体を持つこの男は、鬼神頭領一家を守る静美の者にしては温厚な性格で、二代目睦月の悪行にはなかなか賛同出来ずにいた。
「して、蟷郎殿。なにゆえこの老いぼれが呼ばれたのでしょう」
「実は、文月様があなたに依頼したいことがあると。頭領には知られずに内密にして欲しいとの事でしたので」
「ほう……」
郎爺は、「文月様というと、あの頭領の奥方か」と、興味深そうに耳を傾ける。
文月――鈴紅を知らぬ者はそう居ない。頭領の正室でありながら慈悲深き美女であると、鬼たちの間では噂されている。郎爺も、ぜひとも会ってみたいと思っていたところだ。
蟷郎は真剣な顔で郎爺と向き合う。
「あなたのお力が必要です――葉月様」