37.「誰も彼もが自分勝手すぎる」
ダメだ。
金光坊の眼はあらぬ方向を向き、狂気に心を奪われている。彼はけっきょく、渡海から生還することなく、地獄に落ちたにちがいない。
「あんなところに送り込むとは許せない。おまえもこうしてやる」
金光坊が両手を広げ、跳びかかってきた。
小賦は首をしめられた。
そのままうしろへ押し倒された。
妄執の僧侶がその上に馬乗りになる。
だらしなく舌をたらし、サディスティックな表情を浮かべて小賦の首をしめつけてくる。
「このうえにおいては、ヒヨッコのおまえも殺し、復讐してやる。なにもかも破壊してくれよう。私を渡海に出した恨み、おまえの一身にぶつけてやる」
「あぐぐぐぐ……ッ、なんで……」
「どうだ、死ぬのは怖いだろう? 殯ごと海に沈んでいくのも怖くて、苦しいぞ」
「く、苦し……」
「おまえは私を送りだした罪人の代表だ。庶民どもは勝手に己の苦悩を押しつけてくる。そのくせ渡海上人が死んだことなぞ、半年もすれば忘れてしまうではないか。誰も彼もが自分勝手すぎる。おまえだって自分勝手なんだろ? ならば死ぬに値する」
「な、なんでいつも……代表にされなきゃ……」
小賦はかつて、オブジェのように空っぽの箱だった。殯そのものだった。意思をもたない死体を囲った棺。
いまこそあたしは、殯の箱を突き破らなくてはならない。いつまでも柵に囚われていてはダメだ。
だからとはいえ、金光坊の腕力にはかなわない。
ずんぐりと盛りあがった二の腕は、まるでワイヤーを束ねたようにたくましい。
この力を払いのけるほどの底力は、いまの小賦にはなかった。
ああ、直綴姿の祐遍よ、どこへ行ったのか。
いま、眼の前にのしかかっている金光坊はおなじ恰好なのに、彼の優しさとは天と地の差があった。
殯の船。すき間だらけなので、白い光が入り込み、格子状の縞模様になっている。
靄まで立ち込め、光と闇の迷彩色となって、金光坊が浮かびあがっている。
その老人に馬乗りにされたうえ、両手でぐいぐい首をしめられていた。
残酷な場面なのに、小賦は薄れゆく意識のなかでも、それが美しいとすら思った。
小賦は脚をばたつかせて抵抗した。
草鞋が床に当たると、バンバン音がした。
金光坊が小賦の首をしめる、ギュッギュッという生々しい音が聞こえた。口から気管支炎にかかったときみたいな息が漏れる。だらしなくよだれが垂れた。
馬乗りになった金光坊が腰をふって体重をかけてくる。
両眼を見開き、歯を食いしばっている。二人の身体は淫靡な秘めごとのように揺れ動き、床がリズミカルにきしんだ。それはまるで男女の夜の営みにも見えた。
涙があふれ、視界いっぱいに広がる金光坊の顔に紗がかかり、二重に見える。
息ができない。
さっきの海中では呼吸ができたのに、こっちは本物の苦しさだ。
早くなんとかしないと、殺される。
このまま金光坊に殺されたら、ぶじ現実世界にもどれるのだろうか? イレギュラー的な死に方は認められず、へたをすればほんとうに地獄に落ちてしまうのではないか……。
そのときだった。
「オブどの」と、頭のなかに直接語りかけてくる声があった。「オブどの。気をたしかに持たれるのだ」
「ゆ、ゆうへん……?」
「よく聞くのだ、オブどの。頭陀袋のなかだ。武器となるものがある。それで己が煩悩を断ち切れ」
どこからともなく祐遍の声が響きわたった。
小賦は思い出した。
旅装姿の金光坊のおなかに巻いた頭陀袋。いまで言うポシェットに、たしか――。
首をしめられながら袋に手を突っ込み、探りあてた。
柄をつかみ、取りだした。
一瞬、ためらった。
いまは金光坊に肉体を奪われているとはいえ、もとは祐遍の身体だ。
なまじ傷を負わせれば取り返しのつかないことになるのでは――。
「オブどの、ためらうな。やるのだ」
祐遍の声がした。
もはや四の五のためらっている状況ではなかった。視野が急速に赤黒く染まり、ろくに息もできないのだ。
はやく決断しないと――死ぬ。
眼をつぶり、金光坊の首に斬りつけた。
いやな手ごたえがあった。
「うがあああああああッ!」
金光坊が羆のように吠えた。
切り裂かれた首をおさえ、うしろにのけ反った。
首からイカスミみたいな黒い体液がまき散らされた。
小賦は草刈り鎌を手にしていた。
鎌の刃は、べったりと濡れていた。
ようやく首じめから解放された。




