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鬼姫の曼珠沙華 ─濡烏の章─  作者: 紫木 千
第一章『初恋編』
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【第一章】儚い美しさを、強さを

 息絶えた男をゆっくり横たわらせると、蛍助は決意に満ちた瞳を闇に向けた。この先にどんなものが待ち構えていようとも、八重に会うまで引き返すわけにはいかない。

 彼女を必ず、連れ戻す。

 一歩踏み出した時、くいっと羽織りを引っ張られた。亡くなった男の傍らに座り込む鈴紅が、蛍助を引き止めている。


「どうしたんだよ文月、来いよ」

「この瘴気、人間には耐えられない…」


 眉をひそめて忠告する鈴紅の手を引っ張って立ち上がらせると、「あれくらい、耐えられる」と強がった。

 蛍助に掴まれた手を見つめて、鈴紅は複雑な表情を浮かべる。


 ──好きな人が他の女を追うのに、協力するのですか。


 金音の言葉が蘇る。何故蛍助を引き止めてしまったのか、考えれば考えるほど胸が苦しくなる。蛍助と八重が二人だけで肩を並べて、幸せそうに笑っている未来なんて来なければいいと思ってしまう。

 鈴紅の手が震えていることに気づいた蛍助は、彼女の手を両手で優しく握って笑いかけた。


「俺は大丈夫だって。霧の部族は厳しい鍛錬を受けている。そのために濃い瘴気をわざと吸ったりしたこともあるんだ」


 霧の部族の男は瘴気に耐性があるから少しは安心できる。鈴紅が表情の晴れないままぎこちなく頷くと、蛍助は再び歩み始めた。

 もしも、蛍助と八重が互いに恋心を抱いたなら、鈴紅は引き下がるしかない。鈴紅は鬼だが八重は人間だ、蛍助とお似合いなのは八重に決まっている。これが普通なのだ。


 それでも、寂しいと思うのは何故だろう。


 鈴紅はかぶりを振って負の感情を胸の内から追い払うと、先を行く蛍助の手を掴んで引き寄せ、彼の手に小さな何かを握らせた。


「何だ、これ? 薬か?」

「鬼の血で出来てるの。何かあってもすぐに回復できる」

「お、鬼の血!?」


 取り込みすぎると人間の身には害だが、鍛えられた蛍助ならば大丈夫なはずだ。

 興味深そうに薬を見つめる様子がおかしくて、鈴紅は笑った。その動作さえも見惚れるほどの紅裙の鬼を見つめて、蛍助は俯く。鈴紅のことを好き勝手振り回して、本当に申し訳なく思った。


………………



 村は瘴気に充たされて、人間ならば息苦しくなるはずの空間をものともせず、蛍助は迷わず進んで行く。鈴紅は蛍助の鍛え抜かれた精神に驚きつつも、神経を研ぎ澄まして辺りを警戒する。

 短時間ですっかり荒んでしまったらしい村だが、生きている気配はするにはする。気配は酷く小さくて怯えている。

 村の奥に佇んでいる鳥居をくぐり抜ければ、更に闇は深く、瘴気も濃くなっていった。


「──」


 ふと、蛍助が足を止めた。蛍助の視線を追っていくと、見覚えのある後ろ姿が見えた。地に座り込んで、ぼーっとどこかを見つめている。


「八重…?」


 蛍助は泥だらけの巫女装束を纏う女の後ろ姿に呼びかけた。しかし、女に反応はない。

 よく耳を澄ませてみると、ブツブツと何かを呟いているではないか。まるで他の音など聞こえていないかのように、病的に。


「八重」

「八重さん」


 二人の呼びかけに、八重の呟きも微かな震えもピタリと止まる。しんと静まり返った世界の中心にいる巫女がのろのろと立ち上がって振り返った途端、おぞましいほどの殺気が漏れ始め、二人は身構える。

 あれは、八重ではないとすぐに分かった。八重はあんな冷たい目をしていない、優しく暖かな瞳を持つ素敵な女性だ。何かがとり憑いているに違いない。


 ──間一髪だった。飛び込んできた大きく鋭い爪が蛍助の鈴紅の間を引き裂いた。

 八重の腕だった。彼女は既に人間ではなくなっていたのだと知って、絶望した。化け物と化した哀れな巫女を見て衝撃を受けた蛍助は、腹の底から叫んだ。


「八重! おい、八重って!!」


 普通の人間には防ぐことの不可能な攻撃を全て払い退けながら、必死に呼びかける蛍助を見て、鈴紅は唖然とする。何故そこまでして必死になるのか、もう八重は八重ではなくなったというのに。

 案の定、化け物は叫び散らす蛍助を狙い始めた。


「蛍助!」


 蛍助は鞘から豪快に刀を抜き取った。蛍助の刀の鎬地には大量の呪文が刻まれており、全ての邪気を払う強い力を纏っているようだ。

 獣の如く襲いかかってくる八重を斬るしかなかった。蛍助の刀が八重の腕を斬りつけ、肉の焼ける音が響く。皮膚がめくれ、そこから湯気が立って八重の悲鳴が木霊する。

 八重の苦しげな声に耐えられなくなった蛍助は悲しげに顔を顰めた。


「蛍助、八重さんを押さえてて!」


 鬼神である鈴紅ならば、八重の中に巣食う化け物の根源を取り除けるかもしれない。鈴紅の指示に従って、蛍助は苦しみもがいている八重を取り押さえた。何かに縋りたかったらしい八重は、蛍助の腕に噛みつき低い唸り声を上げる。


「八重、頼むから、落ち着いてくれ!」


 八重が牙を差し込んだまま暴れるため、蛍助の腕から血が流れ始める。それでも、蛍助は怯まずに八重をしっかりと捕まえる。

 前に、八重が蛍助を庇って腕に大怪我を負ったことがある。八重は蛍助にとって命の恩人だ。八重に噛みつかれたぐらい、どうってことない。

 鈴紅は二人の元に駆けつけると、暴れる八重の顔を掴んで迷わず口に手を突っ込み始めた。突然の行為に、八重は目を見開いて更にもがく。


(いる…!)


 鈴紅の指先が、八重ではない別の気配を感知した。喉の奥まで手が届き、その嫌悪感から八重は無茶苦茶に暴れるが、さすがに鬼の怪力には対抗出来ない。鈴紅が、八重の中に潜む何かを掴んで引っ張りあげようとした時。


 ──やめろ、離せ!!!


 大きな衝撃と共に蛍助と鈴紅は吹き飛ばされてしまった。地面に叩きつけられた蛍助はすぐに起き上がり、八重の居場所と鈴紅の安否を確かめる。そこで目にした光景に蛍助は愕然とした。

 土埃の中、立ち上がった鈴紅の腹に風穴が空いている。


「文月…!」


 しかし、とんでもない大怪我を負っているにも関わらず、凛とした表情で八重を見据える鈴紅。鬼だから大した怪我でもないのかもしれないが、恐らく、鈴紅の計り知れない精神力と忍耐力のおかげだろう。

 喉の奥から沸き上がってきた血を口から吐き出す鈴紅は、苦しげに咳き込んでいる化け物を睨んだ。


「──邪魔をするなクソガキども」


 喉元を押さえながら、八重が低い声でそう言った。口調といい、表情といい、今声を発した者が八重本人ではないのは明らかであった。

 特に、無理矢理引っ張り出そうとした鈴紅には怒りを剥き出しにしている。


「鬼? それも、もっと強い……鬼神!」


 鈴紅に掴まれた瞬間、強い妖気を感じ取った。日頃から十分な食べ物を口にしていないのか、鈴紅は見るからに筋肉の無さそうな女の手をしている。

 押さえ込まれた時は驚いた、強靭な肉体、濃い妖気、これほどまでに強い妖とあれば、鬼神しかいない。


(それにしてもこの巫女の体、今まで食ってきた巫女たちよりも霊力が高いが、やはり人間。鬼に対抗出来る程の体力はないな…)


 人間にとり憑くのは失敗だったかと、八重の体の中で紅壱は密かに悔やむ。鬼神を相手に人間の身で戦うのは無謀だ。男の方もあれだけ瘴気を浴びておきながら平気そうな顔をしていることに加えて、手に持っている刀の威力も相当なもの。

 しかし紅壱は考えた、せっかく巫女の体を手に入れたのだ、腕力や脚力で勝てぬのであれば、神から授けられた巫女の力というものを存分に利用させてもらうではないかと。

 これまで巫女を喰らい続けてきたせいか、霊力も倍増している。勝てる、確実に勝てる。


「鬼神、私はお前の行動が理解できない。何故、人間を守るの? こやつらは何の価値も見いだせない。栄養分の高い血肉か、役にも立たぬ労働力のどちらか、そう思わない?」

「思わない。生まれてこの方、人肉は口にしていないのでお前の言っていることが理解できない」

「だからそんなに見た目が弱そうなのね。血を一滴、舐めてみれば良いのに。実に美味よ、若い娘の肉は」


 八重の頬を撫でながら妖しげに微笑む化け物を睨みつけ、蛍助は刀の柄を握りしめる。


「そいつに触れるな、化け物…」


 八重の体で好き放題してきた化け物に、本気の怒りを示した。鈴紅はあんなに怒っている蛍助は初めて見たと、瞳を瞬かせる。

 八重に惚れているのなら、当然だろう。


 紅壱は不思議そうに首を傾げた。


「化け物、私を化け物と呼ぶの? なら、そこの女も化け物ではないの?」


 ちらりと視線を向けられ、鈴紅の肩がこわばった。蛍助の答えを聞くのが怖い、蛍助の目に自分がどう映っているのか考えるだけで怖い。

 蛍助は、鈴紅が体を硬直させて拳を握りしめているのに気づき、顔を顰めると、化け物を睨みつけた。


「文月は化け物じゃねえ」


 八重の瞳が、不愉快そうに細められる。

 鈴紅の長いまつ毛がわずかに揺れ、震えないようにと握りしめていた手が緩やかに解かれる。


「文月は、お前みたいに人の命を踏みつけにするようなクズとは違う……お前と一緒にするな!」


 正義感が強く、勇敢で、仲間思い。闇に埋もれて生きてきた紅壱が大嫌いな種類だ。この人間の男は、己を前にして怖気付くことなく堂々としている。不愉快極まりない。

 蛍助に背中を押されたはずの鈴紅は、複雑な表情を浮かべている。どれだけ蛍助が励ましても、鬼と人間の境界線が消えることはない。


 打たれ弱そうな女。紅壱が鈴紅を見て思ったのは、それだけだ。



「──"こんな世界、滅びてしまえばいいのに"」



 紅壱はそう呟いた。鈴紅はぎこちなく顔を上げると、ニヤニヤと笑っている紅壱と目が合ってしまった。


「"私ばかり奪われて、私ばかり失って。もう、全部いらない、早く死ね"」


 鈴紅の頭が混乱し始める。自分はそんなこと思っていない、そんなこと望んでいないと、必死に頭を振り続ける。しかし、どれだけ否定し続けても、紅壱の口は止まらない。


 皆、幸せそう。


 嫌い、大嫌い。


 私ばっかり不幸。


 憎い、許せない。


  紅壱は、鈴紅の心の奥底に沈んでいる負の感情を淡々と読み上げ、次いで高らかに笑った。


「この世の終わりを望む女、人を殺してきた女を、化け物と呼ばずして何とする?」

「やめろ!」


 紅壱に反論したのは、鈴紅ではなく蛍助であった。そんなことしてくれなくていい、蛍助に庇ってもらうほど自分は立派ではない。

 止めても、蛍助は必死に庇ってくれた。しかし、紅壱は腹を抱えて笑うと、鈴紅を指さしてこう言った。


「こいつ、お前のことが好きなんだと」

「──!」


 突然、何を言うのか。鈴紅の瞳が揺れる。胸の内を勝手に暴かれ、勝手に想い人に告げられた絶望感はたまらなく苦しかった。

 蛍助は鈴紅からの想いを知り、動揺している。


「平気そうな顔をしておきながら、この巫女に取られるのが怖くて仕方ないんだと」

「やめて!!」


 必死に言葉を遮ると、紅壱はようやく口を閉じてくれた。

 すっかり黙り込んでしまった蛍助は、鈴紅から目をそらしたまま俯いている。それがとても辛かった。

 鈴紅の、この世の理不尽さに対する怒り、蛍助への叶わぬ恋心を勝手にベラベラと喋った八重の顔は、楽しそうに歪んでいる。


(蛍助、どうして私を見ないの)


 蛍助は完全に鈴紅から目を背けていた。それは今に始まったことじゃない。鈴紅は既に結婚が決まっていた、だから蛍助の求婚も断った。二人の関係はそこからズレ始めたのだ。


「……やっぱり、化け物はおめえの方だよ」


 蛍助は化け物を鋭く睨みつけて、そう言った。紅壱の眉がピクリと動く。


(あーあ、綺麗な目、綺麗な心。私はそういう奴が一番嫌いだ)


 蛍助を見る度に不機嫌になっていく紅壱の周りに、黒い霧のようなものが漂い始める。

 鈴紅は咄嗟に蛍助の元に駆け寄り、彼の口を押さえた。蛍助と目が合った瞬間、ごめんねと、呟く。

 種族の違う者同士の馴れ合いを面白そうに見つめながら、紅壱は黒い嵐をその手に巻き起こし、二人目掛けておおきく振りかぶった。地に大きな穴が空くほどの衝撃で、必死に蛍助を守っていた鈴紅は、掴んでいた彼の体を離してしまった。


(蛍助、息を、止めて!)


 叫んでも、この騒音の中では届くはずがない。


 ──熱い…痛い…。


 地に叩きつけられ、目の前が朦朧とする。痛みなど、今まで何度も味わったではないか。傷つけられても、我慢出来ていたはずだ。何故今になって、力が出せないのか。

 ふと、自らの腹に触れて愕然とする。血が大量に流れ、目の前が自分の血で埋め尽くされている。


 ──痛い、痛い、痛いっ。


 内臓が出ていないだろうか。どうりで目の前も眩むはずだ。いつもより回復が遅い、もしかすると、八重の体を纏っていた黒い霧を吸い込んでしまったのかもしるない。あれは、妖にも害があるようだ。


「け…すけ…」


 声を発すると、同時に口から血が溢れた。鬼の鈴紅がここまで攻撃を食らってしまったのだ、蛍助は無事では済まないはずだ。

 心配で仕方ないのに、どれだけ辺りを見渡しても、蛍助の姿が見つからない。蛍助が死んでしまったらどうしよう、最悪の事態ばかり想像してしまい、いても経っても居られず、無理やり体を起こし立ち上がった。

 歩けば、地面にぱたりぱたりと落ちていく自分の血の音が響く。体は重く、動くのも辛くて、いっそのこと、このまま倒れてじっと動かなくなってしまいたいと思うほど心も弱っていた。

 でも、蛍助の安否だけは確認しなければ。足を引きずりながら、沢山の血を流しながら、蛍助だけを求めてひたすら歩く。


「──」


 少し気を緩めれば、また倒れてしまう。あの黒い霧を吸ってから、まるで何かが体の中で、少しずつ内臓を潰していっているような感覚に陥る。


「私…まだ…」


 ──死ぬわけにはいかない。


 救わねばならないもの、守らなければならないものがあるのに、勝手に死ねない。でも、もう動けない。

 その時、小さな足音が鈴紅の近くで止まった。目だけを動かして、驚いた。まだ人間の少女が、鈴紅を見下ろしているのだ。


「……」


 少女はぼろぼろの着物を破いて、鈴紅の手当をし始めた。


「あなた、何してるの……。早く、逃げなさい……」


 少女は鈴紅の言うことに従わず、痩せ細った腕を懸命に動かす。


「鬼様、たくさん怪我をなさっているので、放っておけませんでした」


 鈴紅は霞んだ瞳で、少女の作業をじっと見つめて、黙り込んだ。傷の手当なんて、いつぶりだろうか。やんちゃをして転んで怪我をした時に、叔母に手当をしてもらったのが最後の記憶だ。


「ねえ、おいでってば」


 ふと、少女が後ろに向かってそう呼びかけると、建物に隠れていた人間の子供たちが大勢現れて、戸惑いがちに鈴紅に歩み寄って来た。

 すると、皆で鈴紅の手当を始めた。最初に近づいてきた少女の指示に従い、子供たちはせっせと働く。

 死体がごろごろと転がっている村の中で、こんなに多くの子供が生き残っているなんておかしな話だ。


「あなたたち、どうしてこの村から逃げないの?」


 そう聞くと、子供たちは口々にこう言った。


「お姉ちゃんがまだ村におると思って」

「父ちゃんと母ちゃんがおるけん、探しに来た」

「他にも取り残された子がおって、助けに来たの」


 この村の子供たちは、心の優しい、勇敢な者たちばかりだ。しかし、鈴紅は呆れ顔でこう返した。


「気持ちは分かるけど、あなたたちはとっとと村を出た方が良い…。見たんでしょ、あれを」


 子供たちは、変わり果てた八重の姿を見たはずだ。

 すると、最初に手当を始めた少女が複雑な表情を浮かべて、あの巫女さんはねと、口を開いた。

 そういえば、他の子の口調が方言なのに対して、この少女だけは標準だ。


「えっと、私、恋梅っていいます。この村のまとめ役だった椿さんの跡継ぎで……八重の妹です」

「八重さんの、妹?」


 それでは、この恋梅という少女は、変わり果てた姉を見てしまったのか。子供にとってはかなりの衝撃だっただろう。

 幼い頃、泣きついてきた姉の紅華にしてあげていたように、梅の頭に手を伸ばした時。


「治ってる…?」


 あれだけ辛かったのが嘘のように消えている。


「恋梅は巫女様の血、継いどるけん」


 子供のうちの一人が自慢げに答えた。八重の村にとって巫女は大事な存在らしく、八重と違って生贄ではなかった恋梅は跡継ぎとして大切にされていたらしい。


「本当は村の外に逃げていたんです。だけど、 途中でお兄ちゃんたちとはぐれちゃって、結局この村に戻ってきました。私、お姉ちゃんを助けたくて…」


 たとえどんな巫女であろうと、子供は子供だ。鈴紅は恋梅の頭を撫でながら、ゆっくりと首を振った。


「私、八重さんの友達なの。八重さんを救いたいのは私も同じ。あなたは、他の子を守りなさい。私は、八重さんの所に行くから」


 梅は心配そうな表情で、傷だらけの鈴紅を見つめていたが、やがて大人しく頷いてくれた。

 八重は初めて出来た人間の友達だ、きっと救ってみせる。


「恋梅、あの化け物について、教えてくれる?」


………………



 目を覚まして早々、胸の辺りが苦しくて口から血を吐き出した。近くに鈴紅の気配がしない、無事なのだろうか。重い体を一生懸命起こして、鈴紅を探しても見つからない。手に持っていた刀は、随分遠くに投げ出されていた。

 心臓を握りつぶされるような感覚と共に、再び血を吐き出した。あの黒い霧だ、あれをうっかり吸い込んでしまったがために体内が傷ついてしまったのだ。

 それでも、歩け、歩けと体を引きずっていると、近くに気配を感じて立ち止まる。


 弱っている蛍助の元に、……彼女は現れた。


 一体どれだけの命を奪ってきたのだろうか、返り血で赤く染った着物を身に纏う彼女は、空虚の瞳で蛍助をじっと見つめている。


「……、…八重?」


 そう呼びかけても、やはり返事はしない。それでも、八重の瞳が一瞬揺れたのを見逃さなかった。


「八重、一緒に帰ろう」


 手の平を差し出されても、八重には何も反応がない。辛く悲しい思いをしてきたことだろう、八重の心は壊れてしまっているのだ。

 でも、八重が化け物に負けるはずがないと、蛍助は懸命に呼びかけ続けた。


「八重。まだ、お前は消えていないんだな」

「……」

「まだ、生きているんだな」


 突如、八重は蛍助の腕に掴みかかった。長く伸びた爪が皮膚に食いこみ、血が流れ出る。蛍助は八重を取り押さえながら、必死に彼女の名前を呼びかけた。八重、八重と。

 すると、八重は頭を押さえながら、苦しみもがき始めた。

 紅壱が食ってきた巫女たちの怨念が、八重の中で一気に爆発してしまったのだ。


「痛い…いたいっ…! ……暗い、寒い!! 殺してやる…食ってやるううう!!! 嫌だあ、助けてぇ…もう、嫌だ……」

「…………」

「父さんも母さんも死んじゃった……皆、どこに行ったの、私、一人になっちゃったあ…!」


 八重と、紅壱と、紅壱が食ってきた巫女の人格が一人の人間に同時に宿り、耐えられなくなる。


「……助けてえ、蛍助さんっ」


 泣きじゃくって助けを乞う八重の頭を引き寄せて、蛍助はいっぱいいっぱいになってしまった人格のうちの、たった一人の女の名を呼んだ。


「八重」


 涙で蛍助の胸元を濡らす八重の頭を撫でながら、真剣に語りかけた。


「まだ、俺はあの時の返事をしていない。だから、聞いてくれ」


 こんな状態の八重だが、きっと声は届くはずだ。苦しみに打ち勝って、今から話すことに耳を傾けてくれるはずだ。


「山姫に襲われて二人で身を隠していた時、あんたがそばにいてくれたから、俺は強くあれたんだ。いつまでもそばに居てくれると思っていたのに、あんたが急に帰ると言い出した時、気づいたんだ」


 八重を強く抱きしめて、微笑みかけた。


「八重、俺といつまでも一緒にいてほしい」


 八重の悲しみの涙が止まる。まさかそんな、好意を寄せていたのは自分だけだと思っていたのに。嬉しくて、再び涙が溢れた。気づけば苦しさも止まっていた。

 だけど、紅壱と犠牲になった巫女たちの魂は八重の中に確実に残っている。今は安定していても、また、いつ誰かを襲うかも分からない。

 八重はゆっくりと蛍助の手を解くと、蛍助の頬に触れて悲しく笑った。


「八重…?」


 八重は蛍助から離れて、蛍助の持っていた刀を拾い上げた。



『何をするつもりだ、貴様!』


 頭の奥から紅壱の声が響く。もう、誰も死なせないために。誰も憎まないために。八重は刃の先を自分の腹にあてた。


『やめろ…死にたいのかっ!!』


 ──今までありがとう、紅壱様。出来ればもう二度と、会いませんように。


『やめろ、聞こえないのか! 人間のくせに…!』



 とにかく、紅壱は体を与えてしまったがためにここまで暴走してしまったのだ。この体から追い出さなければならない。それが一番良い方法なのかは分からない。でも、これしか思いつかない。

 八重の行動が予測出来た蛍助は慌てて駆け出した。せっかく結ばれたのに、報われることはなかった。これも運命なのだろうか。


「ごめんなさい」


 八重は刀で思い切り腹を貫いた。全身を駆け抜ける激痛、止まらない汗。それでも、刀の柄に力を込めて、ぐっと押し込んだ。

 刀に刻まれた呪文は、八重の中に潜む紅壱の存在に反応し、輝き始める。頭の中で紅壱の悲鳴が響き渡り、八重はやるべき事を成し遂げたように口角を上げた。意識が霞んで、駆け寄ってきた蛍助の腕の中に倒れ込む。


「八重、何でだよ…どうして…」


 排除されかけた紅壱は、慌てて八重の体から出て行った。

 長年、火ノ壱村を苦しめてきた化け物の暴走は、悲運の巫女の命と引き換えに、終わりを告げた。


…………



 すっかり弱り果ててしまった紅壱の魂は、陽の射さない村の中をさまよい、辿り着いた先には、滅の刀を手に持つ濡烏が立っていた。

 近くに隠れていた子供たちが、紅壱の真の姿を見て怯えている。それもそのはず、紅壱の正体は、黒いドブのような液体を纏う、本物の化け物だったのだから。


『クソが。人間はゴミばかりだ!! 弱いくせに、ただの餌のくせに!!』


 濁りきった声で叫び散らす紅壱を、鈴紅は無言で見つめている。

 八重の体を乗っ取って好き放題出来ていた時とは違い、今は頼りない四肢でなんとか体制を保ち、歩く度にびちゃびちゃと異臭を放つ黒い液体を零れさせている。実に哀れだった。


「人間は、弱くなどない。現にお前は、人間に負けてしまったのだから」


 黒い液体の隙間から見える獣のような口を半開きにし、フーフーと荒い呼吸を繰り返す紅壱。


「私たちは、知らねばならぬ。人間の命は、私たちよりも短い。だからこそ私たちにはないものを生み出せるのだ。その儚い美しさを、強さを、知らねばならぬ」


 蛍助と八重に出会えて良かった。心から感謝している。


「八重さんは、お前に体を乗っ取られていても、子供を殺さなかった。あの人は、強く優しい人なんだ」


 鈴紅は弱りきっている紅壱に、曼珠沙華の刃の先を向ける。

 黙り込んでしまった紅壱、死を前にして、何を思う。自らの行いに悔やんでいるのか、それとも人間に負けたことに対して悔やんでいるのか。無論、後者だろう。だが、紅壱が人間という存在の意味を考えもしなかったことが、今回の敗因なのだ。

 今更考えても遅い。曼珠沙華は、既に紅壱の体を切り裂いてしまった。


 化け物は塵となって消えていく。黒い雲間から、陽の光が差し込まれる。やっと、朝が訪れた。


…………



 もう、死んだはずなのに、必死に自分を呼ぶ声が聞こえる。意識がふわりと浮いて、その反動で目を覚ました。

 涙が、落ちてくる。好きな人の泣き顔がすぐ近くにあって、思わず笑ってしまった。


「どうして泣いてるの、蛍助さん」


 蛍助は袖で涙を拭いながら首を振って、笑いかける。


「良かった、目を覚ましてくれた…。良かった……」

「何で私、生きてるの…」

「まだお前が死ぬ前に、文月がくれた薬を飲ませたんだ」


 村の入口で文月に渡された、鬼の血で出来た薬。あの薬が八重の命を繋ぎ止めてくれたのだ。


「そう、文月が……」


 八重は、大好きな友の名を呟いて、嬉しそうに微笑んだ。文月に会えてよかった。あんなに心の優しい鬼に出会ったのは初めてだ。

 もう一度、人生をやり直せる。愛する人と一緒ならば、何も怖くない。



「お姉ちゃん!」



 まだ幼い少女の声が響き渡り、八重は目を見開いて、慌てて起き上がった。生き残った村の子供たちが姿を見せる。その中に二人の弟と、妹がいた。そして、妹の恋梅の手を引いているのは、文月だ。

 子供たちを守ってくれていたのだと理解した時、八重は文月に頭を下げて、感謝の意を示す。文月は優しく微笑んで、首を振ってくれた。


 仲睦まじく微笑み合う蛍助と八重の姿を、鈴紅は寂しげに見つめた。惹かれあっているのだと分かる。互いに想いが通じ合っている。

 鈴紅の初恋が終わる。その胸の痛みをそっと引っ込めて、鈴紅は二人の元に歩み寄った。


…………



 蛍助と八重が霧の部族の屋敷に帰ると、頭領の狭霧は二人を大きな体で抱きしめて「無事で良かった」と言ってくれた。

 火ノ壱村では犠牲となった巫女たちの魂の浄化など多くの儀式が取り行われた。村の生き残りは、子供たちと八重だけだ。もしかしたら他にもいたかもしれないが、あれだけの騒ぎが起きたなら、どこか遠くへ逃げているだろう。

 子供たちも、寺に引き取られた子も居れば、霧の部族で働き始めた子もいる。 


 そして八重は、紅壱に乗っ取られた影響から、体をよく壊すようになってしまった。



『紅壱が鈴紅の想いを蛍助に暴露した時の秘密』

 この時、既に蛍助は八重のことが好きだったため、申し訳なくて鈴紅から目を逸らしたのです。求婚を拒まれたので、まさか好かれているとは思っていませんでした。

 あの時、もしも鈴紅が自由の身であったなら、蛍助を受け入れていたかもしれません。

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