21.金光坊の受難
時は永禄八(一五六五)年。
当時、補陀洛山寺の住職をつとめていたのが金光坊だった。
貞観十(八六八)年の慶竜上人を渡海のパイオニアとした場合、金光坊の時代までの開きは、およそ七〇〇年あり、その間渡海した僧は十人にも満たなかった。
しかしながら、時代が変わって金光坊のころ、幸か不幸か、渡海が一種のブームになってしまう。
寺歴代の住職である正慶上人、日誉上人、清信上人の三代が、六十一歳を迎えるたび、立て続けに渡海したからだ。これは前例のないことだった。
前任者が三代続くとなると、その流れで四代目である金光坊も、当然渡海なさるのでは?と信徒から見られるようになるのは自然の成り行きだった。
ましてや戦国時代終期、翌年には織田信長が印文『天下布武』の朱印を使用しはじめ、これから天下統一をめざそうというキナ臭い時代である。
多くの民衆が犠牲となり、厭世観が広がっていた。仏に救いをもとめて金光坊に渡海してくれないか、と淡い期待も持たれるようになったのだ。
金光坊とて時期がくれば、尊敬する師、正慶上人のように胸を張って渡海したいと思わないわけではない。
檀家信徒の受けはよかったし、仏門につかえる者として、それなりの自負はあった。補陀落渡海に対する憧憬もあった。
正慶上人のそばにいると、よく聞かされた。
渡海僧は海上において死ぬ。死ぬと同時に、その骸を乗せた船は南方のはるか補陀落山をめざして流れゆく。流れ着くところこそ観音の浄土であり、死者はそこで永遠の命を得てよみがえり、観音に奉仕することができるのだと。
その正慶は六十一歳で旅立った。
やがて金光坊もおなじ年になった。
とはいえ、やや優柔不断な性格にして、修行が足りないせいか、心の準備がととのっていなかった。あと数年精進についやし、渡海を先送りすべきではないか。
明鏡止水の域に達していないと、せっかく渡海しても観音浄土にはとてもたどり着けないし、そもそも御仏に失礼にあたると思った。
しかし金光坊の思惑をよそに、まわりの人間たちは、その年の渡海を信じて疑わなかった。
先延ばししたいなどと、言い出せぬ空気となっていた。
このまま今生から消えなければならないのかと、理不尽なものを感じた。だからと言って渡海を拒否したことで、いままで先人たちが築いた補陀落信仰の歴史に汚点を残すことも、それはそれで許せなかった。こんな体たらくでは御仏に侘びのしようがない。
金光坊はその年の立春、渡海することを公に告げた。
今年の十一月十八日に船出すると日時を伝えた。
しかしながら出立の季節が近づくにつれ、仏につかえる身であっても悲しき人の性か、浮足立つようになる。
ふんぎりがつかないまま、ついに渡海する日がやってきた。
金光坊が乗る船に箱がかぶせられ、釘で打たれた。あとは暗闇。
渡海船は曳航船に引っぱられ、那智の浜の沖合にある岩礁まで運ばれた。そこで一泊し、曳航船の者たちと別れを惜しんだのち、渡海船だけ大海に向けて押し出される手はずになっていた。
金光坊は、渡海船のなかで一夜をすごした。
ふいに、壁に身体を打ちつけられ、目をさました。
船が烈しく揺れている。
どうやら大時化の真っただなか。
いてもたってもいられず、屋形から逃げようとした。
金光坊はなんどか体当たりすると箱は破れ、とたんに船は転覆した。
無我夢中で板子にしがみついた。
その後、金光坊は小さな岩礁に打ちあげられているところを救助された。
じつは曳航船に乗った者たちは嵐が強くてもどることができず、別の岩礁で一夜を明かしていたのだ。だから、金光坊が外に投げ出されているところに出くわしたのである。
とはいえ、渡海が中断されるわけではない。関係者たちは相談したのち、金光坊を別の船に乗せることにした。
金光坊は助けてくれと懇願した。
介添えの役人たちは耳を貸さなかった。
金光坊の上に急ごしらえの箱がかぶせられ、船底に釘が打ちこまれ、こんどこそしっかりと固定された。
そして無情にも船は流されていった……。
この金光坊の渡海拒否事件をきっかけに、補陀洛山寺の住職が六十一歳で渡海することはほぼ途絶えた。
一部始終が世間に伝わると、補陀洛山寺の住職の渡海に対する考えが見なおされた。
そのかわり寺の住職が亡くなると、その遺体を屋形船に乗せて、浜の宮の海岸から流される習慣へとなった。このような水葬儀礼は享保のころまで七名を数えることができる。
唯一の例外として、金光坊の渡海事件後、生きながら渡海した事例がある。
それは金光坊が渡海してから十三年後、天正六(一五七八)年の清源上人であった。三十歳の若さだったという。
寺の記録によると、両親のための渡海となっている。この人物は金光坊の弟子にあたり、なにか思うところがあったのかもしれないが、いまとなっては知る術がない。




