25.赤面法印の由来
油。
そして、たっぷり熱された鉄製の拷問器具。
小賦のなかでキリリと古傷が痛んだ。
これでは五分五分ではない。
火傷のことを祐遍に問えば、五年前に戸板でふさぎ、釘を打ち付けて封印したはずのブラックボックスから、黒い獣が出てきてしまうだろう。
煮えたぎるタールのような、黒々としたトラウマという名の獣が。
黒い虎。あたしのなかの箱は、死人をおさめた殯なんかじゃない!
「なにかと思ったら、これか」と、静かに言い、顔に触れた。ざらっと乾いた音がした。映画の特殊メイクなんかではないことはたしかだ。「観音浄土についての講義もそろそろネタ切れだ。ちょうど毛色のちがう話題となり、この船旅に変化をもたらすかもしれんな。よかろう。教えてやる。この件を問われ、私にやましいことなぞあるものか」
「だったら、よろしく」
「自身で言うのもなんだが……」
と、祐遍は前置きし、次のことを語った。
◆◆◆◆◆
祐遍和尚に関しては、くわしい記録は残されていないので誕生年からして曖昧である。
永禄年間(一五五八~七〇)、飫肥城下十文字横馬場に生まれたとされている。
若くして出京し、真言宗智山派の総本山智積院に学んだ。
その後、帰郷して願成就寺の僧となり、元和七(一六二一)年、田ノ上八幡神社遷宮の導師をつとめ、勝目氏庭園(県指定文化財)を築造したとも伝えられる。
この祐遍、かつては往来で女とすれちがえば、誰もがふり返るほどの美男子として知られていた。
剃刀をあてた月代さえも美しく、城下で托鉢をすれば、その読経の美声ぶりに引き寄せられ、辻のあちこちで娘や人妻に待ち伏せされるようになった。
直綴の袖を引かれ、恋文を袂に入れられたり、挙句の果ては寺にまで忍び込まれ、恋文を投げ入れられる始末だった。
これも不徳の致すところ。このまま女人に言い寄られては仏道修行の妨げとなる。自身にも落ち度があり、心乱されることもあった。
思い悩んだすえ、彼は仏道一筋の道に生きることを誓った。
煩悩から決別しなくてはいけない。
大釜に湯をたぎらせた。
なんと、みずから熱湯をかぶり、見るも無残な顔面火傷にしてしまったのである。
人はしょせん見た目で判断しがちだ。
あまりに変貌した彼を祐遍とは知らず、人々は『赤面坊主』と蔑み、陰であざ笑うようになった。
やがて時がすぎた。
そう言えば最近、祐遍の姿が見えないと、飫肥の人々は思った。
そこへきて、『赤面坊主』の上品な立ち居ふるまい、聞く者を陶酔させる読経から、よもやあれこそが祐遍その人ではないかとうわさが立つようになった。
ついに真相が明らかになった。
心を寄せていた女たちは過去の言動を侘びた。同時に祐遍の求道の精神に感銘をうけ、仏道に帰依する者さえ少なくなかった。
これが『赤面法印』の由来である。
のちに祐遍は願成就寺を第六世の重翁に託し、諸国行脚に出かけ、補陀落山に浄土をもとめて渡海を決意することになる。
祐遍は現在の祐遍堂下の河原で筏を組み、海の彼方、観音浄土をめざして漕ぎだし、入水往生したという。
時に寛永四(一六二七)年、八月三日のことであった。
◆◆◆◆◆
小賦はその話を聞くにしたがい、しだいに腹が立ってきた。
「……なにそれ。たんなるノロケじゃん。究極のリア充の、嫌味な武勇伝みたいにさ」
と、ふくれっ面をした。筋ちがいの怒りだった。
「どんな話を期待していたのだ」
「てっきりあたしは誰かの陰謀でワナにはまり、傷つけられたのかと思ってた。そうじゃなかったら、赤ん坊のころ、ネグレクトの親から虐待されたのかと内心同情してた。自分勝手な、ひどい言いぐさなのはわかってる。でも、そっちの方がなぐさめになった」
「なにを申されるかと思えば――」
――ダメだ。あたしのなかの殯の箱からなにかがはじけて飛び出し、手がつけられないほど暴走していた。もう誰にもとめられない。祐タンならとめてくれると思ったのに、それさえ難しくなった……。
「あたしだってね、火傷の痕があるんだよ! ほら、ここ見てごらんよ」
小賦は右腕の袖をまくった。
掌からひじの裏にかけて、刷毛でひと筆書きしたようなピンク色の傷跡を見せた。わずかに肉がへこみ、傷の周囲はひきつれていた。間延びしたカタカナの『レ』の字に似ていた。
この火傷の痕は、もちろんリストカットのつもりで、自身でやったわけでもない。――いじめを受けた証なのだ。
「そうか」祐遍はうるんだ眼をして言った。「つらい記憶があるらしいな。どうやらそれがオブどのの鍵と見た。観音の導きと、私を遣わせた理由は、それだな。よかったら話してくれぬか。曲がりなりにも、私は人を救う立場にある。なにか力になれるやもしれぬ」
「なれなかったら?」
「なれるよう、いっそう精進いたす」
小賦は左手で右の肘を支えたまま、傷痕を見つめた。
あれから五年――千回は流すまいと誓ったはずなのに、両眼から涙があふれてきて、肘の内側に落ちて、傷を濡らした。
「この『印』は、あたしが異質の存在であることの証」




