31.「明日、いよいよ決行する。――入水だ、オブどの」
なぜ祐遍がここにきて、極端に死を恐れ出したのか?
いくら南方海上を進もうが、いくら仏門で身を粉にして心を磨こうが、最初から観音浄土にはたどり着けないのは祐遍をもってしてわかりきっていた。単に結論を出しかねていたのだ。
二人は抱き合ったままだった。
「古来、多くの渡海僧が南方の楽土をめざし、はるか沖へ出ていったとあるが、じつは誤りがある」
「え?」
「下だ。観音浄土は海底にあるのだ。比喩ではない」
「海底って、竜宮城じゃあるまいし」
「浦島太郎の竜宮城も、言ってみれば異界を意味し、観念的な世界だ。歴代の渡海僧たちは、沖縄の金武の海岸に漂着した日秀上人は別として、ことごとくが海中にみずから没し、命を落としたのだ。自死行為と言えるだろう。だから観音浄土は南方の彼方になぞない。これ以上の時間稼ぎは無意味だ。そろそろ心を決めねばなるまい」
その顔は土気色になってげっそりとやつれ、そのくせ眼つきだけがギラギラしていた。
熊野那智山における補陀落渡海の場合、南方の沖をめざしたとされているが、渡海船が沈むまで船旅を続けた記録はひとつたりとも残されていない。
当然、渡海僧が死亡し、ましてや船が沈んでしまえば、仮に記録があったとしても回収はできないのだが。そういった目撃譚すらないのが現状であったのだ。
あくまで後世の人が、南方をめざして大海を風に吹かれるがまま漂流したのではないかと、推測したにすぎないのだ。
たとえ南方をめざしたとして、那智の沖には黒潮が流れていた。
黒潮は東シナ海を北上して、トカラ海峡から太平洋に入り、日本列島の南岸に沿って流れ、房総半島沖を東に走る海流である。
この強烈な潮の流れは、漂流物を真南には流さない性質があるとして知られていた。黒潮にとらわれたぐらいなら、貧弱な渡海船などあえなく海中に叩き込まれた。
仮にどうにか生きながらえたとしても、強烈な離岸流となってはるか東へと押し流した。すなわち那智の浜から出航すれば、死は避けられないのはわかりきったことだった。
それゆえこの補陀落渡海は、暢気にユートピアをめざしたものではなかった。
那智の場合だと、本来は熊野灘沖に浮かぶ綱切島のあたりで、みずから海に飛び込み、自死したケースがほとんどだったはずである。
渡海を志願した僧や修行者は、千日ものあいだ、那智山で山籠もりしたとされている。
さらにこの荒行の次に、千日行と呼ばれる修行を重ね、死への恐怖を克服していった。そのうえで入水したのである。
「明日だ」と、祐遍が声をしぼり出した。「明日、いよいよ決行する。――入水だ、オブどの。ともに観音浄土にまいろう。そこで仏となるのだ」
「そんな……。自殺したところで救われるわけが」
いますぐ走って逃げたい気分だった。
とはいえ、船の上ではどうにもならなかった。それに、もはや気力体力ともに残されておらず、すべて投げやりになっていた。
ああ、そうでしょうとも、明日でこの命は終わる。それでもいいと思った。祐遍といっしょなら、死なんて怖くない。海中に没しようとも、二人手を取り合ったまま沈んでいきたい。
◆◆◆◆◆
その日の深夜、雷鳴がとどろいた。
天の巨大なドラムが、いきなりスティックでひと叩きされ、ついでバリバリと大木でも引き裂かれるような大音響がした。口笛みたいな風が吹くようになった。
しだいに波が高くなってきたらしい。
船が揺れた。
ここにきて、小賦は船酔いしはじめていた。
いつもの位置で小賦は膝を抱え眠っていたが、あまりの雷の大きさに眼をさました。
戸板のすき間から、ストロボを炊いたかのような稲光の閃きが見えた。
風が出ていた。が、まだ海はそれほど荒れてはいない。
小賦には内省するゆとりがあった。
いま乗っているのは、あたしの傷を葬り去った殯の船。皮肉にもブラックボックスにしまった過去に、みずから閉じこめられているとは。
心の痛みを殯の箱に封じこめ、大海に送り出したはずだ。初盆の灯篭のように。
それなのに、気づけば自身が箱のなかにいる。殯のなかの遺体になった気分だ。死者に感情があればの話だが。内向の極みと言えた。
闇のなかで眼のまえの影を見つめる。
それはしだいに像を結んだ。
膝を抱え、両腕に顔をうずめた顔。
眼だけが異様に光っている。
墨染の直綴姿で筋肉質の、あきらかに男の体型とはいえ、それは祐遍の顔をしていない。
その顔は小賦自身だ。
顔面が焼けただれたもうひとりの小賦が闇の向こうに座っていた。パッツンした前髪の自分自身が、見つめ返してくる。
やっぱり、この殯船はあたしの内面をえぐり出す鏡だ。
小賦は自分の悲鳴で飛び起きた。




