【079不思議】恋患い
窓から差し込む日の光が段々と西に傾き、柔らかな橙色に変わった。
グラスに満たされた麦茶が光を反射し、その色を鮮やかに染め上げている。
「ほんとごめんね。折角来てくれたのに寝ちゃってて」
二つのグラスを部屋に持ってきた麻理香は、そう申し訳なさそうに呟いた。
花子は立ち尽くしたまま博士を見つめるだけで、その言葉に返す素振りは影も無い。
無反応の花子に麻理香は責めるような事をせず、ただ優しく微笑んだ。
「じゃあ、ゆっくりしててね」
そう言って麻理香はドアの奥へと消えていった。
博士の部屋に残ったのは花子と、ベッドで眠る博士のみ。
眼鏡を外し、苦しそうに頬を赤らめているのを見ると若干疑ってしまうが、そこにいるのは紛れもなく博士だった。
花子はしばらくその場でじっと観察していると、博士の枕元まで動き出した。
すっと膝を付くと博士の顔を覗く。
目前で見るその頬は、太陽の様に真っ赤だった。
「……ハカセ」
そう呟いてみた。
しかし当然のように博士からの応答は無い。
すると今度は、その真っ赤に染まった博士の頬を人差し指で押してみた。
「ハカセ」
ツンツンと二回突いてみる。
恐らく熱気が籠っているであろう肌だったが、体温を感じられない花子にとってはただの弾力のある博士の肌だった。
それからしばらく突いてみたが、博士が反応を見せる事は無かった。
「………」
今度はどうしてみようか。
少し愉悦が混じってそうな花子の瞳が捕えたのは、博士の鼻だった。
静かに呼吸をしているその鼻筋に、花子は人差し指と親指を近付け、そっと摘まんでみた。
鼻の空気の通る音が止まったのが分かる。
数秒そのままにしていると、ゴフッと耐え切れなかったように博士が咳をした。
「!」
思わず花子は鼻から手を離す。
起きてしまったかと博士を見るも、未だ夢の虜の様だった。
「……ハカセ」
もう一度名前を呼んでみたが、返事が返ってくる事は無い。
しばらく博士の顔を眺めてみる。
髪は汗のせいか少し蒸れており、頬は真っ赤っか、眼鏡を手放したその瞼は固く閉じられていた。
そして、渇いた唇。
気付けば花子はそこに焦点を合わせていた。
いつもはどこからともなく溢れ出す憎まれ口が、今じゃ萎れた様に一文字になっている。
今の博士はどこもかしこも隙塗れ。
そんな考えが過ったのか、気付けば花子の耳から音は消えた。
花子は少し腰を上げると、博士の顔を挟むようにベッドに両手をつく。
目の先にはすぐそこに博士がいる。
恋する乙女なら今にでも心臓が飛び出そうな状況だが、勿論花子は眉一つ変わらない無表情だった。
花子はゆっくりと顔を近付ける。
その距離はジリジリと詰め寄っていき、博士まであと数センチだ。
花子は目を閉じないまま、自分の唇を博士の唇に合わせていった――。
「何やってんの?」
寸でのところで、ドアの開く音と少女の声が聞こえてきた。
花子は振り返らなかったが、器に盛り付けられたリンゴを手にした理子が花子の後ろ姿を訝しげに見ている。
「花子さん……、ですよね?」
その声はまるで不審者と対峙している様だった。
咄嗟の出来事に花子の体は博士を前に硬直しており、動く気配は無い。
すると花子は博士の妹を目の前にして、先程の再開と言わんばかりに顔を近付け始めた。
「ちょっ、何してんの!?」
勿論それは理子の手により抑えられ、花子の暴走は未遂に終わった。
●○●○●○●
夢を見ていた。
しかしどんな夢だったかは覚えていない。
ただ気分の良い夢では無かった事だけは覚えている。
夢の事なんてどうでも良かったが、そんなおぼろげな状態で博士は目を覚ました。
「………」
眼鏡を掛けて見た状況に、博士は言葉を失う。
自分のベッドに凭れる様にして、同級生であり研究対象、更に自分に恋焦がれている花子が熟睡していたからだ。
目を疑うような光景に、まだ夢の続きなのかと博士は目を擦った。
しかしどうやらこれは現実らしい。
――なんでこいつがいるんだ?
疑問に思ってみたが、答えは何となく解っていた。
どうせ千尋辺りに唆されてお見舞いに来たとか、そんな感じだろう。
自分の体が大分楽になっているのに気付いて、博士は上半身を起こした。
ずっと横になっていたものだから、体を起こしただけでも妙な疲労感を感じた。
少し背筋を伸ばして、花子に視線を落とす。
その寝顔は心地良さそうで愛らしかったが、無論博士にそんな感情は湧かなかった。
「ったく、伝染ったりしたらどうすんだよ」
後ろの寝癖を掻きながら、博士はポツリと零した。
「……あっ、幽霊は伝染んねぇか」
ふと数秒前の自分の発言の矛盾点を見つけて、博士はすぐさまに前言撤回する。
しかしそれでも花子に理解出来ず、安らかに眠っている花子の表情に、博士は呆れ顔を見せて辺りを見回した。
●○●○●○●
夢を見ていた。
しかしどんな夢だったかは覚えていない。
ただ大層気分の良い夢だった事だけは覚えている。
そんな夢見心地の気分で、花子はゆっくりと瞼を開けていった。
「おぅ、やっと目ぇ覚ましたか」
そこには熱々のお粥を息で冷まそうとする博士の姿があった。
口に入れた時にはまだ熱かったそうで、慌てて外に出して再び冷ます作業へと入っている。
「ハカセ」
花子が背中を起こすと、バサッと床に何かが落ちる音がした。
視線を落とすと、そこには博士の制服が倒れている。
もしかすると眠っている花子に、博士が上から掛けてくれたのだろうか。
花子は円らな瞳でその制服を見つめていた。
突然ピピピッと音が部屋中に響き渡る。
何事かと音がした方へ目を向けると、博士が脇から体温計を取り出していた。
「三十七度二分、これなら明日は学校行けそうだな」
体温計を眺めて、博士はそう淡々と呟いた。
ふと自分がどうしてここにいるのかを思い出して、花子も口を開く。
「ハカセ、大丈夫?」
「ん? あぁ、もう大丈夫だ」
花子の質問にそう適当に返して、博士はお粥を口の中に入れた。
ベッドのすぐ隣に置かれた仮設置のテーブルには、お粥と理子が持ってきたリンゴが置かれている。
すると博士が言いづらそうに口を開き始めた。
「……花子、今日は見舞いに来たんだろ?」
「? うん」
どうしたのかと花子は首を傾げる。
一方の博士は視線を泳がしながら、どこか照れているようだった。
「その……、なんだ。一応心配して来てくれた訳だから、感謝した方がいいのかなって」
顔を上げると、お粥をじっと狙っている花子が映った。
「……食べる?」
花子らしからぬ俊敏な頷きに、博士は溜息を吐きながらも持っていた器を差し出した。
生まれて初めて、いや死んで初めて食べるお粥に、花子は感動を覚えながら味わったという。
●○●○●○●
翌日、オカルト研究部部室。
「皆さん、昨日は大変ご迷惑をおかけしました」
そこには完全復活を果たした博士の姿があった。
「ハカセ君大丈夫?」
「はい、もう大丈夫です」
「病み上がりなんだから、無茶してまた体調崩さないようにしてね」
「はい、昨日の授業の分もノート借りて今日中に叩き込めたんで大丈夫です」
「無茶しないでね!?」
先輩達は博士を囲むようにして、それぞれ一日振りの会話を楽しんでいた。
そこに参戦するように、千尋もその輪に入っていく。
「ハカセー! 私も心配したよー! 大丈夫だったー!?」
「千尋」
「はい!」
自分にだけ声色が違う博士に、千尋は肩をビクつかせた。
「何が心配しただ。俺が風邪ひいたのなんて十中八九お前のせいじゃねぇか」
「ごっ、ごめんって。ほらきのこの山あげるから」
「いらねぇよ! 大体なんで俺ん家に花子一人寄越してきたんだよ! おかげで色々大変だったんだぞ!?」
「花子ちゃんを悪の刺客みたいに言うな!」
二人の間に火花がバチバチと散り、いつもの口喧嘩が始まった。
千尋と言い争う博士は、とても病み上がりの人間とは思えない程の気迫だった。
その論争の中心にいる花子はやはりぼーっとしており、その傍に乃良がそっと歩み寄る。
「お前、何も変な事してないよな?」
乃良の心配は博士にではなく、博士の家族にあった。
博士になら別に何をしても問題ないが、家族となると話は別である。
花子はしばらく無言を貫いていると、乃良は諦めたように清々しい笑顔を浮かべた。
「まっ、お前も毎時やらかす程バカじゃねぇか」
乃良はそう一人で納得する事にした。
「あっ、そういや花子」
千尋との論争を中断してこちらに声を投げた博士に、乃良も視線を向ける。
「理子が『あのおかっぱ女には気を付けて』って言ってたんだけど、お前なんか知ってるか?」
「お前何も変な事してないよな!?」
「………」
博士の質問にも、乃良の激昂にも、花子は明後日の方向に視線を向けながらも無表情で黙秘権を行使した。
無事に元気になりました。
ここまで読んで下さり有難うございます! 越谷さんです!
という事で花子ちゃんが看病するだけの話、完結です!
あとがき書いてて思ったけど花子ちゃん全然看病してないな!ww
まぁ彼女に看病する能力があるかと言われれば皆無なので、こんなところで大丈夫でしょうww
書いたあとに思ったのですが、最近って風邪でお見舞いに行くとかあるんですかね?
かくいう僕は一度もありません。
入院しててとかならあるんですけど、今はスマホがあるし、
友達に風邪伝染しちゃうから、親とかが気持ちだけ受け取ったりするんじゃ……。
……まぁいっか!ww
それでは最後にもう一度、ここまで読んで下さり有難うございました!




