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鬼姫の曼珠沙華 ─濡烏の章─  作者: 紫木 千
第一章『初恋編』
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【第一章】最初から人ではなかった

 八重が屋敷を出たことはすぐに分かった。狭霧は急いで使いの者を八重の故郷に送り、八重を徹底的に探し始めた。


「頭領、何故、八重を故郷に帰さないのですか?」


 頭を抱える狭霧に、蛍助はためらいがちに問いかける。狭霧がここまで必死になるのには、何か深い事情があるはずだ。


「お前にも、話しておくべきだったな…」


 狭霧は深刻な表情で眉間に皺を寄せた。


「八重さんがいた村はな、禁じられた儀式が行われているのだ」

「儀式?」

「村で一番霊力の高い巫女は、土地の神様に捧げる贄となるのだ」


 もしも、霊力の高い巫女が八重ならば、村に戻れば八重は殺されてしまうかもしれない。だから狭霧は八重を必死に引き止めていたのだ。


「八重さんの父君と母君は、八重さんを守るために、霧の部族に送ったのだ」


 蛍助の背筋が凍った。あの時、八重をもっとしっかりと引き止めていれば良かった。あっさりと帰して、彼女の身にもしもの事があれば一生後悔することになるだろう。


 ──蛍助さん、あなたのことが好きです。


 八重の言葉が頭にこびりついて離れない。どうしてあんなことを言ったのだろう。八重はもう、戻ってくるつもりなどないのかもしれない。

 去りゆく八重の後ろ姿に、必死に伸ばした右手を見下ろし、眉間に皺を寄せる。八重を救わねばならない。


「頭領、俺は八重の村に行きます。八重を連れ戻しに行きます!」

「既に専属の者を行かせた」

「俺も、頼みます!」

「ならん!」


 狭霧は聞き分けのない蛍助を鋭い眼光で睨みつける。あまりのおぞましさに、控えていた男たちも全員冷や汗をかきながら、体を強ばらせる。

 しかし、蛍助だけは怯まず、立ち上がって睨み返した。狭霧は、勇敢な男をその目に焼き付け、呆れ顔で溜息をついて背を向けた。


「お前がこんな馬鹿者だったとはな!」


 そう言い捨てると、部屋から出て行ってしまった。

 普段から優しく温厚な狭霧が、声を荒らげるなんて、八重の村は余程危険な場所らしい。

 狭霧の去った部屋に、蛍助の拳を握りしめる音が静かに鳴り響いた。


…………


 人間の町を訪れた鈴紅は、隣で目を輝かせながら町を見回す金音に微笑みかけた。上手く人間に化けられている二人は、なんの違和感もなく街に溶け込めている。


「金音、この先に月火の社があるの。行きましょう」

「はい、文月様」


 向かう先は、蛍助と八重との思い出の場所だ。ふとした時に行きたくなる不思議な社、あの場所には何か特別な力でも宿っているのだろうか。

 木々に覆いつくされた静かな社にたどり着くと、先に来ていた男と目が合った。


「蛍助……」


 蛍助は酷く思い悩んでいる様子で、鈴紅を見た途端、まるで追い求めていた光を見つけたかのように目を見開く。鈴紅も異変に気づいて、慌てて蛍助に駆け寄った。

 人間の男を警戒する金音は、訝しげに眉をひそめながらも慌ててついて行く。


「蛍助?」

「文月、八重が……」

「八重さんに、何かあったの?」


 八重は故郷に帰ると言っていた。それで落ち込んでいるだけなら、蛍助はここまで追い詰められてはいないだろう。

 それとも、八重が離れてしまったことがそんなに寂しかったのだろうか。胸がこんなにも痛む理由が分からない。八重が蛍助の名前を口にする度に、蛍助が八重の名前を呟く度に、胸の奥が締め付けられる。

 醜い恋心を振り払って、鈴紅は蛍助の言葉に真剣に耳を傾けた。


「八重の村には、霊力の高い巫女を生贄にする儀式があるらしい。八重の親は、八重を村から逃すために、霧の部族に送ったそうだ。八重は、殺されてしまうかもしれない」


 凶作が続く理由は神が贄を欲しているから、神への捧げ物は村を守ってくれるなどとおかしなことをほざく人間共は山ほどいる。中でも、神に近しい存在である巫女の八重は、尚更贄にされやすい。

 八重の家族から文が届かなくなった理由は、八重を逃がした罪を背負わされてしまった可能性が高い。


「探しに行こう」


 話を聞いてすぐに、鈴紅は蛍助に手を差し伸べた。たとえ、八重も蛍助のことが好きだったとしても、八重を助けることに迷いはない。

 "それで蛍助が喜ぶならば"、なんて綺麗な言葉を発するつもりもない。


「蛍助、一緒に八重さんの村に行こう?」

「文月…」


 金音は、蛍助が鈴紅にとってどんな存在なのか悟った。前に、鈴紅は誰かに恋心を抱いていると教えてくれた。その相手が人間だとすれば、鈴紅はさぞ心を痛めたことだろう。


「お待ちください、文月様」


 ずっとそばにいた金音にすべきことは、鈴紅を守ることだ。


「何故、人間に手を差し伸べるのですか?」


 人間に対して明らかな嫌悪を示す金音。しかし、鈴紅は金音を責めはしなかった。


「何でなんだろうね…多分、好きだからだと思う、蛍助と八重さんが」


 

 蛍助のことを好きだと言ったことに悔いはない。たとえ蛍助が別の女を求めていたとしても、鈴紅が蛍助を想う気持ちは変わらない。そして、八重のことも好きなことに変わりはない。


「金音、私は蛍助と一緒に行くから、屋敷をお願いね」


 金音の瞳は揺れていた。大切な主だ、今すぐ鈴紅の袖を引き止めたいだろう。

 誰かを救おうとしている鈴紅の横顔は今までで一番逞しく、美しい。金音は止める気にはなれなかった。


…………


 まるで他の集落から隔離されているように孤立した村。

 八重は、驚愕の表情でもぬけの殻となった自分の家を見つめていた。ゆく先々で村人たちにジロジロと見られていたのは、自分が生贄の候補者だからだと思っていた。けれども、何故家族が居ないのだろう。


「よう帰ってこれたな」


 背後から嫌味ったらしく声をかけられて、八重は振り返った。村の男がまるで汚れた物でも見るかのように八重を睨んでいる。

 八重は震える唇を何とか動かして、男に問いかけた。


「父と母は…弟と妹は…」

「はあ?」


 男は思い切り眉間に皺を寄せる。


「お前さんが逃げたけん、親が代わりに贄になったったい」


 八重の目が見開かれる。


「贄? 儀式は冬に行われるのではないのですか…!?」

「なんばいいよっとかこん娘は。此度の儀式は秋たい。お前さん、あの親に何を教えられたとね。それとも逃げたことへの言い訳か!!」


 八重の親は、八重を逃がすために徹底的に嘘を教えてきた。生贄の儀式が冬にあると教えて霧の部族に預けることで、八重が儀式の時に村に訪ねて来ることがないからだ。

 知らなかった八重は、突然のことに困惑し、必死に首を振る。きっと、どこかで両親は生きているはずだと信じて、男に家族の居場所を尋ねた。


「父様と母様が、死んだなんて……では、弟と妹はどこに……!」

「知るか。お前さん、恐山に修行に行っとる間に言の葉まで変わっとるな。完全に村を捨て去るつもりだったか」

「そんなつもりはありません、本当に知らなかったのです!」


 声を張り上げても、男は鼻で笑い返すだけだった。


「そんなら、とんだ親不孝もんだな」


 男の言葉が八重の腹を突き刺す。硬直する八重に相変わらず鋭い目を向けて、男は立ち去った。

 八重は知らぬ間に両親が犠牲になっていたと知り、その場に呆然と立ち尽くす。


 ──父様、母様、どうして教えてくれなかったの。どこに行ってしまったの。



 八重は慌てて村のまとめ役である老女、椿の家を訪ねたが、玄関で早々に土をかけられた。


「今更、何しにきた!」


 袖で自らを庇い、八重は慌てて椿に頭を下げる。


「椿様…父様と母様は、どこですか?」

「村の裏切りもんが何しにきたて言っとる!」


 老女のしわがれた声が村に響いた。八重は唇を噛み締めて、地面にひれ伏す。顔も着物も泥だらけになりながら、八重は必死に家族の行方を聞き出そうと試みた。

 だが、椿は目の前で土下座をする八重に向かって再び土を投げつけると、怒鳴りつけた。


「こげな娘がわしの血を引いてるはずがなか! あんたがこの村ば捨てたけん村の神様はお怒りたい! あんたの親が死んだのもあんたのせいたい!!」


 この村にとって、巫女は重要な存在だ。八重の家族も巫女だったが、八重だけが飛び抜けて霊力が高かった。神に一番近しいと称され、八重は村人に将来の贄として見られていた。

 椿は八重の遠い親戚であり、もちろん巫女だ。故に村の掟には厳しく、八重の行いを簡単に許すはずがない。


「申し訳ございません…私は…」

「申し訳ないと思っとるならそれ相応の罰を受けないといかん」


 八重は目を大きく見開き、目の前に迫る土を見つめたまま固まった。償いとは、傷つけられた者が納得するまで課せられる。八重は幼い頃から椿からそう教わってきた。今から、八重は死ぬほど辛い罰を与えられるのだ。


「八重、この村の巫女に生まれた女は、罰を恐れたらいかん」


 椿の厳しい口調が、孤独となった八重に恐怖を与え続けた。


…………


 一方蛍助は、鈴紅の専用の天駆ける牛車に乗って嬉しそうに声を上げていた。


「これなら八重の村まですぐだな!」

「あまり顔を出さないで、危ないから」


 嬉しそうに子供みたいな笑みを浮かべる蛍助の横顔を見つめて、鈴紅は物憂げに俯く。



 人間と共に人間を救いに行くことに関しては、金音は許してくれた。だが、屋敷を出る前に、こんなことを言われた。


 ──好きな人が他の女を追うのに、協力するのですか。


 その問いに答えることが出来なかった。金音は、もしかすると嫉妬に駆られた鈴紅が蛍助の邪魔をするかもしれないと思っていたのだ。いくら好きな人に幸せになって欲しくても、恋敵の有利になるようなことを進んでしたくはないはずだと。

 しかし、金音と鈴紅の考えは全く違う。鈴紅は好きな人と恋敵の仲を取り持とうなんて思っていない。妖だからと偏見を持たずに好意的に接してくれる、優しい友を助けたいだけだ。金音にも、いつか分かるはずだ。


「蛍助…」

「なんだ?」


 蛍助は優しく微笑んで振り返った。鈴紅は両手を組んで視線を彷徨わせると、言いにくそうに赤い唇を動かす。


「私、あの時、あんなに酷いことを言ってしまって…」


 蛍助に求婚された時、拒んで、その場から逃げ出してしまった。蛍助の名誉も何もかも否定してしまったあの瞬間から、鈴紅の中に後悔の念が渦巻いている。山姫に侵されていた廃村で再び会った時には、謝ることも出来なかった。

 八重を一緒に助けに行くことになった今、このもやもやを消しておきたい。


「良いんだ、俺が悪かった。嫁に行くのに、あんなこと言われちゃ困るよな」


 蛍助は申し訳なさそうに苦笑する。

 彼は鈴紅のことを分かっていない。鈴紅は、蛍助に好きだと言われて嬉しかったのだ。このまま何もかも見捨てて蛍助の手を取れていたなら、どんなに幸せだっただろう。


「違う、私が悪い。ごめんなさい」

「文月は悪くないって。良かったな、嫁入りなんて、めでたいじゃねえか」


 蛍助はぎこちなく笑った。鈴紅は眉をひそめて俯くと、蛍助から視線を逸らす。

 姉の仇と強制的に結婚させられることの、どこがめでたいのだろうか。蛍助は眉間に皺を寄せる鈴紅を訝しげに見つめた。


「もしかして、嫁に行きたくねえのか?」


 その通りだ、行きたくない。心の底から憎んでいる男の妻になどなりたくない。蛍助に優しく問いかけられて、鈴紅の本音が出そうになる。

 周りにいる者たちを思って押しとどめていた感情が爆発しそうになる。

 鈴紅は僅かに眉を寄せて、小さく呟いた。


「行きたくない。相手のこと、好きじゃないから」


 天駆ける牛車の簾や物見は、風の唸り声を完全に遮断し、それが余計に牛車の中の静けさを際立たせる。

 蛍助の沈黙を利用して、鈴紅は思うがままに話し続ける。


「私は、私の姉を殺した男の妻になるの」


 鈴紅は全てを諦めているかのように、物見の隙間から見える風景をぼんやりと見つめている。

 自分の身内を殺した男と強制的に結婚させられるなど、なんて残酷な話だ。蛍助はふつふつと湧き上がる怒りを押さえられずにいた。


「何故そんな男がのうのうと生きている」

「決まってるでしょう。あの御方は、鬼神の頭領、妖の頂点だから」

「脅されてるのか」

「そうね。これは私が私自身の命を守るための結婚になる」


 周りの勝手な判断で殺したいほど憎んでいる男の伴侶になってしまう惨めな気持ちを、時折どこかにぶつけたくなる衝動に駆られる。

 しかし、鈴紅には心に溜まったものをぶつける対象がない。例えどんなに理不尽で不条理なことが舞い降りてきても、それを払い除ける権利は与えられない。

 好きなことを好きなだけ出来るなんて、本当に羨ましい。欲しい、すごく欲しい。


 ──自由が、欲しい。


 雨に打たれる烏は、水分を多く含んだ羽の重みのせいで、そのうち地にひれ伏して動かなくなるのだ。

 それが鈴紅の末路だ。


「文月、だったらずっと人の元で暮らせば良いだろう?」

「暮らせない。大切な者たちがいるから。自由を望んではいけないの」

「なら、俺はあんたの自由を望む。俺があんたを救う」


 鈴紅は紅の袖の中で、ぐっと拳を握る。蛍助に鬼の姿を見せたくなくて上手く人に化けていたのに、いつの間に術が解けていたのか、握った拳は血管が浮きでて、爪は鋭く尖っていた。


「蛍助、あなたは勇気ある立派な人。だけど妖の国に足を踏み入れようなんて考えないこと」

「なら、誰があんたを救うんだ」

「あなたは優しすぎる。蛍助、何もかも救うことなんて出来ないんだよ。川の中の砂を両手ですくっても、必ず何粒かはすくいきれずに流されてしまうもの」


 納得いかない表情の蛍助に、鈴紅は悲しく微笑みかける。


「私もその小さなひと粒ひと粒を全てすくいたくて、一生懸命冷たい川に手を突っ込んできた。でも、川の流れが速すぎて叶わなかった。自分が本当に救えるものは限られているの」


 砂は自分が救いたい大切なものたち、冷たい川の水は容赦なく流るる時と運命。

 救えるものには、真に限りがある。大切だからといっても、いつまでも一緒にはいられない。そばにいられない時だってある。救うのに十分な力が足りないこともある。都合よく何でも救えていたなら、きっと鈴紅は姉を死なせなかっただろう。

 それに鈴紅が殺めてきた命も、失われることはなかっただろう。


「大丈夫だよ、蛍助。私は今まで上手くやってこれたから。きっと、これからも…何とかなるから」


 根拠はない。自分が幸せになれる自信もない。こんな情けない答え方しか出来ない自分が愚かしい。

 蛍助は、鈴紅の笑みを見つめて、眉間に皺を寄せた。


………………



 闇夜に浮かぶ月明かりの下、巫女、八重は愕然としていた。

 八重の両親の遺体は、深く掘られた大きな穴の中に放り込まれていた。赤い紐で手首をきつく縛られ、白い布で目隠しされたまま、八重を見上げている。


「父上…母上……」


 いつものように呼びかけても二人は黙り込んだままで、月明かりと松明を頼りによく見ると、虫がたかっている。血の気の引いた白い肌、本当に死んでいるんだと実感した途端、八重は黒く鋭い感情に初めて対面した。

 椿や村人の声がぼそぼそと聞こえてきたが、構わず動かない両親を見つめた。弟妹たちの姿が見当たらない。きっと両親が死ぬ前にどこかへ逃がしたのだろう。


 ──探さないと…。


 立ち上がろうとした八重の肩を、男たちが掴んで、八重の目の前は真っ白な布に覆われた。


「離して!! 探さないと、あの子たちが泣いてる!」


 どこかで弟妹たちが泣いている気がする。早く駆けつけて、頭を撫でてやらないと。

 村人はもがく八重の両腕を、赤い紐で縛りつけて、三人がかりで押さえつける。


「静かにせんかい、紅壱あかいち様がいらっしゃる」


 紅壱様とは、この村を長らく守護している神。最上級に霊力の高い巫女を捧げることで村を守ってくれる存在だ。

 八重の背後で、金の擦れる音がシャランシャランと鳴り響く。何故、両親の遺体には土もかけられず、そのまま放置されていたのか。それは、この後すぐに娘の八重が放り込まれるからだ。

 椿のお経を唱える声が聞こえて、紅壱様を呼び出す儀式が 始まった。

 村人たちは未だ騒ぐ八重を押さえつけて、いい加減にしろと怒鳴りつける。


 椿の経と村人の怒声と八重の悲鳴がごちゃごちゃになって闇夜に響き渡る。


 耳を塞ぎたくても腕を動かす自由さえも与えられない。恐怖と憎悪が八重の体を駆け巡る。

 視界を奪われても尚、弟妹たちはどこにいるのかと探し続ける八重。


「待ってて、すぐに探し──」


 ガツンと、後頭部に衝撃が走る。硬くて重い何かに思い切り殴られ、八重の思考が停止する。

 一気に熱を帯びた頭を労るまもなく、背中を思い切り押されて穴の中に真っ逆さまに落ちていく。土の上に体が叩きつけられ、その拍子に目隠しがずれて上を見た。

 八重頭を殴りつけ、穴に突き落とした村人たちが八重を見下ろしている。


 ──月が、綺麗だった。


 右に父の遺体が、左に母の遺体がある。暗くて寒くて、恐ろしいけれど、死ぬまで自分を守ってくれた両親に挟まれて、少しだけ安心する。


「と、父さん…母さん……」


 掠れた声で、腐りかけている両親を呼んだ。


「ごめんね……いたかったね……松之助、竹秋、恋梅は探しに行くからね……私はお姉ちゃんだから……」


 何か言ってみれば、返事をしてくれるかもしれないなんて、どうして今こんな馬鹿なことを考えつくのだろう。


「土をかけろ!!」


 上から村人の声が降りかかる。


 ──許さない…。


 ずれた布の隙間から見える、八重の憎しみに満ちた目が、村人たちをしっかりと捉える。

 八重と、両親の体に土がかけられた。それから顔に、降りかかる。土の味がした。


「許さない…許さないからな……」


 八重は掠れた低い声でそう言った。視界が土色で埋まっていく。


「私の父と母を…兄弟を傷つけた、お前たちを……許さないからな」


 八重の声が聞こえていないのか、村人たちはせっせと土をかけていく。

 目も耳も、何もかも土で塞がれていく。薄れゆく意識と対比して、憎しみはどんどん膨れ上がり、覚醒していく。


「……?」


 ふと、村人の手が止まった。


「椿様! 何か妙なもんが巫女の周りを囲っとります」


 椿は顔を顰めて、あともう少しで埋まる大穴を見下ろした。


「いかん、儀式は失敗じゃ…」


 椿の言葉に村人全員が動きをピタリと止めて、大きく目を見開いた。


「もしや、紅壱様がお怒りに……」


 村人の一人が穴の中を覗き込んだ直後、穴から大きな鉤爪が現れ、村人の四肢をばらばらに引き裂いた。

 恐怖におののく村人たちは、濃い瘴気を纏いながら這い上がってくる巫女を凝視する。


「なんてこと…八重、お前、紅壱様を食ったのか……!!」


 頭から血を流した八重が、闇を引連れて不敵に笑う。


「逃げろおおおお!!!」

「儀式は失敗だ! みんな、逃げんと! 早う!」


 村人たちは一斉に駆け出した。一人残された椿は、化け物と化した八重を睨みつけて、数珠を持った両手を合わせる。


 恐らく、八重は歴代の贄の中でも最も力が強く、本来は食う側である紅壱様を逆に食らってしまったのだ。

 紅壱様を体に宿した巫女など、もはや誰にも止められない。

 椿が経を唱えると、八重の体に透明の鎖が巻きついた。村人たちが逃げきるまでの時間稼ぎだ。ついでに鳥居に結界を張り、八重がこれ以上進めないようにと椿は渾身の力を込めて唱え続ける。

 しかし、八重は椿の鎖をいとも簡単に引き裂いてしまった。


「八重、お前は、強くなりすぎてしまった……」


 力の反動でしりもちをつく椿を、八重は濁った灰色の瞳で見下ろす。

 見下ろされるのが屈辱だったのか、椿は眉間に皺を寄せて奥歯を噛み締めた。


「八重、お前は最初から人ではなかったのじゃ」


 八重を貶める言葉を最期に、椿は一瞬にして首の血管を切られ、死亡した。


 村の奥にある鳥居から闇が広がり始め、村の女たちは我が子を抱えて村の外へと一目散に駆け抜ける。男共が慌てて仕切りを作るが闇は抑えきれず、八重がすぐそこまで迫ってきていた。

 闇は空全体を覆い尽くし、村を飲み込もうとしていた。逃げきれなかった者は闇に取り込まれ、溶けていく。その光景はまるで、地獄のようだった。

 地獄の中心に立つ巫女は、穏やかな微笑みを見せる。


「──食われたからなんだと言うの?」


 八重ではない何が、八重の声でそう言った。


「この巫女の力が強すぎて食われてしまったけど、おかげで体を手に入れた……」


 八重の体の中に宿る恐ろしい存在が、うっとりとした表情で八重の輪郭をなぞる。

 すぐそばで、男が怯えて腰を抜かしている。男は八重の姿を目にした途端、ガチガチと歯を鳴らしながら、震える声で叫んだ。


「あ、ああ、紅壱様の…怒りを買うからだ……巫女の務めも果たせん子娘があっ……!」


 威勢のいい餌だ。巫女は微笑んで、男の元に歩み寄る。腰を抜かしたまま後退る男の胸ぐらを掴んで、巫女は囁いた。


「私こそ、お前たちが崇めている紅壱様だよ。紅壱って名前はね、」


 紅壱は話の途中で、男の腹を素手で貫き、抉りとった血の塊を緩やかに舐めた。


「私の大好きな血の色からきているんだよ」


 既に事切れている男の胸ぐらを静かに離すと、闇に葬られた村を見回す。紅壱は数百年ものの間、巫女を食い続けてきた。

 紅壱を取り囲む大量の瘴気は、村の贄となった巫女たちの未練や怨念から出来たものだ。

 村には、もう二度と朝日は昇らない。


………………



 火ノひのいち村は、八重の生まれた村の名前だ。

 紅壱様に乗っ取られた八重が大虐殺を起こした次の日、鈴紅と蛍助が村に辿り着いた。

 蛍助と鈴紅が意を決して村に足を踏み入れた時、茂みから声がかかった。


「蛍助さん」


 そこには、先に村に来ていた霧の部族の者が身を隠していた。


「早く、逃げてください……」


 蛍助は男の元に駆け寄ると、何があったと話しかけた。男は血塗れの体を庇いながら、蛍助を見上げる。


「村の奥に、化け物がいます。あの強さは異常……今まで戦ってきた奴らとは桁違いだ……」


 男は顔を顰めて、血を吐き出した。どうやら、その化け物とやらに攻撃を受けて深い傷を負ったようだ。

 鈴紅は屈んで男の傷の様子を見たが、手遅れだと悟った。


「この先に、八重がいるのか?」


 蛍助は村の奥の闇を見据える。その隣で、鈴紅は何か異様な気配を察知して眉をひそめた。


(強い瘴気…人間には耐えられないかもしれない……)


 このまま蛍助を行かせて良いのだろうか。鈴紅が不安げに蛍助を見つめていると、血反吐を吐きながら男が悲しげな表情で首を振った。


「あれは、もう八重さんではない…」


 男の言葉を聞いた瞬間、蛍助と鈴紅は同時に目を見開く。


「何だ、何があったんだ!」


 しかし、蛍助の問に答える前に、男は静かに息を引き取ってしまった。

 蛍助は村の奥を見据えて、唇を噛み締める。


 ──八重、そこにいるのか。


 蛍助はどう見ても行く気満々で、鈴紅の不安は募るばかり。恐らく、これから奥に潜む闇と二人で戦うことになるだろう。


 その時は、蛍助を守れるのだろうか。


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