特別棟・東階段
真新しい校舎は、どこにいっても木の香りがした。
ステンドグラスの大窓から陽が射し、長い廊下を虹色に照らしている。望む中庭では、用務員のおじさんが除雪作業をしていた。新雪はまぶしいほどに純白で。
すべてがここを“聖なるもの”に仕上げている――そんな気さえする。
わたしは走っていた。
聖なるものから逃げるように。特別棟の東階段。あそこなら、昼休みでも人気がないはず。わたしだけの秘密の……
「ひゃうっ!」
でも、今日にかぎって先客がいた。
驚きすぎて変な声をあげてしまう。階段の中段に座りこみ、いなり寿司を食べているのは、若い男性だった。男――!?
私立ゴドウィン女学園にも、少数だが男性教員はいる。けど彼に見覚えはないし、そもそも恰好が先生らしくなかった。スーツでも体育用のジャージでもない、セーターにジーンズという服装で、大学生のようにも見える。校舎にまぎれこんだ変質者……?
と、とりあえず通報しよう。すばやく回れ右をした――
「待って……待ってください!」
が、呼び止められてしまう。
わたしが小脇にかかえたランチボックスに目ざとく気づいたようで、
「お弁当を食べにきたんですね。この場所は譲りますから、僕がどこかに行きますから! さ、さあ、どうぞ」
慌ただしく身の回りを片付けはじめた。
相当あせっているのか、もともと不器用なのか。手つきがおぼつかなく、重箱から飛び出たお稲荷さんが階段をころりんと転がった。
「ああっ」
色白で細面な輪郭といい、どことなくキツネに似ている。
寿司を拾うと、ヘコヘコしながらわたしの横をすり抜けようとしたが、はっとしたように立ち止まる。
「大丈夫ですか」
高い背をかがめ、わたしの顔を覗きこみ、
「なんだか……幽霊でも見かけたような顔ですよ」
「――ユーレイなんかじゃない!」
弾かれたように叫ぶと、キツネ似のお兄さんは、腰を抜かしてその場に尻もちをついた。
*
「つまりこういうことですか? あなたのケータイに見知らぬ相手からクイズ? が送られてきた。回答期限は本日の午後四時まで」
正体不明の不審者に相談しちゃった。
彼独特のゆるい雰囲気に流されてしまったというのは言い訳か。なんだかもう、どうでもいい……。
投げやりにスマホを渡すと、他人のプライベートを覗くのに抵抗があるのか許可を求めるように見てきたので、軽くうなずく。
「――はぁ。まるで、小説のようですね、これは」
読み終えたお兄さんは、夢からさめたように溜息をついた。長すぎるメッセージは数回に分けて送られてきていた。
「主人公の萌絵さんとは、いったい誰なのでしょう」
「二年A組の世津ケ谷萌絵さんだと思います」
「学園の生徒さんですか?」
「期末テストの前日に、自宅の階段から落ちて骨折したそうです。塾から帰宅した妹が救急車を呼んだとか」
「まさか、この物語は実際にあったことだと……?」
わたしは首を横にふる。
確かめようにも萌絵さんは入院中で、イタズラメールの真相を知るためだけに、病室を訪ねるのはさすがに気が引ける。
低くうなったお兄さんは再びディスプレイに注目した。
「クイズというのはこれかな――『妹の部屋のドアを開けたのは、なにか?』」
「かごめ」
わたしは、決めつけるように言った。
「答えは、アカウント名の『かごめ』です。
最後の『うしろの正面だあれだ?』って、童謡かごめかごめの歌詞でしょ。くだらない言葉遊びですよ。返信しようとしたらクラスメイトに止められました。本当の呪いだったらどうするの、って」
友人たちはとても心配してくれて、生徒会か先生に相談したら、とも勧めてくれた。とくに〈奇跡研究会〉という怪しげなサークルに所属しているルームメイトの食いつきようは凄かった。そんなマジメで親切な彼女たちにドン引きして、わたしは「ありがとう」とだけ返し教室を飛び出してきたのだ。
卒業した小学校のクラスメイトなら、と思う。ふざけて脅すか、一緒に笑い飛ばしてくれたのに……。
「わたし、中学からここに編入したんです。こんな容姿だし、馴染めなくて」
分厚いメガネの下にある、鼻のそばかすに触れる。
生徒のほとんどが幼稚舎から持ち上がりというカトリック系ミッションスクールは、編入生のわたしにとって“別世界”だった。もうすぐ二年生になるのに、まだ、聖なる学園に溶け込めずにいる。
「う~ん」と困り顔のお兄さんは三段下に座るわたしに、
「まあ、お友達が心配するのもわかりますよ。文面からして、萌絵さんも〈かごめ〉からメッセージを受け取っているようです。実際に階段から落ちてケガしているわけだし」
「じゃあどうすれば?」
唇をとがらせる。
行きがかり上、話を聞かざるを得なかった彼は「うっ」と言葉をつまらせた。
「もしかすると――〈かごめ〉以外の正解があるのかもしれません」
キツネのような目が妖しく光る。長い舌が口元についた米粒をひろっていった。
「問題の『ドアを開けたのはなにか?』とは、ちょっと、不自然な表現ではないでしょうか」
いきなり何を?
眉間のしわを深くするわたしに、お兄さんは穏やかな口調で続ける。
「答えが『かごめ』という名の人物にしろ幽霊にしろ、普通は〈何か〉じゃなくて、〈誰か〉でしょう。なぜ〈誰か〉じゃなくて〈何か〉なのか――? 正解は、人でも物でもないのかもしれません」
人でも物でもない……?
ますます顔をしかめるわたしに意味ありげに微笑む。
「ヒントは、妹さんの部屋を飾りつけていたことと、室内を暖めていたこと。これらから推測できるのが――あ、予鈴ですね」
そして、さも当然のように、教室に戻るよう促した。
「放課後ここにいます。答えがわからなかったら訊きにきてください」
謎のキツネ似のお兄さんは、平和な笑顔で見送ってくれた。けっきょく誰だったんだろ……。
*
六時限目の授業と清掃を終えて、わたしは例の場所へ向かった。
彼は昼休みと同じポジションにいた。違ったのは、お重の中身がいなり寿司ではなく、さくら餅だったことだ。おやつタイムか。
「あ、いらっしゃい。おひとつどうですか……!」
わたしを見たとたん、絶句して餅を取り落とした。さくら餅が階段をころりん転がる。
「ど、どうしたんですか。また何かありましたか」
よほどヒドイ顔をしていたのか。おどおどと尋ねられる。
「――〈かごめ〉から、またメッセージが送られてきました」
むすっとしたままSNSを起動させたままのディスプレイをかかげると、彼の表情が一変した。
『大人に相談したペナルティ。追加問題あり』
昼休みの終了間際に届いたメッセージである。
「この大人って……」
「タイミングからして、お兄さんのことだと思います」
わたしは彼以外の大人に相談などしていないのだから。
「そ、そんなぁ……さっきの光景が誰かに見られていたのかなぁ」
お兄さんとわたしは今さらのように周囲を見渡す。
文化系サークルの活動場になっている特別棟も、今日はしんと静まり返っている。帰りのHRで、教員研修のため部活動は休み、と連絡があったっけ。
「で、追加問題とは?」
ごくりと唾をのんだ彼に、わたしはスマホを差し出した。
それは、また、誰かの怪談じみた物語だった。