14.「鉄は熱いうちに打てってやつね、わかります」
ふいにハエが飛んできた。
堂内でさまよったあと、なぜか小賦の鼻の頭にとまった。
その拍子にくしゃみが出た。
「ヘッグシ!」
加藤茶みたいなくしゃみを放ち、眼をあけると、またまた風景がかわっていた。
目まぐるしくて忙しい……。
◆◆◆◆◆
べつの部屋に瞬間移動していた。
畳敷きの小さな部屋。
観音さまの夢のお告げを受けた寝所や、祐遍と重翁法印が会話していた書院ではないのはたしかだ。
祐遍は渋い色した文机の前に座っていた。まるで鉄筋でも飲み込んだみたいに、背筋がしゃんとしている。北海道のラベンダー畑のように広い背中だった。
硯に墨を摩りつけて溶かしていた。
とすれば自室かなにかだろう。
小賦は、祐遍の斜め後方で正座していた。小賦の存在に頓着することなく、墨のかたまりを摩るのに集中している。
この人はなぜ顔面に重度の火傷の痕――どう見ても火傷だろう――を負ったのか、見当もつかない。
なんらかの事故に巻きこまれたのだろうか? 女性にモテるところから察するに、真面目一徹な人柄なのだろうが……。
いや、それだけではない。美声もさることながら、全身から醸し出される男のフェロモンからしてうなずけた。モテる男の条件を兼ねそろえていた。ルックスだけは残念だったが、リア充の坊さんだった。
それにしても火傷といえば――。
小賦のなかでいやな記憶がよみがえろうとしていた。せっかく箱にねじ込んで鍵をかけていたのに、パンドラの箱から災いがすべり出したように、黒い思い出が抜け出そうと暴れていた。
小賦は無理やりねじ伏せた。奥歯をかみしめてシャットアウトした。
それよりも、祐遍のやることを観察するのに集中する――。
祐遍のかたわらには、風呂敷が広げられ、上には白い小石が山積みにされていた。
これは春日山願成就寺のすぐ南に流れる酒谷川の河原で拾ってきた玉石だ。ていねいに洗ったあと、天日干しにしたものである。
墨を摩りおえると、小筆をとった。
穂先を硯の墨池にひたし、波止で毛先をととのえる。
小石の一つ一つに、入魂の思いで般若心経の一文字を書いていく。横顔は火傷の痕がむごたらしくても、凛とした佇まいを見せていた。
単調な仕事ぶりに、うんざりした小賦は、
「ちょっと、なにしてるの」
と、ためしに彼の肩を叩いた。
が、まるっきり無視された。
しかたなく、頬をふくらませ、正座したまま祐遍の作業を見つめた。
たっぷり時間をかけて、合計百八個もの小石に経文を書き入れた。
祐遍は手で小石をすくい、それを二つの袋に半分ずつ入れた。
「さて、経石は仕上がった。これですべての準備がととのった」と、祐遍は額に汗を浮かべて言った。ようやく斜めうしろの小賦をふり返った。「ご苦労であった、待ちくたびれたであろう。出立はいよいよ明日の八月三日だ」
「え」と、小賦は拍子抜けしてのけぞった。「なんだ、あたしがいること、知ってたの。てっきり、ヴァーチャル・リアリティーだからって、あたしが干渉できない世界を見せられてるんじゃないかと思ってたのに」
「渡海するにあたり、心の準備をせねばならぬのだ。これはお遊びではない」祐遍はやけに眼玉をギラギラさせて言った。白目の部分に稲妻みたいな毛細血管が血走っていた。はじめて網代笠を取って見せられたときは、驚いてうろたえたものだが、すっかり慣れっこになっていた。顔は気味が悪いほど赤くただれていても、誠実な人柄なのは伝わってきたからだ。醜くとも、心はモンスターのそれではない。「ちなみに、熊野那智山での補陀落渡海は、十一月十八日に渡海するのが習いらしい。というのも、十八日というのは観音の縁日にあたるそうだ。この日に渡海すれば、観音浄土にかならず往生できるという教えから好んで選ばれたという。とはいえ、私は晩秋まで待っておられぬ。それほど私の心は熱いのだ。八月三日になんの理由もないが、とにかく明日、旅立つ。だからおぬしも覚悟しておけ」
「鉄は熱いうちに打てってやつね、わかります」と、小賦はうなずいた。「どうでもいいけど、その『おぬし』っていうのは、やめてくんないかな。あたしを呼ぶときは、『オブ』でいいから」
「あい承知した。ならばオブどの、しばし休んでおくがいい。そして心の準備をしておくのだ」
「それでもって、お坊さんのこと、祐遍和尚っていうのも語感がよくないから、祐タンって呼ぶね」
祐遍は『新婚さんいらっしゃい』の桂三枝みたく、豪快にひっくり返った。




