32.嵐――「これって、完璧な死亡フラグだ!」
「あ痛!」
眼をさましたと思ったら、体勢をくずし、左の壁にしたたか頭を打ちつけた。
また右へ身体ごと揺さぶられ、こんどは肩からぶつかった。あまりの痛さで眼の前に星屑が散った。
「なにこれ、なにこれ、なにこれ! いきなり、なんなのよ!」
ただごとではない。
箱の外で大波の砕ける音がしていた。
派手に船内が傾き、まわりの壁がいやなきしみをあげている。
祐遍が小賦の手をつかんで、
「観音菩薩は私たちが自死するのをためらっているので、みずから手をくだしにこられたようだな――嵐だ」と、言った。
「ずいぶんとせっかちなパワハラ上司なんだね。大時化なの?」
「いままでが順調よくいきすぎたのだ。これが本来の自然の姿なのだ」
蛇みたいに波濤が渦まき、海が生きとし生けるものすべてを噛み砕いてやると牙をむいていた。
狂っているのは風。
乱れ飛ぶ雲は早送りされた映像のよう。
空と大地でタッグを組み、研磨し、なぶり、打ち砕き、なにもかも終局にするため、怒れる合唱団がでたらめなハーモニーを奏でていた。
雨が容赦なく斜めにふりしきり、大波との相乗効果で海上に漂うすべての漂流物を砕いて沈めてやろうと、狂気の歯ぎしりを見せていた。
祐遍と小賦には知る由もなかったが、渡海船のはるか向こうには大型の竜巻が二つ発生していた。たがいに牽制し、ぶつかりあうコマ同士のように、きりもみしながら迫りつつあった。
板子一枚をへだて、下から波が突きあげてくるのが体感できる。
船がバウンドし、海面に叩きつけられた。
衝撃で尻が浮いた。
いまの一撃で、よく船が大破しなかったものだ。
小賦は風のすき間から外をのぞいた。
怒涛が高々とうねっていた。この船をまる飲みしてやろうと挑んできた。
波しぶきが放射状に散った。容赦なく潮水が船内になだれ込んでくる。
この世の終わりみたいなありさまだった。
海が巨大な顎を開き、白い牙で渡海船を押しつぶそうと襲いかかってきた。
風が全方向から狂い乱れて吹きつけ、空からは槍の束を乱れ打ちするかのごとく豪雨が降りしきる。ちっぽけな二つの命をのせた笹舟同然の木っ端をメッタ打ちにした。
外でバリバリと、なにかが裂ける音がした。
入り母屋型の屋根が破損したか、鳥居のひとつでも折れたのかもしれない。
船内は潮水やら雨水やらで、たいへんなことになっていた。
次々と波頭がぶつかるたびに、殯の箱が砕かれていく。屋根がはがれ、空の一部が見えた。左の壁も根こそぎ持っていかれた。
まさに生きるも地獄、板子一枚下も地獄だった。もはや生還はありえない。
「観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄……」
「だから、念仏唱えたところで、なんの慰めにもならないって!」
小賦の三半規管は烈しく揺さぶられ、気分が悪くなった。
祐遍の直綴に、未消化の十穀を吐いた。
ふいに小賦は、渡海に行く直前のできごとを思い出した。酒谷川での別れの場面がまぶたに再現された。
欲望の塊となって二人にせまる民衆――。
『妻をいっしょに観音浄土までつれてってくだされ!』
『あたしのリュウマチの痛みもいっしょに持っていっておくれ!』
『親父を殺した罪も負ってってくれ』
『ちくしょう、おれだって観音浄土へ行きたかった。なぜ御仏はおれを選ばなかった……』
『こんな暮らしいやだ。さっさと死んで裕福な家に生まれ変わりたい!』
『あんな夫と一生添い遂げるなんて、私はイヤ。祐遍和尚といっしょに行きたかった……』
「もうたくさんよ! なんで自分勝手な人たちの苦しみを背負って、こんなつらい思いをしなきゃいけないのよ。なんで……どうして!」と、祐遍の胸にしがみついた小賦が叫んだ。「こんな状態で、明鏡止水の気持ちになんて、なれやしないッ!」
外では黒々とした波が、どんぶり鉢を伏せたように盛りあがった。
渡海船が軽々と持ちあげられた。
生きた峠となって、船はゆっくりピークにさしかかった。
船首を下にして下り坂に傾いた。
小賦は船首側の壁の、破れたすき間から、はるか前方を見てしまった。
黒々とした奈落の底が、地獄の番犬みたいな狂暴な口を開けていた。
さすがにあそこに落ちればひとたまりもない。
「これって、完璧な死亡フラグだ!」
真っ逆さまに、ほぼ垂直の角度ですべり落ちていく。
地獄への急流すべりだ。
もうおしまいだ!
激突――。




