【第二章】心中
紅く紅く燃える。思い出も尊き命も、夜に溶け込む紅色に燃え尽くされて、灰になって消し飛ばされる。地獄と成り果てた都からはまだ生き残っている住人達の声が僅かに響き渡っていた。
倒壊した屋敷の敷地内に足を踏み入れ、瓦礫の中から動かぬ彼女を救い出して震える腕で抱きしめた。姉のような、母のような存在を亡くし、涙を流す。
既に生気を失った乾いた瞳を見ているのが耐えられなくて、そっと瞼を閉ざしてあげる。
ごめんなさい。
泣きながら何度も何度も謝り続け、ふと顔を上げて気づいた。もうこの都には生者の気配すらしない。皆、もういなくなってしまったのだと。
………………
「文月よ、いつになったら如月を仕留められる」
頭領が不機嫌な声音でそう言った。よくもそんな恐ろしい言葉が容易に出てくるものだ。鈴紅は瞳を伏せて頭領の圧から逃れようと試みるがわずかに流れ出る殺気は消えない。おぞましい空気を受け止めながら拳を震えるほど握りしめる。
黙り込んでいる鈴紅に冷たい視線を送っていた頭領はなんと覇刀菊を鞘から抜き出し鈴紅の横腹を刺した。
「──!」
「貴様、いつまでも甘く見られると思うなよ」
幼い頃から脅され続けて少しは慣れてしまった。しかし傷が塞がるわけでもなく、鈴紅の緋色の着物が赤黒く染まり同時に痛みもじわじわと広がってきた。
目を瞑って耐えている鈴紅の耳元で頭領はもう一度聞いてやると、低く恐ろしい声で囁く。
「如月はいつになったら仕留められるのだ」
殺される。下唇を血が出るほど噛み締めて腹の痛みから気を逸らし、今まで度重なる困難を切り抜けるための作戦を練り出してきた脳を回転させる。何を言えばこの男の機嫌を損ねずにすむのか、どう行動するのが正しいのか。
鈴紅は震える唇をやっとの思いで開き、言葉を紡ぐ。
「ま…せん」
「何?」
「殺せ…ません」
「……」
「私には、如月様を殺せません……」
恐怖で凍りついた声帯を必死に働かせて呟いた。
痛い、痛い、痛い。腹の内側からズキズキと響いて溢れ出す血は、着物だけでは受け止めきれずに畳に染みを作っていく。殺されるのに何で今逆らってしまったのだろう、恐怖で考える力が鈍っていたのか。
そうこう考えているうちに頭領が握っている刀の柄が僅かに動き、死を覚悟する。しかし、予想に反して刀は鈴紅の横腹から勢いよく引き抜かれた。睦月の美しい刀は鈴紅の血で赤く染まり、畳に血溜まりを作っていく。引き抜かれた横腹から一気に血が溢れ出した。
腹は痛むが、確かにまだ生きている。
「そうか、お前には殺せないのか」
頭領は刀に貼り付いた血を払い鞘に収めると、血を流す妻を冷たい目で見下ろす。やがて羽織を翻しながら背を向け、鈴紅を放置したまま血の匂いが漂う部屋を後にした。
横腹を片手で庇うように俯く鈴紅は、ただ、草木張の都の者たちを脳裏に浮かべながら虚ろな目で赤く染み込んだ畳を見つめている。
「お前たち」
鈴紅の呼び掛けに応えるように、影から数体の物の怪が這い出てくる。物の怪たちは畳に滴り落ちる血を眺めて悲しげに唸る。
「私は大丈夫だから、ね。今から如月様の所へお行き。草木張を、如月様をお守りして」
決して死なせやしない、みんなに愛されているあの天女のようなお方を、必ず守り通してみせる。
鈴紅の願いを聞き届けた物の怪たちは、ずぶすぶと影の中に潜り込んでいった。
……………………
銀杏柄の着物を纏う穏やかで優しい母。練清と練徳だけではない、草木張の全ての者たちを包み込む理想の母の姿だ。如月は多くの者に愛され、慕われている。たとえ息子二人がどれだけやんちゃをしようと、都の者たちは困ったように笑って暖かな目で見守ってくれる。
鈴紅も、如月の掌のあたたかさに触れて涙した。
如月様は、皆に愛されるべくして生まれてきたのでしょう。
いつしか、草木張に滞在していた鈴紅が如月にそう言った。如月は柔らかな笑みを浮かべ鈴紅の手を握って、あなたも皆に愛されるべきお方なのですよと返したのだ。その時の鈴紅の悲しげな表情を覚えている。
そんな鈴紅を練清は常に気にかけているので、いっそのこと嫁に来れば良いのにと思った。あの冷酷な弟の妻になり可哀想な義妹になるくらいなら、練清の嫁になって義娘になった方がよっぽど幸せだ。
「練清、練徳」
庭の大きな柵を軽々と乗り越えていつものように屋敷からの脱走を試みようとしている息子たちを呼び止めた。
全く何してるんだかと呆れ顔で溜め息をつけば、練清が面倒臭そうにこちらを見る。
「今日はどこで遊んでくるの?」
「……野々に呼び出された」
怪力一家のお姫様である野々姫は、練清と練徳の幼馴染だ。多くの男を虜にしてきた妖艶な美女で大胆不敵な性格の持ち主、故に周囲の者を常に振り回している。
しかし判断力、行動力が凄まじいだけで決して悪い子ではないことを如月も理解している。だからこそ、だからこそ……息子たちを匿ってくれると、任せられると思ったのだ。
「仲良いものね、楽しんでいらっしゃい。今日はいつ帰ってくるの?」
「あいつは今日も帰してくれなさそうだ」
「あら、それぐらいのわがままは聞いておやり。野々姫様もあなたたちのことが大好きなのだから。あまり迷惑はかけぬようにね」
余計なお世話だと言ってやりたかったが、母の微笑みを見ていると何故だか反抗するのも馬鹿らしく思える。練清は返事の代わりに浅い溜息を返して母に背を向けた。練徳は仕方ないなと苦笑して後に続く。
去りゆく二人の息子の背中を眺めて、如月は涼し気な顔で口角を上げるとそっと呟いた。
「さようなら、元気でね」
草木張の紅葉がざわめき、如月の小さな声は練清と練徳の耳には届かなかった。
草木張の都には誠実で素直な者たちばかりが住んでいる。それもそのはず、都を治めているのが真を司る如月だからだ。しかも如月の性格に影響されてか、いつも明るく賑やかで楽しげな雰囲気を纏っている。
今日も、いつものように穏やかに雲が流れている。特別な日でもない、平凡な一日だ。紅葉の木の下で童たちの笑い声が響き、鳥が空を舞う。
……はずだった。
草木張の門を突破されたのは夕刻のことであった。
都の夕暮れは大変美しいと評判であったというのに、全て打ち壊されることになる。醜い妖たちが向かうは都の中心にある如月邸。それに気付いた都の住人達は、如月を守るために団結し、立ち向かった。鬼神ではなくとも、妖術を使う者や強い筋力を持つ者たちなどが多く集っている、十分な戦力になるはずだ。
しかし妖たちの力は凄まじく、あっという間に、草木張の門付近は全滅してしまった。
草木張襲撃の合図を受け、如月は久しぶりに使うことになるであろう刀を目の前に置いた。如月の傍についていたか弱き女中たちが怯えるようにして外を伺っている。
「如月様…! 敵がすぐそこまで来ています!」
「私はここにいます、あなたたちは作戦通りに動きなさい」
「でも…!」
「私は、けじめをつけなければならないの」
如月の意を決した声に、女中たちは息を呑む。
あの襲撃は誰が仕掛けたものなのか、都にいる全員が分かっている。如月と対立している鬼神の頭領、如月の実の弟だ。けじめというのは姉として、弟を討つということなのだろう。
女中たちは主の強さをよく知っている。ただの妖ではない、鬼神なのだから少しは期待出来る。それでも不安は拭えない。
「如月様…」
「大丈夫、きっと明日になればいつものように笑って過ごせるようになるから。たくさん、たくさん笑って、泣いて、怒って。またみんなで遊びましょう」
こんな状況だというのに如月の声は冷静で、いつものように優しい音を奏でていた。
早く行きなさいと急かされて、女中たちは泣きながら、部屋から去っていく。如月は鬼神の武器、真刀菊を掴んで立ち上がると、実に穏やかな声で囁く。
「文月様からの援軍ですね」
如月の声に反応し、影から物の怪たちが姿を現す。鈴紅からの、如月を守れという命令に忠実に従いここまで参った物の怪たちだ。
(やはり、あなたは愛されるべきお方なのですよ、文月様)
如月は、黒い獣たちに柔らかな笑みを浮かべる。
「自分の身は自分で守れます。どうか私に構わず、都の者たちを助けてあげてください」
『如月様こそ、早くお逃げになってください』
自分よりも都の者たちを助けてくれるよう頼んだ時だった、物の怪を通して文月の焦ったような声が聞こえてきた。
『如月様、物の怪たちは私よりも移動速度が速いので先にそちらへ向かわせました。私も今、草木張に向かっております。それまでどうか、ご無事でいてください』
この事態を起こしたのは頭領、その妻である文月が如月などを庇えばどうなるか分からない。それなのに、助けに来ようと必死になってくれている。それが何よりも嬉しかった。
如月は物の怪の頭を白い手で撫でて、ゆっくりと首を縦に振る。
「はい、文月様。でも物の怪たちは都の援護に回ってもらいます。それでもよろしいでしょうか」
『……分かりました。私もすぐにそちらへ向かいます』
それ以降、文月の声は途絶え、物の怪たちは一斉に影の中に消えた。どうやら都の住人達を守りに行ったようだ。
文月は心の優しい鬼だ。更に誰よりも強く、美しい。きっとこの先、練清とも上手くいくはず。そうしたら、また文月を連れ回して弟の練徳に呆れられるのだろうか。でもきっと楽しい日々を送れるのだろう。
自分よりもまだ若い、"未来の鬼神たち,,を思い、ゆっくりと深呼吸をする。"今,,に怯える全ての者たちに、大丈夫、きっと上手くいくからと笑いかけてあげたい。泣かないでと慰めてあげたい。どんな事があっても、必ず陽は昇るのだから。
「来たのね」
先程とは打って変わって冷たく鋭い声が、屋敷に土足で踏み込んできた男を突き刺す。
何十年ぶりの再会だろうか、敵同士である実の姉弟が対面した。
「如月よ、この都は女や子の数が極端に少ないようだが、逃がしたのか。更に戦闘に適した妖が大勢いた。我がこの都に来ることをあらかじめ予期していたというのか」
「さあ、どうでしょう」
「誰が告げ口をしたのかは分かっている」
文月だろうと、忌々しげに呟く弟をまっすぐ見据え、息を吐く。
「可哀想ね、"睦月殿,,」
如月は嫌味ったらしく、しかし柔らかな声でそう言った。当然、頭領は訝しげに目を細める。
「我は全てを手に入れた男だ。鬼神の名も、頭領の座も、金も、何もかも! この馬鹿みたいな都の中心で無駄な日々を過ごしていただけのお前が何を言う!」
「……無駄な日々なんかじゃなかった」
如月はそう、ポツリと呟いた。
「息子二人が生まれてきてくれたことが、何よりの幸せだった。都の者たちと一緒に笑いあって、たくさんお友達も出来た……そして、文月様に出会えた」
何も無駄なんかじゃなかった、全て意味のあることだった。しかし、どうせこの男には何を言っても響かないのだろう、呆れた目を向けられてしまう。
「あなたは勘違いしているようだけど、全てを手に入れることなんて出来るはずがないのよ。他の何かを手放さなければ、目的のものを手にすることなんて出来ないもの」
「我は妖たちの頂きに立つ者である。全てを手に入れたと言わずして何とする」
「視野の狭い男。あなたは頭領という座を得る代わりに、心や愛情を失ったことに気づかないのね」
頭領は一瞬、やっと気づいたかのように目を見開いたが、すぐに眉間に皺を寄せて腹立たしげに舌を打ち鳴らす。
何故、自分よりも格下の女に見透かされたようなことを言われなければならない。頭領は悔しげに唇を噛む。
「あなたが気づいていないだけで、あなたが失ったものは沢山あるの。あなたは孤独なのよ」
哀れむような目で知ったふうな口をきく女に殺意をむき出し、鋭い視線を向ける。
「最大の失態は、文月様を苦しめたこと。あなたが愛情さえ失わなければ、文月様もあなたのことを心から愛せたかもしれないのに」
「黙れ」
ついに、頭領の刀が鞘から引き抜かれる。刀の鎬に移る真っ赤な炎を見つめて、如月も悲しげに瞳を伏せて刀をスラリと抜いた。
草木張が燃えている。風に吹かれて舞踊っていた紅葉も、火に巻かれて黒く染まる。都のあちらこちらから助けを求める声が響いて、如月の心を突き刺す。
「よかったな、都ごとあの世に行けるぞ、姉上」
頭領は罪なき者たちから発せられる悲痛の叫びを耳にしてもなお、残酷な笑みを浮かべている。如月はただ黙って俯き、刀を構える。
きっとここで敗れても、"あの子たち,,なら変えられる。
他の何かを手放さなければ、目的のものを手にすることなんて出来ない。如月は輝かしい未来を約束する代わりに、都と自らの命を手放すことにしたのだ。
「せめてもの情けだ、地に這いつくばって平伏してくれるのであれば、練清と練徳を生かしてやろう」
「……嘘つき」
如月がそう呟いたのと、二人が床を蹴った衝撃音が鳴り響いたのはほぼ同時であった。
…………………………
鈴紅が草木張に辿り着いた頃には、既に都は日に包まれていた。高い悲鳴や泣き叫ぶ声が聞こえてきて、恐らく逃げ遅れた女や子だろうと推測できる。物の怪たちが都を守っているはずだが、全てが燃え尽きて滅びるのも時間の問題だ。
(如月様……!)
曼珠沙華を握りしめて、草木張のボロボロに焼け焦げた門をくぐり抜けて如月邸へと駆け抜ける。まだ間に合うはずだ。まだ……!
……………………
燃え盛る屋敷の中心で、実の姉弟は刀を交えていた。戦力はどちらも互角、素早さは弟の方が上である。頭領は己の強さを信じている、こんな女に負けるはずがないと、絶対的自信があるのだ。
初代の頭領を殺し、やっと手に入れたこの座を、平和ボケした都の統率者に取られる訳にはいかない。ましてや、その息子になど……!
勢いよく足を踏み込めば枯茶色の床が思い切り割れて、木を叩き割るような音と同時に、頭領の刀が如月の目前まで迫った。
移動速度が尋常ではない、このままでは腹を切り裂かれる。そう予測した如月はすぐに銀杏柄の唐衣を剥いで頭領の視界を覆う。
(目眩しのつもりか、クソ女!!)
目の前に広がる黄金の銀杏を鬱陶しげに跳ね除けて視界の隅に追いやった。しかし、目の前にいたはずの如月の姿が消えている。
今の一瞬で移動したというのか。頭領は腹立たしげに屋敷中を睨むように見回した。
その時、左半身に見えない圧力を感じた頭領は、目を見開き即座に左側を向く。単衣姿の如月が鋭い眼光で頭領に狙いを定めている。そのまま地を蹴って物凄い勢いで距離を詰めてくると頭領の刀の柄を握っている右腕を切り落とさんとする。
「如月ぃぃ!!!」
頭領が刃先を避けてしまい、惜しくも袖を裂いただけで手首を落とすことは出来なかった。それでも如月は諦めなかった。
「私だって、負の感情を忘れた訳ではないのよ。悔しさも怒りも憎しみも、消えずに私の胸の奥で息を潜めていたの。父様と母様を殺したお前をこの手で殺す日をずっと待っていた!!」
「くだらん! あの者共が死んだのは弱かったからだ! 鬼神にもなれないような奴らが、我に歯向かうからだ!」
今までのどんな音よりも強い衝撃音が、衝突する二人の刀から高く鋭く鳴り響いた。
互いに所々傷つけあっても、なかなか急所まで辿り着かない。都を囲う炎のせいで汗が止まらない。
血に塗れた袖で攻撃を交わしたり、無駄な動きを最小限に抑えるために長い髪をわざと斬らせたりと、必要なものは惜しみなく使う。全てはこの二代目睦月を殺すために。
覇刀菊の軌道を見切って避けると、如月は刃を頭領に向ける。
(殺れるっ!!!)
ほんの一瞬の隙を狙い、如月は刀を強く握りしめた。男の腕一本、切り落としてやる。二度と攻撃を繰り出せぬよう、利き腕を奪ってやる。
そう決意して足を踏ん張った時、頭領の唇が吊り上げられたのを見て心臓が跳ねた。
「……ぁ…」
首を絞められたような声が、まさか自分の喉から発せられたものだなんて思わなかった。如月の白い右腕が血の軌道を描き飛ばされていく。利き腕を狙っていたはずの如月が、逆に利き腕を奪われてしまったのだ。
頭領は、悔しそうに唇を噛んでいる姉を見据えてククッと喉を鳴らす。
(我の方が強い、我の方が優れている。お前は弱い、周りのどうでもいい輩に情などかけているからだ)
如月が怯んだ隙に、頭領は迷わず刃を振るう。肺を切り裂き、─腹を貫いた。
「……!」
如月の目が大きく見開かれ、ズタズタにされた衝撃で口から滝のように血を吐き出した。
「貴様の負けだ」
刀を更に深く穿つと、如月から何の反応もなくなり、ぶらりと無気力に両手が垂れる。刀に突き刺さったまま動かなくなった実の姉を見つめた後、刀を引き抜こうとしたその時だった。
(なんだ……?)
床がガタガタと震え始める。その揺れは徐々に激しくなり、屋敷全体が崩れ始める。
急いで刀を引き抜こうとした頭領の手首を、如月の左手がガシッと掴んだ。
「如月っ……!」
「……お前も、ここで死ぬの」
「貴様、何をした!!」
如月の握力は意外と強く、簡単には振り払えない。鋭い爪が皮膚に喰い込むほど強く握りしめる。利き手ではない方の手で強く、確実に捕らえている。
屋敷の壁は軋み、柱が折れて天井に亀裂が入り始める。
「この……屋敷で働いていた……妖たちよ……」
「なんだとっ!!」
耳をすませば、屋敷のあちらこちらから壁や天井を打ち壊すような音が聞こえてくる。まさか、全てが罠だったとは。
「如月様の合図が出ました」と、一人のくのいちが屋敷に残っている仲間に呼びかける。その声を耳にした如月邸の女中たちは意を決したように立ち上がると、素手で屋敷の所々を破壊していく。
これは草木張の主、如月の作戦だ。如月が頭領の足止めをし、その隙に屋敷を壊して主ごと頭領を叩き潰すのだ。
下手すれば如月を含めた全員の命が失われる羽目になる。しかし、ここに残った者たちは皆、最期まで如月と共に歩むことを選んだ者たちだ。
あれほどお優しいお方を、一人死なせる訳にはいかない。草木張の妖たちは、泣きじゃくりながら、血が滲むほど拳を叩きつけた。
如月との絆で結ばれた妖たちの最後のあがきは屋敷中に広がり、大きく亀裂が走る。
崩れ行く部屋の中心で、二代目如月と二代目睦月の姉弟は殺意を込めて互いを睨みつけ、同時に叫んだ。
「「死ね!!!!」」
己を支えきれなくなった屋敷はとうとう崩れ落ち、二人の頭上めがけて一気に落ちていく。ひとつの大邸が崩れる衝撃は凄まじく、誰しも耳を塞ぎたくなるような轟音と振動が土を揺るがした。
………………
燃え盛る都を駆け抜け、急いで如月邸へと向かう鈴紅の耳を、多くの悲鳴が劈く。都の住人を救う自分の物の怪たちを目にしても、明らかに数が足りないことが分かる。
敵はどうどん進入していく。それでも、鈴紅には頭領の妻だと認識しているのか手を出さないようだ。道中、住人を襲っている妖を斬り倒し、やっとの思いで屋敷に辿り着いた。
「如月様!」
門をくぐったその時、突然屋敷が大きく揺れて倒壊し始めた。
屋根からバキバキと音を立てて潰れていく如月邸を愕然と見つめていると後ろから頭領の部下たちが慌てて走って来る。
「頭領!!」
「待ちなさい!!」
慌てて屋敷に飛び込んでいく妖たちを呼び止めたが間に合わず、崩れ行く屋敷に巻き込まれていく。立派な屋敷だったため崩れた時の衝撃は大きく、地面は激しく揺れて地響き割れを起こし、地を這いずる獣の唸り声のような音が耳を引き裂かんとしている。
鈴紅は飛んでくる塵や木くずから顔を庇い、建物の崩れる音が収まった頃、ボロボロになった羽織りを脱ぎ捨てながら立ち込める砂埃に突っ込んでいった。
頭領と如月の両方、あるいは運良く片方だけが生きているかもしれない。鈴紅は、とにかく如月の安否を確認したくて必死だった。
「如月様!」
木の匂いに紛れて血の匂いが鼻をかする。それもとても濃い匂い、大勢の命が亡くなっているようだ。
「如月様!」
お願い、返事をして。どうか生きていて。崩れた跡を当てずっぽうで探るが、如月は見つからない。何箇所目か分からない、目に付いた木の残骸を掻き分けると、血塗れの死体が埋まっているのが見えた。
まさか如月かと思ったが、着物や僅かに見える横顔からこの屋敷で働いていた女中であることが伺える。足が折れていて片腕が見当たらない、見るに堪えない姿であった。鈴紅は既に息を引き取っている女中を救い出し瞳を揺らす。
もしかすると、金音もいずれこんな風になってしまうのだろうか。自分を慕ってくれているあの可愛らしい金音も。
女中の死体を静かに横たわらせて、また如月を探し出す。探す範囲が広すぎる、途中他の者の死体はいくつか見つかったが如月だけは見つからない。……それにあの男も。
その時だった、瓦の山が震えて内側から何かが押し出ようとしているのが見えた。あれは、如月なのか、それとも頭領なのか。ごくりと唾を飲んで、じっと待ち構えていると、豪快に山を薙ぎ払って"あいつ,,が出てきた。
「頭領! よくぞご無事で!」
駆けつけた家臣たちが、傷だらけの頭領の無事を称える。呆然としているのは鈴紅ただ一人だけ。
ふらついている頭領に肩を貸しながらいつものようにご機嫌取りをし始める家臣の話し声が遠くに聞こえてくる。
なんで、なんであの男が無事で、如月様は見つからないの。
動揺する鈴紅を見つけた途端、頭領は家臣の手を振り払い鈴紅の元に歩み寄り胸倉に掴みかかった。
「貴様、如月に告げ口をしたな」
「……」
「援軍まで送りおってっ!」
強く突き飛ばされて倒れ込んだ。冷たい目で見下ろされて体が震える。
「それでどうだ、都は救えたか。よく見てみろ! お前がどれほどの命を救えたというのだ!」
鈴紅は虚ろな目で都を包む炎を見つめる。悲鳴が木霊している、多くの建物が焼け落ちている。それを見ていれば嫌でもわかる、結局何も救えなかったのだと。
頭領は俯いている鈴紅から視線を逸らし、後ろに控えている部下たちに命令を下した。
「練清と練徳の居場所を探せ。見つけ次第撃ち殺してやれ」
如月の心残りである練清と練徳は、きっとどこかで身を隠しているのだろう。如月が二人をこの都から逃がさないわけが無い。
いや、何か違和感がある。あの二人は草木張の危機に自分たちだけが逃げるなんてことは決してしない。ましてや、自分の母親が命を狙われていたというのに。
如月はきっと、正義感の強い手のかかる息子たちを騙して、草木張ではない場所に移したのだろう。
―――練清と練徳には、どうしても立派に育ってほしくて……。
いつか如月が言っていたあの言葉を思い出し、鈴紅は迷わず立ち上がった。
「なんだ」
頭領は目の前に立ちはだかるか弱そうな妻を見据えて鋭い声を放つ。しかし、鈴紅は怯まず頭領と目を合わせる。
「あのお二人だけは、死なせません。絶対に」
如月が命にかえても守ろうとした草木張の希望を、失うわけにはいかない。たとえ相手が誰にもかなわない強敵であろうと、自分を幼少の頃から利用し恐怖を植え付けてきた男であろうと、一歩も引くつもりはない。
厳しい顔つきで挑んでくる鈴紅を、頭領は忌々しげに睨み返した。この夫婦から発せられるおぞましい圧に耐えきれなかった家臣たちは怖気付いて腰を抜かす。
「文月、貴様には罰を与えねばならないな。殺すだけでは面白くない、死ぬよりも辛い苦痛を与えねば」
殺意の篭った声に心臓が鷲掴みにされたような感覚に陥る。
死ぬよりも辛い苦痛、それが一体なんなのか考えている間に、頭領は不敵な笑みを浮かべる。
「前に話したであろう、人も妖も勝てぬものを作り出すと。あともう少しで完成する」
頭領は鈴紅に近寄ると、突然首を掴んでぐっと力を込めた。
(絞め殺される……!)
頭領の手首を必死に剥がそうと試みたが筋肉の足りていない細い腕では頭領の腕力にかなわない。決して離してはくれない頭領の手から首にかけて、ジワジワと何かが潜り込んでくる。
まるで、生き物か何かが首から侵入してくるような気持ち悪さに吐き気が込み上げてくる。
ようやく頭領の手が離れ、鈴紅は地に伏せて咳き込んだ。
「完成だ」
頭領は困惑する鈴紅の喉を見つめて、唇の端を吊りあげる。
鈴紅は燃えるように熱い己の首筋に触れて、体中を駆け巡る違和感に眉をひそめた。
「一体、何を……」
「お前と緤那の命を繋いだのだ」
緤那、聞き覚えのない名前だ。誰のことを言っているのか。すると、急激に首が痛み出し、鈴紅は悶え始める。
すぐ近くで悲鳴が聞こえて、血が飛び散った。何が起こったのかと目を見開くと、体をまっぷたつに斬られて血を流す頭領の家臣たちが目に映る。そこに、家臣たちの肉を抉ったのであろう血塗れの手を見つめる白髪の青年が佇んでいた。ボロボロの黒い着物の裾を引きずるように、ゆるりとこちらを見る。
「作り出したのだ、最強の生き物を。我が睦月の能力をもってして生まれた男を」
ボロボロの黒い着物を引きずる白髪で顔色の悪そうな青年、緤那は血溜まりに倒れ込んだ家臣たちを踏みつけながら、頭領に歩み寄り傅いて忠誠を示す。
「私に……何をしたのですか」
今も尚、痛みが持続している首を庇いながら鈴紅は頭領と緤那を睨みつける。
「言ったであろう、お前と緤那の命を繋いだのだと」
「まさか……」
「お前が死なぬ限り、緤那は生き続ける」
なんてこと、なんてこと。鈴紅は全身を震えさせ目を大きく見開き、残酷な今を見つめる。生きている限り、一生この男の呪縛から解かれることはないのだ。これで僅かに届いていた光も完全に遮断されてしまった。
頭領は首に締められた跡をつけて苦しむ鈴紅を見てほくそ笑むと、振り返って生き残った部下たちに指示を始める。
頭領が部下たちに気を取られている隙に鈴紅はフラフラと立ち上がり、尚も潰れた屋敷の下敷きになっているであろう如月を探しに向かう。頭領が居た場所、あの辺りを探せばきっといるはずだ。
首が痛い、熱い。
どくどくと脈打つ首筋に顔を顰める。頭領が這い出てきた場所を探っているとボロボロに破れた銀杏柄の唐衣が見つかった。
美しかったはずのその着物をぎゅっと抱きしめて、また手を動かす。もう絶望的だった、如月は生きていないかもしれない。それでも、潰れたままだなんて可哀想で仕方ないから救い出したかった。
「……」
見つけた。
「……」
どうして、動かない。やっと見つけ出した如月の瞳は、草木張を焦がす炎を映したまま動かない。顔は異常に白く、着物は土と埃と血に塗れてボロボロだ。
瓦礫を退かしてなんとか引きずり出したその体は重く、生気を感じられない。
「如月…様…?」
頬に触れて話しかけてみても、ピクリとも動かない。
「嫌、嫌よ……どうして……」
血の匂いがこびりついた着物に縋り付いて起こそうと試みたが、結局如月がこの世に戻ってくることはなかった。
「如月様、ごめんなさい……ごめんなさい、私がもっと早く来ていれば……どうしてあなたが死ななければならないの……」
涙をボロボロと流しながら何度も謝罪を繰り返す。起きない、起きるはずがない。心臓の音も止まっている、もう手遅れなのだ。
鈴紅は己が運命を酷く憎む。大切な者を二人も死なせてしまったのだから。