10.祐遍、重翁の教えを乞う
◆◆◆◆◆
「祐遍和尚、たしかにそれは補陀落浄土への導きかもしれません。ですが重ねて言います。それは死を意味する」
西日が差し込む春日山願成就寺の書院で、床の間を背にした重翁は静かに言った。
「補陀落渡海……うわさは聞いたことがありましたが、まさか私のもとに神勅があろうとは」と、祐遍は端座したまま、まっすぐこの願成就寺第六世の穏やかな顔を見た。「今日伺ったのは他でもありません。重翁法印は、その方面に造詣が深いと聞いております。ぜひともご教示願いたい」
小賦は緋色の残光で満たされた書院の端で、二人を見守る恰好で正座していた。
またしてもお遍路の服装だった。さっき、祐遍は『同行者』になってもらうと言っていた。それと関係があるのだろうか?
二人の僧侶は、小賦の存在など鼻にもかけず、話に夢中になっている。
「よろしいですとも。他でもない、祐遍和尚の頼みとあれば」と、重翁は眼を伏せたまま腕組みして言った。「いまからおよそ七六〇年前です。貞観十(八六八)年十一月三日、熊野の浜から慶竜上人が渡海したと言われている。その次が、ちょうど五〇年間隔をおいて、延喜十九(九一八)年二月に祐真上人が奥州からやってきて出立された。三番目は天承元(一一三一)年十一月の高厳上人で、祐真上人とのあいだには、なんと二〇〇年以上の隔たりがある。さらに三〇〇年を隔てた嘉吉三(一四四一)年十一月に四人目の祐尊上人が渡海された。……いや、こんな履歴をならべ立てたところでなんになりましょう。渡海は熊野のみならず、全国各地の浜から出立されているのだ。それはあくまで記録されているにものにかぎります。なかには文献にさえ残されていない事例も含めると、はたしてどれほどの数にのぼるか」
「熊野那智山から代々の住職が渡った方が多かったと言っても、そんな掟があったわけじゃないでしょう?」
「むろんそうだ。僧侶のなかでも何千人、いや何万人に一人の逸材であっただろう。渡海するにふさわしいだけの徳をもち、相応の修行を積んだうえ、みずから志願して船出された。ここが肝要だ、祐遍どの。渡海する僧は、たいていは志願したのだ。捨身行、究極の奥義とはいえ、なんらかの形で命を落とすのは必定であった。そんな命の棄て方を信仰のなかに活かすことができる僧侶は、何十年、もしや何百年に一人の割合であったはずだ。いずれにせよ、現在は寛永四(一六二七)年。先達たる慶竜上人が貞観十年に渡海されてから、およそ七六〇年の長きにわたって、こんな習いが続けられてきた(※この時代以降に記録が残されているのは、最近のもので、一七二二年の宥照上人の事例。となると、慶竜上人の年代から差し引くと、恐るべきことに八五四年もの長期間のあいだ、補陀落渡海が続けられていたことになる)。あなたはそんな由緒ある歴史に選ばれようとしているわけだ。たいへん名誉なことではありませんか」
◆◆◆◆◆
補陀落渡海のフダラクとは、古代インドの文語(梵語)『Potalaka』(ポータラカ)の音写であり、補陀落・補陀洛・普陀洛とも漢訳される。
フダラク=観音菩薩が住む浄土の世界を指す。現実のモデルとしては、中国の長江(揚子江)の河口に浮かぶ舟山諸島の普陀山である説、インドの南海岸にある海島とも想像された。
日本においては、和歌山県南部の熊野那智山、高知県の室戸岬や足摺岬、堺を含む泉州沖(現・大阪府)、九州の有明海など、主として上に霊峰をいただいた水平につらなる海原が補陀落山として見立てられ、補陀落渡海の出帆基地とされた。
補陀落渡海とは、このような南方海上にあると信じられた観音浄土(補陀落浄土)に往生(現世を去って仏の浄土に生まれること。つまり死ぬこと)を願って、そこをめざして生きながら船出し、最終的に死にいたる宗教的実践である。文献史料によると、九世紀なかばすぎから十八世紀はじめまで、断続的、または集中的に行われたという。
先にもあげた和歌山県那智勝浦に補陀洛山寺という天台宗の寺があり、ここが補陀落信仰の根本道場とされた。現在では紀伊山地の霊場のひとつとして世界遺産に登録されている。
かつて、寺からすぐそばの浜より、渡海船と呼ばれる屋形船に乗って船出した。
平安から江戸時代にかけて、この寺の住職が生きながら出立し、往生する行を行ったわけである。捨て身の行である即身仏になるべく入定するのが土中であるのに対し、補陀落渡海は入水の形態といえよう。
ちなみに我が身を捨てる行、『捨身行』とは――平安時代から鎌倉期に記録された往生者の伝記史料『往生伝』によれば、『投身』『火定(焼身)』『入定』『入水』などの苦行があり、当時の修験山伏にとっては、捨身行こそ苦行の極致であるとされ、厳しい宗教的実践行であったという。




