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1.明鏡止水の気持ちになんて、なれやしないッ!

 こんな奇想天外なアトラクションなんて聞いたことがない。


「なにこれ、なにこれ、なにこれ!」竹内たけうち 小賦(おぶ)は浅い眠りから飛び起きた。

「いきなり、なんなのよ!?」


 気づけば船がはげしく揺れていた。

 板子一枚をへだて、船底から波が突きあげてくるのがわかる。

 バウンドし、海面に叩きつけられる衝撃に仰天した。

 どうやら……嵐の真っ只中にいるようだ。


 たしかに前兆はあった。

 昨夜、屋形船の外は、航海に出てからというもの、平和なほど凪いでいたはずだ。

 ところが深夜から雷鳴がとどろき、口笛みたいな嫌な風が吹きはじめたのを皮切りに、夜が明けたとたん、このありさまだ。


 屋形船には箱がかぶせられ、釘付けにされているので、おかげで雨風はしのぐことができた。

 箱のなかの小賦と祐遍和尚ゆうへんおしょうは、たがいに向き合ったまま、うずくまっているだけだ。


 箱は木板で雑に造られているせいで、すき間や、木の節をくり抜いた穴から、外の様子をうかがうことができた。

 この船にはエンジンがついていないうえ、かいなどの推進装置すらない。

 帆がかかっているだけで、凧みたいに風にあおられて漂流するだけの、まさに自殺専用の乗り物だった。


 小賦は顔をくっつけ、外の世界をのぞいた。

 たちまち、うめいた。

 灰色の空は、いくつもの蛇が絡みあったかのような不気味な雲がのたうっていた。稲光とともに雨をまき散らしていた。


 そして荒れ狂う黒い海。

 怒涛どとうが高々とうねっていた。この船をまる飲みし、噛み砕かんばかりに挑んでくる。

 波しぶきが放射状に散った。

 文字どおり、この世の終わりさながらの光景だ。



 小賦と祐遍だけを乗せた観音浄土行きのちっぽけな渡海船とかいせんは、お釈迦さまのてのひらの孫悟空のようにもてあそばれているも同然だった。もろに波を直撃すれば、たちまち海の藻屑もくずと化すだろう。

 とすれば、よくも悪くも念願の、観音菩薩が住まう彼岸ひがんに渡れるというもの――。


 小賦は船酔いなのも忘れ、目の前の祐遍の胸にしがみついた。

 着やせするたちなのか、内側はあんがい筋肉で盛りあがっていた。抹香まっこうくさい体臭がした。


「このアトラクションって、途中で中断することはできないの? もうたくさん。説教ならいくらでも聞くから、ここから出して。家に帰してったら!」


 すき間から漏れる光と闇のなかで、迷彩色に染めあげられた祐遍はかぶりをふった。


「なりませぬ。いくらヴァーチャル・リアリティーでも、出立したら最後、あともどりはできない。おしまいまで見届けるしかないのだ」


「こんなむごい仕打ちってある? 横暴すぎるよ!」


「契約を交わしたではないか。決まったことは覆らない」


「とっとと破棄してよ。観音浄土クルーズなんて――命がいくつあっても足りやしない!」


「いっしょに般若心経はんにゃしんぎょうを唱えるのだ。さすれば、心おだやかになれよう」と祐遍は言って、目をつむり、またぞろ低い声で「観自在菩薩かんじーざいぼーさつ行深般若波羅蜜多時ぎょうじんはんにゃーはーらーみーたーじー照見五蘊皆空しょうけんごーおんかいくう度一切苦厄どーいっさいくーやく……」と、やりはじめた。


 が、その顔は苦悶にゆがみ、お世辞にも心落ち着いたとは思えない。


「念仏唱えたところで、なんの慰めにもならないって!」

 

 外では海水が、どんぶり鉢を伏せたように盛りあがり、渡海船が軽々と持ちあげられた。

 生きた峠となって、船はゆっくりピークにさしかかった。

 とたんに船首を下にして下り坂に傾いた。


 小賦は船首側の壁のすき間から、はるか前方を見てしまった。

 黒々とした奈落の底が、地獄の番犬よろしく狂暴な口を開けていた。

 さすがにあそこに落ちればひとたまりもない。


「わ、わ、わ、わ!」と、小賦は黒い直綴じきとつを着た祐遍にしがみついたまま言った。「これって、完璧な死亡フラグだ!」


 船が真っ逆さまに、ほぼ垂直の角度ですべり落ちていく。

 ジェットコースターというより、急流すべりと言った方が正しい。

 ――殺す気まんまんのアトラクションじゃないか!

 下半身が、ひゅうううんと冷えあがるあの感覚――もうおしまいだ!



 ――日本各地にあるテーマパークにおける絶叫系アトラクションは、メンテナンススタッフによる定期的、厳格的な保守保全点検で安全が約束され、乗客に最大限の恐怖とスリルを提供してくれる。

 心配される死亡事故につながるケースは年に一回あるかないかのレベルで、むしろ二〇一六年、年間の交通事故負傷者数は六十一万八八五三人 、死亡者は三九〇四人と、車での事故の方が確率的に多いとされている。


 しかしながら、この観音浄土クルーズは安全など保障されているはずもない。肉体的には死亡せずとも、精神的にはこたえた。

 いくら疑似体験にすぎないと祐遍和尚は言ったとはいえ、五感をゆさぶる感覚は、とてもCGや、あらゆるテクノロジーで再現はできまい。それほど真に迫っていた。


 かつて日本では、海の彼方に想像上の楽土があると信じられ、僧や修験者たちが観音浄土めざして海を渡ろうとしただって?

 そんなの、頭がお花畑じゃない! この船旅はまちがいなく地獄に向かっている!

 観音浄土をもとめて、こんな地獄を乗り越えなくちゃいけないなんて、あたしにはつらすぎる。

 とても明鏡止水の気持ちになんて、なれやしないッ!

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