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30.「けっして雲の上の人なんかじゃない」

 いつしか祐遍のふところでまどろんでいた。

 眼を開けた。

 夜が明けたのか、白い光が箱のすき間から差し込んでいた。

 波はまるで揺りかごだ。


「祐は好きな女性がいなかったの。修行修行に明けくれて、異性なんか眼中になかった?」


 小賦は祐遍のふところに抱かれたままつぶやいた。


「仏門で真理をもとめるとき、女人にょにんに対する煩悩ぼんのうの炎とどう向き合うかが問われた。煩悩をなくせと申しているのではない。煩悩の虜囚りょしゅうとならず、すべての執着を手なずけたとき、悟りへの道が拓かれるのだと私は思うのだ」


「あたしには難しすぎる」


「いずれ、わかるときがこよう」


「話、蒸し返すけど、プラトニックな関係の人もなかったの? そんなに言い寄られたってのに、仏の道のため煩悩をおさえて、前に進んだってこと?」


「まったく好きな人がいなかったわけではない。だからこそ私は、仏道と女人との狭間はざまで苦しんだ。――だが、もうすんだことだ」


「いまは後悔してる? 女性をあきらめたことで」


「正直申せば」と、言って小賦の肩を抱く手に力をこめた。「私とて観音浄土へ行くには、心の準備が完全にできているかどうか、いささか疑わしい。こうしてオブどのの女体を抱いていると、むらむらと欲情が沸いてくるのだ」


「え」と、小賦は眼をまるくして半身を起こした。「なにそれ。藪から棒の宣言」


「同時に死への恐怖がさし迫っているのを身近に感じるのだ。これを見よ、ふるえがおさまらない」と言って、右手を出した。ぶるぶると、バイブレータみたいにふるえていた。「おぬしをなぐさめようと申しておきながら、むしろおぬしに抱きしめられ、このおののきをとめてほしいと願う自分がいる。人の身体とはおかしなものよ。肉体が朽ちようとするときこそ、かえって子孫を残そうと本能が逆らうのか、よけいに女人が魅力的に見えてくる」


「祐だって、怖いんだ」


「むろん怖い。なかなか人は、明鏡止水の境地にはなれぬものだ。仮になったとしても、ちょっとした動揺であえなく崩れてしまったりする。かくも心の鍛錬は難しい」


「祐」と、小賦は言った。「なんだかんだ言っても、あなたも人間臭いじゃない。ちゃんと血が通ってる。いくらえらいお坊さんだからって、けっして雲の上の人なんかじゃない。あたしたちとおんなじ」


「はじめからおなじだ。私とて恐怖するし、判断に迷い、苦しみ、ときには女人が恋しいと思うことだってある。いけないことだろうか?」と、祐遍がただでさえ赤い顔を、ますます染め、顔を突き出した。「なあ、オブどの、いきなりで恐縮なのだが――おぬしと接吻させてもらえぬか」


「なぜに接吻。唐突すぎなくない?」


「なぜだか解せぬ。とにかく唇を重ねれば、私の迷いはやわらぐ気がする」


「だったら、重ねよう」


「相すまぬ」


 格子状の光のなかで、二人の影は溶け込んだ。

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