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鬼姫の曼珠沙華 ─濡烏の章─  作者: 紫木 千
第二章『頭領争奪編』
14/30

【第二章】母の優しい笑みは

 蛍助と八重という大きな存在が離れてしまい、部屋にひきこもるようになった鈴紅を心配した金音は、毎回甘味を持ってきては鈴紅の部屋で一緒に食べるようにしていた。

 甘いものを食べれば元気になるからと言っても、鈴紅は微笑むだけで決して元気を取り戻してはいないようだった。

 そして今日も、町で買った甘味を持って鈴紅の部屋を訪れて息を呑んだ。


「文月様…これは…」


 鈴紅の部屋は紙が散乱し、床を埋めつくしていた。鈴紅は必死に筆を走らせ、まるで金音に気がついていないようだ。

 金音は沢山落ちているうちの一枚を拾い上げて、そこに綴られている文章を目で追った。


 恋の歌だった。


 失恋したばかりの鈴紅には似つかわしくない、幸せな言葉の数々が並べられている。

 もしかすると、それが鈴紅の望む未来なのかもしれない。愛する男に愛され、子を産んで幸せに生きたかったのだろう。今の状態の鈴紅には決して訪れるはずのない未来。


「文月様……」


 夢を見るぐらい許してくださいと言わんばかりに、思いつくもの全てを筆に委ねている。

 もう時期、頭領と鈴紅の祝言だ。頭領は鈴紅のことなどこれっぽっちも愛していないだろう。便利だから手放したくない、だから鈴紅を娶るのだ。


 聞けば鈴紅の姉である二代目文月は、その頭領に追い詰められて自害をしたらしい。表向きは裏切り、反逆の罪で刑に処されたとされているが、真実は違う。きっと、使えなくなったから殺されたのだ。

 姉を殺した男に対して、恐怖を抱かないはずがない。鈴紅はとにかく怒りを買わぬように、言う通りに動くしかないのだ。


「文月様!」


 いたたまれなくなり、その小さな背中に呼びかけると、鈴紅の手が止まった。


「金音…」

「顔色悪いですよ、大丈夫ですか?」

「大丈夫。昼間外に出ないからそう見えるだけだよ」

「新しい歌ですか…?」

「如月様にお聞かせする歌だよ」


 鈴紅はすっかり疲れきった様子で、虚ろな目で会話を交わす。


「金音、片付けるの手伝ってくれる?」

「は、はい」

「今日も美味しそうなもの持ってきてくれたのね、ありがとう」

「…………」


 こんなにも疲れているのに、毎日毎日、金音へのお礼は欠かさない。

 哀れだった、誰かこの御方をお助け下さいと願うばかりだ。


………………



 如月を殺すという件を諦めていないらしい頭領の命令により、偵察がてら歌を歌いに草木帳の都に向かうこととなった。

 歌は、あの恋の歌だ。幸せな歌だから、如月も満足してくれるはず。


「……?」


 牛車を降りた瞬間、突然眩みだした視界に眉をひそめて、足を止める。しかし、それはすぐに収まった。


「文月様、どうなさいました?」

「大丈夫です、何でもありません」


 気にかけてくれた護衛に軽く頭を下げて、草木帳の屋敷を見上げる。


 ──最近、頭領の機嫌が悪い。


 頭領は、妖の都の中でも規模の大きい草木帳の都、そしてその次に重要な都である竜宮を手元に置きたいと考えている。確実に支配下に置きたいのだ。

 しかし、それに反対したのが頭領の実の姉、如月だ。疎遠となっているこの姉弟は、密かに争いを続けている。そこで、頭領は将来の妻である鈴紅に殺しを依頼した。


(実の姉を、殺すなんて……)


 最後の方は精神的に壊れていたが、姉を大切に思っていた鈴紅にとって、それはあまりに酷な話だった。

 如月には頭領が殺しを企てていることを密かに伝えたので、何らかの対策は立てているはずだ。


「はじめまして、お顔色が悪いようですが、大丈夫でしょうか」


 突如、穏やかな声がかかり、鈴紅はパッと顔を上げた。

 いかにも悟りを開いていそうな、僧侶のような鬼が、鈴紅に微笑みかけている。


「私は、二代目の師走でございます。お会いできて光栄です、文月様」

「師走…様…?」


 なんと、ここで如月以外の鬼神に出会うとは思わなかった。


「濡烏の歌声はまことに美しいと耳にしました。私も宴に参加してもよろしいでしょうか」

「もちろんでございます」


 鈴紅がふんわりと笑うと、師走は何故か不思議そうに首を傾げた。


「お若いですね。恐らく、まだ百も生きていないのでしょう」


 鬼の外見年齢なんて、みんな大して変わらない。長寿で、老化速度も遅いからだ。それなのに、何故鈴紅が百歳未満だと分かったのか。勘が鋭いのだ、この師走という鬼は。

 圧倒されている鈴紅に、師走は問い続けた。


「本当に、頭領の正室なのですか?」


 師走も草木帳にいるぐらいなのだから、如月と同様、頭領を敵視しているに違いない。その妻である鈴紅を警戒するのも無理はない。


「まだ、正式に妻になったわけではございません」

「申し訳ありません、私はただ、心配しているだけです。あなたは練清様と練德様と同じぐらいの歳なので」

「え…」

「あなたはまだ若い。あの男の隣に立つには負担が多すぎる」


 鬼神の頭領をあの男と称すくらいなのだから、あまり良く思っていないのは確かなようだ。しかし、心配してくれていたとは予想外だった。

 如月の息子、練清と練德には未だ会ったことがない。よく鈴紅と歳が近いと聞くが、一体どんな男たちなのか。


「それと……練清様と練德様はお見かけしていませんよね?」

「はい?」

「また勝手に遊び回るんですから、あのお方たち。特に練清様は無茶ばかりしますし」


 いやあ、困りましたと、頭を搔く師走。どうやら相当な悪ガキらしい。鈴紅がお見かけしませんでしたと首を振ると、師走も困ったように微笑んだ。その様子が、正に親のよう。

 屋敷中までは師走に案内してもらい、その時にお子様はいらっしゃらないのかと聞いてみたが、結婚さえもしていないと答えた。



 

 如月の部屋まで来た時、突如、部屋の中から怒鳴り声が響き、鈴紅と師走の足が止まる。

 如月の声だった。初めて会った時、穏やかで柔らかな微笑を見せてくれた如月が、あんなに大きな声を出すなんて想像もつかない。


「帰ってたんですね…」


 隣で、師走がポツリと呟く。誰が帰ったというのか、可能性があるとすればあの二人しかいない。


「聞いているの、練清! もう、練德もたまには兄を止めてちょうだいな」


 扉の向こうで、如月が息子の名を呼んだ。恐らく、帰ってきた二人の息子を母親が叱りつけているのだろう。如月は厳しい声で何かを問い続けているが、当の息子たちからは何の反応もない。

 歳が近いと聞いていたのに、とんだ子供だ。酷く落胆していると、ついに部屋の戸が開き、中から二人の男たちが出てきた。

 二人とも大きな体で、どこを遊び回っていたのか着物は滅茶苦茶に破れている。伸ばしっぱなしの髪を鬱陶しそうにかきあげる様子は、本当に如月の子かと疑いたくなる。

 しかし、二人とも顔は男前でなかなかの美形だ。そこは母親から受け継いだのだろう。


「おかえりなさい」


 この悪ガキ兄弟に優しい笑みを浮かべるは、二人を幼い頃から見守ってきたという、師走だ。

 練清と思われる男がそれに対して適当に返事をした後、師走の隣に立つ鈴紅を見た。


「……」

「……」


 まだお互い顔も知らないはずなのに、練清は鈴紅を見た途端、少しだけ目を見開き、じっと見つめ出す。

 そして、こう言った。


「髪に炭でも塗ってるのか」

「──。何ですって?」


 鈴紅の髪は先祖代々受け継がれてきた色だ。どんな種族の血が混じっても、必ず濡れ羽色の子が生まれてくる特殊な血を持っている。

 みんな鈴紅の髪を見る度に美しい美しいと愛でていたが、この練清だけは違った。


 ──何を、塗ってるですって?


 この髪だけは自慢だったのに、何なのだこの失礼な男は。


「申し訳ありませんが、私は生まれた時からこの髪でした」

「ほう」


 その綺麗な顔をぶん殴ってやろうかと袖の中で拳を震わせていると、代わりに師走が叱ってくれた。


「練清様、鬼神に何と無礼なことを言うのですか」

「何が鬼神だ。そのうち俺が妖の頂点取ってやるから心配は無用だ」

「練清様!」


 本当に何なのだ、この男。こればかりは師走も顔を顰めた。

 妖の頂点になるということは、鬼神の頭領になるということ。その頭領の妻がいる前でとんでもないことを抜かしてくれたものだ。


「申し訳ありません、文月様」

「構いません」


 妻とはいえど、まだ正式ではない。それに、愛のない結婚なのだから本当に構わない。ただ、この練清という男とだけは仲良くは出来ないだろう。

 気付けば練清は、何故か鈴紅の顔をじっと見つめてくる。何が言いたいのだろかと見つめ返していると、練清と練德はさっさ横を通り過ぎていってしまった。


「練清様、練德様。如月様にご迷惑をおかけしてはいけませんよ」


 立ち去っていく背中に向かって、師走はそう呼びかけて、ため息をつく。如月も師走も苦労しているようだ。

 鈴紅は振り返って遠くなっていく兄弟の背中を見つめて更に眉をひそめる。


 ──変な男。




 兄の一歩前を歩む練德は、呆れ顔で問いかけた。


「よろしいのか、兄上。せっかく濡烏と会えたのに」

「長話をしている時間はなかろうと思うてな」

「あ、そうではなくて…」


 さすが練清というべきか、初対面で突然あのような態度は如何なものか。当然、濡烏の反応も良くなかった。

 失礼極まりない態度ではあったが、練清は濡烏に惚れている。歌を歌っていた濡烏の横顔は、それはそれは美しかった。今日、初めて正面から見た時も練清は濡烏から目が離せなかった。


「しかし、兄上。濡烏はあの男の妻ですが」

「知っておるわ」


 母と敵対している男、二代目睦月。頭領という名を振りかざし、悪虐非道を繰り返す男。どういう経緯で夫婦に至ったのか疑問だが、濡烏の姉が死に追いやられたというのは有名な話だ。脅されているのは明らかだ。

 あんな良い女を好くことも出来ないとは哀れなものだ。


………………



「ごめんなさい、驚かせてしまったみたいね」


 練清と練德が部屋を出た後、すぐに鈴紅と師走が来たため、如月は先の失態に申し訳なさそうに顔を伏せる。親が子を叱るのは当然だ、たとえ如月が穏やかで優しい性格だったとしても、子のために声を荒げるぐらいするだろう。

 如月は師走の姿を見て安心したように溜め息をつく。お互い信頼し合っているようだ。


「練清と練德には、どうしても立派に育ってほしくて……」


 いつ自分が亡くなるか分からないからと、如月は寂しそうにそう呟いた。すると師走は険しい表情で如月を見つめて、如月のその言葉を否定するように首を振る。

 重い空気の中、鈴紅は両手を伸ばして如月の手を取った。瞳を瞬かせてゆっくりと顔を見上げる如月と目が合う。死なせませんと、強く伝えると如月の瞳が揺れる。鈴紅は本気だ、本気で如月を生かそうと思っている。その目に嘘偽りはない。

 如月は僅かに口角を上げると、ありがとうと呟き、鈴紅の手をそっと離した。己の方が大変なはずなのに、鈴紅は如月を優先するのだ。

 鈴紅は仲間思いなのだ、嘘を見抜く力を持つ如月がここまで信頼を寄せるなど珍しい。師走は鈴紅だからこそ、頭領の隣で生き抜いていけたのだと、そこで初めて知った。


………………



 濡烏の歌が披露された翌日のこと。相変わらず彼女の評判は良く、歌声といい雰囲気といい気品ある佇まいは多くの者を魅了した。練清と練德の兄弟は最後まで宴には顔を出さなかった。

 如月の計らいで、鈴紅が暫く草木帳に滞在することとなった日。部屋で引きこもって歌を書いていた時、突如その戸は開かれた。


「おい」

「──。私は"おい"ではありません」


 鈴紅のために用意された部屋の入口に、如月の長男、練清が腕を組んでもたれかかっている。ここしばらく暑かったせいか着物はだらしなく肌蹴ていて、目のやり場に困る。

 練清は一心になって歌を書き続けていた鈴紅をじっと見下ろし、次いで何の躊躇いもなく部屋に足を踏み入れた。

 女の部屋だというのに、遠慮なしに踏み込んでくる男の神経を疑った。練清は、畳に座り込んだまま唖然としている鈴紅の腕を掴むと上に引っ張る。鈴紅がとりあえず立ち上がってみると今度はじっと見つめられる。


「練清様…?」


 ここに来て、初めてその名を呼んだ。練清は少しだけ目を瞬かせ反応を示したが、構わず鈴紅の手を引いて部屋から連れ出す。不可解な行動に困惑する鈴紅は、相手が如月の息子ということもあって黙ってついて行くしかなかった。



 半ば強引に屋敷を抜け出して連れてこられたのは草木帳の都で最も賑わう場所、人間の国でいう町という所だ。沢山の店が立ち並び、人外の者たちが騒ぎ立てている。

 暫くはこんな賑やかな場所に来ることはなかったため、興奮のあまり胸が高鳴った。練清は相変わらず鈴紅の手を引いて突き進んで行く。

 行き着いた先に、やたら巨体の男がどしりと構えていた。顔もしかめっ面だが、練清を見た途端表情は緩やかに解けていった。


「練清様、今日は練德様はいらっしゃらないのですね。そちらのべっぴんさんは、恋仲ですか?」


 恋仲、という言葉が飛んできて、鈴紅は顔を赤くしながら慌てて首をぶんぶんと振った。その愛らしさに隣にいる練清の口角が自然と上がる。


「母上が屋敷に泊めている女だ。茶を一杯くれてやれ」

「練清様、私はお金を持ってきておりません」

「構わぬ俺が払う」


 そう言っている間に、男が大きな指でつまむようにして湯呑みを持ってきた。頭を下げて礼を言い、両手で受け取ると茶を覗き込んだ。焦げ茶色の水面から嗅いだことの無い、クセの強い匂いが鼻に届く。

 構わず一口飲むと体が一気に温かくなり、先までの疲れも綺麗さっぱり吹き飛んでいった。一体何が入っているのか。気付けば練清も隣で同じものを飲んでいる。

 このお茶、何ですかと尋ねれば練清はちらりと鈴紅を見た。


「ただの茶だ」


 こんなに疲れに効果的なお茶は初めて飲んだ。普通のお茶とは明らかに違う。

 すると茶を入れてくれた男が練清に苦笑して答えた。


「このお茶には、体の調子を整える作用がございます」


 鈴紅は飲み終えた湯呑みの底を見つめ、何かに気付いてパッと顔を上げて隣に座る練清に視線を向ける。

 練清は顔色の悪かった鈴紅をここまで連れて来てくれたのだ。昨日まで抱いていた練清の悪い印象が一瞬のうちに砕けて、心が暖かくなるのを感じた。

 鈴紅が茶を全て飲むまで何も言わずに待っていた練清は、さっさと男に金を支払い立ち上がる。


「来い。今日はお前を連れ回す」

「……え?」


 嫌な予感がする、練清は悪ガキだったということをすっかり忘れていた。

 練清から金を受け取った男は大きな手のひらで湯呑みを二つ掴みながら、ため息をこぼす。練德様じゃないんだから…と。

 なるほど、この男はこんな風に弟を外に連れ回していたのか。


「毎度ありがとうございます」


 店の外に出た若い二人の背中に向かって男は愉快な声でそう言った。




 連れ回すとは言われたものの、思ったよりも大変なものでもなく、むしろ鈴紅は草木帳の町で楽しんでいた。

 鈴紅は見た目の割に食べる量が多く、恐らく普段から十分に食べ物を食べれていない反動からきているのだろうと推察した練清は、鬼神の頭領に対して激しい怒りを抱くと共に、隣で満足そうに微笑んでいる鈴紅に心を癒されていた。

 鈴紅は厳しく躾られてきたため、甘味を上品に口に運んでいくが、今度はあれも食べてみたいとどんどん食欲が沸いてくる。自分のはしたなさに気付き、チラリと隣を見やれば練清の優しい微笑みが視界に入り、パッと視線を逸らした。


「なんだ」

「なんでもありません」

「意外と食うのだな、濡烏。その細い体によく入るものだ」

「申し訳ありません」

「もっと食え」

「……え?」


 これだけ我儘なことをしているのに、もっと食えと言われるなんて思いもしなかった。

 貰ってばかりで申し訳ない。鈴紅は手に持っている団子を練清に差し出す。


「召し上がりますか」


 練清は腕を組んだままじっと団子を見つめた後、鈴紅の手に顔を近づけそのまま団子をかじる。練清の顔と鈴紅の手はあと少しで触れるところであった。

 夫婦でもなんでもないのに、突然の行動に困惑し、鈴紅の顔が熱くなる。黙り込んだ鈴紅を、練清は咀嚼しながら面白そうに見つめる。


「なんだ」

「なんでも、ありません」


 鈴紅の心臓は爆発しそうなくらい鳴り響いているのに、練清は実に楽しそうだった。

 戸惑う鈴紅の腕を掴んで食べかけの団子を一口で頬張ると、鈴紅は「あ…」と寂しげな声を漏らした。


「お、お団子…」

「また買ってやる」


 あまり親しくもない男の食べかけを食すのも嫌だろうと思った練清なりの配慮だったが、鈴紅はあまり気にしていないようだ。

 意外と気遣いの出来る練清の隣で鈴紅は安心したように笑う。お互い、長年連れ添ってきた夫婦のよう、なんて言うのも変だろうか。何だか婆臭い言い方だが、頭領の隣でビクビクしているよりも、御屋敷で一人で苦しみに耐えるよりも、練清の隣にいる方がずっと心地良かった。

 ふと、練清の横顔を見て思った、母親似なのだろうかと。しかし、どちらかというと弟の練德の方が母親によく似ている。練清は…。


「練清様……私、あなたが如月様とお話していらっしゃるところを見たことがありません」


 そんなことを聞いてみると、鈴紅の方を見て練清は顔を顰めた。


「申し訳ありません、余計なお世話でしたね」


 だけど気になる。一応謝罪はしておくが、この件をこのまま放置しておくつもりはない。鈴紅が目で真っ直ぐそう訴えると、練清は呆れたように息を吐く。


「母上は最近、気が立っているのだ。気にするな」

「それは…──」


 ──練清と練德には言わないでね。


 如月が頭領に命を狙われていることをうっかり口に出してしまいそうになり、すぐさま引っ込めて適当にはぐらかす。如月なりに考えがあるらしいので、計画を実行するまでの間は、練清たちに言わないようにと頼まれているのだ。


「あの男については、知っておる」

「えっ」

「あの男が、母上の弟だということを」

「あー…」


 てっきり練清が如月の計画とやらに勘づいてしまったのかと思った。どうやら、練清も二代目の如月と睦月が姉弟だったという衝撃の事実を聞かされたようだ。複雑な表情を浮かべる練清の横顔を眺めながら、鈴紅は慎重に話し始める。


「私が来た日、如月様はたいそうお怒りでいらっしゃいましたね」

「屋敷を抜け出して町で大喧嘩しただけだ」

「何をしているのですか…」


 だからあの時、着物も髪もボロボロだったのか。


「何度でも言うが、母上のことは気にするな。放っておけばそのうち収まるだろう」

「練清様。大切な誰かと過ごす時間は、とても貴重なものですよ」

「……」


 鈴紅の言葉が響いたのか、練清は見失いそうになっていた何かを掴めたように目を見開く。大切なものを失った鈴紅にとって、家族という存在はとても重要なもの。


「大切なものは、ふとした時に消えてしまうのです」


 あの時こうしておけば良かったと後悔するのは、いつだって大切なものを失ってからだ。


(私は、姉様に何かしてあげられていただろうか)


 当時まだ幼かった鈴紅に出来ることといえば、泣き虫だった姉の頭を撫でることぐらいだった。


「誰かを労る気持ちは、苦労してきたお前にしか分からないのだろう」


 そんな言葉、かけられたことない。練清の声は優しくて、暖かい。今まで冷えきっていた心が緩やかに解されていく。あなたが頭領だったら良かったのに。そこまでは口にすることはなかったけれども。

 練清様は子供の頃から如月様に叱られていたのですかと聞けば、渋い声で話してくれた。練清は幼い頃、草木帳の子供たちのまとめ役だったという。誰かが怪我をさせられたなら、代わりに練清が怪我をさせた奴を殴りに行くという正義感溢れる子供だったようだ。

 しかし喧嘩ばかりして帰ってくる練清には如月も苦労したそうだ。更に当時大人しかった弟、練德まで引っ張り回し始めたので、暫くは如月の怒号が屋敷に響き渡っていたらしい。

 練清の昔話を聞きながら、そのやんちゃぶりに鈴紅は可笑しくて涙を流しながら笑った。その時、またもやじっと見つめられていることに気付き、鈴紅は首を傾げる。


「なんでしょう」

「お前は、美しい」


 途端、鈴紅の睫毛が震えて心臓が大きく鳴り響く。あまりにも真っ直ぐに見つめられてつい視線を逸らしてしまう。


「お前の歌は良かった」

「見ていたのですか」

「お前が初めてこの都に来た時にな」

「でしたら、もっと早く話しかけてくだされば良かったのに…」


 そこまで言って口を噤む。これじゃあまるで、もっと早くにお話したかったと言っているみたいで気恥しかった。口元を押えて顔を赤くする鈴紅に笑いかける色男。男女で外出なんて珍しいことだが、二人は美男美女でしかも片側が練清ということでよく目立っていた。


「また今度、聞かせてもらおう」

「……、ありがとう、ございます」


 見つめられると心が震える。出会った時からずっと見つめられていたが、そういう意味だったのか。意識し始めると顔が熱くなって、一応歌姫としての美意識を欠かせない性分なので身なりは大丈夫だろうかと気になった。

 美しい、そんな言葉は色んな男からかけられてきた。一度体を触られたこともある。男からの好意なんて信じられない。唯一信頼出来たのは蛍助だけ。でもそれ以上に、練清から言われた"美しい"は心の底から嬉しいと思えた。


「濡烏、お前の本当の名を聞ける日を待っている」

「……!」


 鬼神は容易に本名を明かさない。それを明かす相手は、余程信頼を寄せる者だけ。それこそ家族や恋仲、夫婦など。つまり男が女に本名を求める理由はひとつ。嬉しかった、嬉しかったけれども。


「そんな日が、くればいいのに」


 そう呟くと、珍しく練清の表情が曇る。隣でそんな顔をされると罪悪感に苛まれてしまう。ごめんなさい、私はすぐに頭領の妻になってしまうから。誰かと恋をしてはいけない。だから諦めて。


「帰るぞ」


 練清は何も言わずに、鈴紅に手を差し伸べる。鈴紅はその大きな手に遠慮がちに触れて小さく微笑む。甘えたくなる、どうしてこんな女に優しくしてくれるのかと問いかけたくなる。

 帰り道を歩む二人の繋がった手は長い袖に隠れて誰にも見えない。嬉しくて仕方ない、温もりに触れて涙腺が緩みそう。

 泣きそうになっている鈴紅に気づいているのか否か、練清は真っ直ぐ前方を見つめたまま黙り込んでいる。何を考えているのだろうと小首をかしげ、声をかけようとしたがあまりに真剣な顔をしていたので言葉を引っ込めた。


………………



 帰ってきてから母のもとに足を向けたのは、鈴紅の言葉が気になったからだ。大切な誰かと過ごす時間はとても重要なもの、長寿の妖にとってそれは馴染みない考えだった。

 後ろにいる弟の練德も連れて母の部屋に向かう。戸を開けば、驚いたような顔で息子二人を見つめる母がいた。しかし、すぐに緩く微笑み手招きをされて練清と練德はおもむろに母の向かい側に座る。


「今日はどこへ遊びに行ってきたの?」

「……」

「練清、文月様をお屋敷の外に連れ出したでしょう?」

「叱らないのか」


 如月はキョトンとして次いで可笑しそうに口角を上げる。


「文月様はあの歳で苦労なさっていらっしゃる。あんな暗い部屋にいるよりも、明るい外の世で思い切り楽しむべきなの。だからあなたがしたことは間違っていない、練德の性格が明るくなったのもあなたのおかげだもの」

「…………」

「でも限度というものがあるでしょう? 町で暴れたことは許しませんからね」


 また説教が始まりそうなので早々に立ち上がろうとする二人を引き止めて、母は再び笑う。


「練清、お前は誰よりも強い子、どこまでも這い上がれる子。きっと何もかも上手くいく。練德、お前は誰よりも賢い子だから、兄をしっかり支えてあげなさい」


 その言葉は母としての褒め言葉でもあり、後に頂点に上り詰めるであろう二人の未来を予知したものである。

 母の強き視線を受けて鼓動が早くなり、全身の血がたぎるような感覚を覚える。自分たちの中に秘めたるただならぬ力を、兄弟はまだ知らない。

 その時はこの熱き心の正体が分からず、考えることを放置した。いつもの母の励ましだと思って特に気にもとめなかった。


 しかし、練清と練德は母とろくに会話も交わさなかったことを後悔することになる。

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