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22.「オブ、代打で行くぞ。心の準備をしとけ」

 金光坊は心の準備が至らなかった。

 死への恐怖を超越した悟りの境地にはおよばず、ある意味人間臭く取り乱したすえ、問答無用で殺された。

 これでは彼岸へは渡れまい。

 祐遍をもってしてさえ、泥臭く、ことここにいたって苦しんでいるという。

 あたしはどうだろう?――小賦は自身に問いかけてみた。


 いくらヴァーチャル・リアリティー上の命とはいえ、五感は現実そのものだし、命の危機にさしせまった感覚は、まぎれもなく本物だ。仏門に入り、長年修行を積んだわけではない。精進潔斎して心の贅肉を削ぎ落してもいない。コンビニ感覚で、一点の曇りもない境地に達することは土台むちゃな話だった。


 金光坊のエピソードを聞いたあと、おたがい口数が減った。

 やがて祐遍は小声で読経を唱しはじめた。どうやら今夜はこれ以上の講義はないらしい。

 朗々たる般若心経を聞いていると、小賦はまぶたがさがるようになった。

 体育座りのまま腕に頭をあずけ、眠りに落ちた。


◆◆◆◆◆


 明くる日、海はあいかわらず穏やかだった。

 微風が吹いているらしく、船が海上をすべっていく体感がある。

 全方向の箱のすき間から外をのぞいても青い海原が広がっているだけだ。なんのかわり映えもしない。

 祐遍はいっさい食事もとらず、暇さえあれば念仏を唱えていた。

 よく考えれば、さすがヴァーチャル・リアリティー。尿意や便意をもよおさなかったのはありがたかった。おかげで狭い船内に異臭が立ちこめることはないというわけだ。


 それにしても心の準備とは――いまから死ににいくのに、かんたんに腹を決め、ましてや明鏡止水の域に達することができるものか。

 小賦は中学のとき、女子野球部に二年ほど所属していた。

 いかんせん、選手層が厚く、レギュラーの座を射止めることなく卒業してしまった。が、控えの選手として、何度か試合に出場したことはあった。


 たいてい出番は試合が中盤以降にまわってきた。

 僅差のスコア、一、二点のビハインドを追う戦い。攻撃の回がめぐってきた。下位打線ながら、突破口をひらいて上位打線につなげたい。

 レイバンのサングラスをかけた岸本きしもと監督が小賦の方をふり向き、こう言うのだ。


「次でピッチャーをかえるから、オブ、代打で行くぞ。心の準備をしとけ」


 まさに心の準備。

 岸本監督のちょっとした気づかいのおかげだ。

 わずかな猶予とはいえ、重さ一〇〇〇グラムのマスコットバットを振りまわし、身体の緊張をほぐすぐらいのゆとりができた。


 ネクストバッターズサークルで待機するまでには、おのずと心がまえがととのっていろうというもの――もっとも、いざ代打コールを告げられバッターボックスに入るも、心臓のドキドキはおさまらず、惨憺さんたんたる結果しか残せなかったが。心の準備と鼓動をおさえることは別物なのだ。

 そんなわけで小賦にとって、心の準備とはなにかと問われたならば、真っ先に代打として立たされたときのことを思い出す。




 ――退屈。

 せっかく渡海したというのに、恐ろしく退屈な観音浄土クルーズだった。

 なるほど、渡海に出る直前のできごとの方が、はるかにドラマチックで感興を誘った。テーマパークのアトラクションとしては本末転倒ではないか。エンターテイメント性のかけらも見当たらない。


 目と鼻の先に祐遍の顔があり、あきもせず低音ボイスで般若心経をそらんじていた。

 語尾をビブラートで演歌歌手のコブシみたいにふるわせ、聴く者をうっとりとさせた。

 顔面の火傷の痕はなんとも思わなくなっていた。むしろ確実に死につつある痩せ方が痛々しくて見ていられない。


「祐タン、食事とらなきゃ、あたしより先にぶっ倒れちゃうよ。ちょっとぐらい食べて元気つけてったら」かめに茶碗を突っ込み、ジュウシマツの餌みたいな粒をすくって突きつけたが、祐遍は見向きもしなかった。「あたしより先に死んじゃったら、誰が観音さまのもとに導いてくれるの。ちゃんと水先案内人の責任はたさなきゃ」


 祐遍は読経をとめ、


「修行によって、代謝はおさえられている。オブどのより先にみまかるつもりは毛頭ない」


「だったら、ご勝手に」


 と言って、小賦は口のなかに入れ、噛み砕き、水で流し込んだ。




 時間は流れていった。

 真冬、家の軒下で、氷柱つららがゆっくりできあがっていくように、遅々とすぎていった。

 しだいに小賦は、かるい見当識障害に捉われていった。

 もがりの船は風のおもむくまま進み、狭い船内は身動きできず、ほかに気分転換のしようがない。


「このヴァーチャル・リアリティーってさ、時間の感覚がわからなくなるほど、ずっと船のなかですごしてるけど、なんとかゴール直前まで短縮できないものなの? いい加減、うんざりしてきたんだけど」


 いくら全身から男性フェロモンをたぎらせる好男子の声の持ち主といっしょにいられるとはいえ、この船旅は冗長すぎた。


「短縮など、便利なものはない。ゆるやかな死が訪れるのを待つのみ。私たちの死をもって、観音浄土クルーズは終了と相なる」


「胸躍るエンタメを期待してただけに、この落差は大きい。まさに期待はずれ。拷問にひとしい単調さ。退屈すぎてかるく死ねるんですけど」


「これ」と、祐遍は片眼を開けて、にらみつけた。「死ぬなどと、軽々しく口にすべきではない。命を粗末にするなかれ。それだから私とともに渡海しているのだ」


「はいはい、さようでございますか」

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