11.補陀落渡海とは
いつのころからか、補陀洛山寺の住職は六十一歳を迎えると、なんとなく渡海に行かねばならないような風潮ができあがってしまった。
代々の住職が六十一になるたび、行かねばならない規則があったわけではない。志願した場合にかぎり、だった。
えてして時代背景に、民衆が社会不安を訴え、厭世観を抱いたとき、観音に救いを求めて住職の渡海が希望された。
住職が望むと望まざるにかかわらず、そんな雰囲気になってしまったこともあったのだ。もし生に未練があって渡海しない者は、檀家や信徒らに後ろ指をさされたという。
渡海においては補陀洛山寺の住職のみならず、熊野那智山を山林修行の場とした多くの修験山伏たちさえが志願し、実践した。渡海し、死ぬことが最高の誉れとされた歴史があるのだ。
じつは『平家物語』にも、補陀落渡海に関する記述が見られる。それが平維盛(平清盛の嫡孫にして、平重盛の嫡男)による那智における入水往生譚である。
『平家物語』諸本によると、維盛一行が屋島を脱出して高野山をめぐり、熊野三山に参詣した。
そして最後に落ち着いたのが那智の海岸であったとされている。滝口入道の説教を受けて維盛は那智の海岸に入水するのだが、わざわざ各地の霊場をめぐったうえ、那智を選ぶところに補陀落渡海を意識したのではないかとする研究者もいるほどである。
もっとも、維盛は寿永三(一一八四)年三月に死亡したとされるが、それ以降の生存説が残されている。渡海して死んだと見せかけ、源氏の追及をあきらめさせるための欺瞞作戦だった線が強いという。
平維盛だけでなく、鎌倉時代にさかのぼれば源頼朝の御家人であった下河辺六郎行秀という武士までが、ある事情から出家して智定坊と名をあらため、渡海に出ている。
この智定坊が乗った渡海船こそ、四つの鳥居のついた特徴的な屋形船タイプであり、釘で封印されたうえ船出した先駆者であった。
渡海船も僧によっては、単に一人用の屋形のない小舟から、筏まで多岐にわたっていた。とりわけ智定坊が乗った渡海船は、いわゆる『うつぼ船』を意味し、死を覚悟した彼の決意を読み取ることができる。
いずれにせよ、補陀落渡海は仏につかえる者たちにとって、憧れの的であった。
平安時代の貞観十年、熊野那智から渡海した慶竜上人を初見として、享保七年の宥照上人の次にあたる、時代不明ながら舜夢上人の事例を含めると、全国で四十二例もの渡海が確認できる。
さらにこの四十二例を時代別にみると、古代の渡海が九例、中世(戦国期を含む)が二十六例、近世が七例となり、中世に渡海が集中しているのがわかる。また四十二例のうち、二十四例が熊野那智からの渡海であり、全体の五十七パーセントに分布される。その他の渡海の場所は、土佐の室戸・足摺、九州の有明海である。
このように、補陀落渡海は西日本を中心とする各地の海岸で見られ、かならずしも熊野だけの宗教現象ではなかった。
しかしながら、日本の伝統的な補陀落渡海のメッカが熊野那智であったことはまちがいあるまい。そのため諸国から集まる修行者は、聖地・熊野那智から渡海することが、ある種のステータスと言えたのだ。
渡海のやり方がこうだ。
南方にのぞむ海岸に、その渡海船を浮かべ、住職や志願者である修験者がたったひとりで乗り込む。
外から戸板で釘付けにされたり、箱をかぶせて釘で封じ込まれ、出られないよう封印されたうえ、そのまま沖に流されるというのだ。
船には櫓、櫂などの推進装置はない。せいぜい慰み程度の帆がかけられているだけだ。出航したら最後、海流に乗って漂流するだけとなる。
船内には一ヶ月の水と食料、灯火のための油が備蓄されているが、そんなものは焼け石に水。
いずれ餓死するか、高波にでもさらわれて転覆、海の藻屑と消えたことは想像に難くない。




