12.「行かせてください、補陀落浄土に」
「過去に那智勝浦の浜の宮から渡海された上人たちは、やはりこんな形で御仏から誘いを受けたのだろうか」と、腕組みしたまま重翁は言った。やおら身をのりだして障子戸を開け、中庭をながめた。石楠花が開花の時期で、庭いちめんにフリルのついた赤と白の花を咲かせていた。「せっかく咲き誇った花もいずれ散るか……。無常よ」
「観音菩薩の導きがあるというならば、御仏は私になにを求めているのだろうか」
と、祐遍は火傷を負った顔を伏せた。
「それはな、祐遍どの」重翁は親愛の情をこめて言い、にじり寄った。「すなわち補陀落渡海とは、補陀落信仰を実践する宗教形態を指しているのだ。渡海の功徳によって、観音浄土で永遠に生きようとする、信仰の究極の表れと言えるだろう。たしかにいまを生きる人の考えからすれば、とうてい達成の見込みのない自死行為かもしれない。はっきり申せば、現実的に観音浄土へなどたどり着けまい。一宗教者として口にすべきことではないかもしれない。――だが祐遍どの、わかるであろう。もはや観念の問題なのだ。時代の閉塞感のなかで、宗教者の死生観は時に偏ってしまうことがある。先人たちが築きあげた狂騒的な信仰といわざるを得ない。だがしかし、これには観音信仰の完結者として、むしろ捨て身の行為のなかに、生きることへの熱烈な動機があったはずだと思うのだ。およそ一三〇年前、キリスト教の宣教師たちが各地で補陀落渡海の現場を目撃したときも、目も覆いたくなるような野蛮な行為として映ったようだが、反面、崇高な宗教観だとして感銘を受け、記録を残しているほどだ。あのキリスト教の宣教師をもってさえ、そう思わせた。仏教の真の教義は、命を捨ててでも到達したい、超然たる域にあると言っても過言ではないのだ」
「バリニャーノやルイス・フロイスの書簡のことですね」
「さよう。たしかに渡海した僧は、最終的に渇き飢えるか、船ごと波に飲まれるかして死ぬ。祐遍どの、あなたの高徳をもってしてさえ例外ではなかろう」
「おっしゃるとおり、死ぬでしょうな」
「そのかわり、多くの人々の罪を一身に背負い、彼らが死後に受けるであろう地獄の苦しみを、自身が肩代わりすることができる。それをしてこそ、仏につかえる者の至高のつとめではあるまいか」
「なるほど、我が身を犠牲にする『代受苦』の精神」
「補陀落渡海は入水捨身によって、渡海僧の浄土往生を願う意味がある。と同時に、『代受苦滅罪』の信仰でもあるのだ。渡海して観音浄土・補陀落浄土で永遠に生き続けることも、仏となって人々を救うことも可能だ。あなたにはその資格があるということだ。――とはいえ、心を痛めずにはいられない。私とて、あなたの死を望んでいないからだ。あなたはこの願成就寺で、まだやり残したこともあるのではないか」
「信仰の究極の目的が、南方の楽土にあるとすれば、私はそこに至るために、命がけの実践行を行う必要がある」祐遍は顔をあげた。頭全体を含め、耳までただれ、ケロイド状を呈した人相ながら、真理を追求するひたむきさまではただれてはいなかった。「なにをためらう必要があるや。私の答えはひとつ――行かせてください、補陀落浄土に。私は民衆のために、なんとしても渡らねばならない」
「……そう言うと思った。いったん決めたら、折れないあなただ」と、重翁は眼をうるませて言った。「お好きなようになさい。もう止めはすまい。御仏のご加護があることを願っております。とするならば、木食聖としての苦行を受けなさい。土中入定される場合とおなじだ。これからしばらく精進潔斎して身体をととのえ、心の準備をするのです」
「わかりました。――ならば、この願成就寺、重翁さまにおまかせします」
と、祐遍は決然と言った。




