【225不思議】心の温まる場所
ここは森の中。
息を吸えば空気の鮮度が感じられる緑の世界に迷い込んだ貴女を歓迎するのは、森に棲む心優しい動物達。
チュンチュンと歌を歌う雀。
カジカジと木の実を齧るリス。
ディンドンと踊りを踊る熊。
そんな熊に突如銃口を突きつける猟師。
それに気付き、慌てて射線上に走る貴女。
響く銃声。
上がる血飛沫。
倒れた貴女を抱えた腕から感じる、失われていく体温。
理性を忘れ、獣になろうとした熊の頬に手を伸ばし、掠れた声を絞って伝えた貴女の最期の言葉とは……?
「なにその話!?」
オカルト研究部で突如幕を開けた切ない物語に、乃良が堪らず声を荒げる。
「悲し過ぎるだろ! 最初心療内科で聞くセラピーストーリーかと思ったら、血飛沫なんていう過激な描写使いやがって! なんだ最後の疑問形! どんな心理テストだ!」
乃良の激昂に、語り手の千尋が顔を顰める。
「心理テストじゃないよ!」
そう言って、千尋は自分の手に開いていた一冊の本を乃良に開示した。
「心安らぐリラックス大全……?」
本の表紙には、そう題名が記されていた。
「そう! この本に『疲れた心には森の情景を想像すると良い』って書いてあったから、今花子ちゃんに森の情景をお話で想像させてたの!」
「いや今の話のどこがリラックスできるんだ!」
「ただのお話じゃつまんないなーと思って、ちょっとドラマチックに仕立ててみました!」
「いらねぇよそのドラマ要素!」
千尋の診療は全く効果が無かったのか、それともそもそも疲れていなかったのか、花子の表情に変化が現れた様子はない。
本を使って遊びたいだけの千尋に、乃良は溜息を吐く。
「大体、リラックスならもっとさせなきゃなんねぇのが一人いるだろ」
そう言って、乃良は親指でその一人を指差す。
部室の椅子に腰掛ける博士。
眼鏡の奥の瞳の下には落とし穴の様なクマが出来ており、どこにも焦点が合っていないようだった。
「今日どうしたのあいつ?」
「さぁな。どうせ昨日遅くまで過去問解いてたんじゃねぇの?」
博士の寝不足は今に始まった事ではない。
理由がいつも自業自得な為、部員達の心配もいつしかどこかへ吹き飛んでしまったが、どうも今日はそうも言っていられない程の絶不調のようだ。
「おいハカセ、大丈夫か?」
「あ? 大丈夫だよ」
その顔色も声色も、決して問題が無いようには見えない。
「明日の一時限目ってなんだっけ?」
「バカ野郎、たんぽぽは食べ物じゃねぇよ」
「ダメだこいつ」
会話が成り立たない程の重症のようだ。
「んー、確かにこれはリラックスが必要だねー」
千尋はなにか良い案が無いかと、リラックス大全をヒラヒラと捲る。
花子も博士が心配で、じっと視線を送り続けていた。
早くいつもの博士が見たい。
そんな花子の静かな祈りが届いたのか、千尋の開いたページに最適解が見つかった。
「これだ!」
その声に博士が振り返る事無く、振り向いたのは花子だった。
●○●○●○●
そして、その最適解は実行された。
「おい」
部室の椅子に腰掛ける博士。
その博士の座る椅子にもう一脚寄せた花子はそこに座り、博士の体を覆うようにして博士に抱き着いていた。
「なんだこれは」
朦朧とした意識の中で起こった事件に、博士は説明を要求する。
要求に答えたのは千尋だった。
「ハグっていうのは最高のリラックス方法なんだよ! ストレスが軽減されて、セロトニンだかドーパミンだかデッカチャンだかの幸せホルモンも分泌されて、幸せな気分にもなれるんだって!」
「最後の一つは違うけどな」
博士の意識も十分戻ってきたようだ。
「どう? リラックスできてる!?」
千尋に尋ねられ、博士は自分の胸辺りへと目を落とす。
自分の背中に手を回し、ピッタリと密着する花子。
博士を癒す事に必死なのか、花子の無表情からは真剣味が伝わってきた。
その直向きな姿に、博士の頬が薄く染まる。
「……無理」
「えぇっ!?」
予想外の回答に、千尋は声を上げる。
「なんで!? ハグは最高のリラックス方法なんだよ!」
「知るかよ! こちとらリラックスどころじゃねぇんだ! おい花子! さっさと退け!」
このままでは心臓がもたないと、博士は花子を剥がそうとする。
しかし花子も、頑なに博士から離れなかった。
「なにやってんだよ! 早く退けって!」
「花子ちゃん! 早く退いてあげて! 多分もうハカセ限界だから!」
内外両側から花子を剥がそうとするも、まるで磁石の様に花子は離れてくれない。
博士の心臓が爆発三秒前というところでようやく花子の引き剥がしに成功し、心臓はなんとか原型を留めていた。
●○●○●○●
正面からのハグが失敗だった経験を活かし、今度は背面からのハグを試みてみた。
所謂バックハグを花子からされ、博士はまたしても捕縛状態だ。
「これならどう?」
監修の千尋が博士にそう尋ねてみる。
正面からだと花子が直に伝わってきたが、背面からだと情報が薄いからか幾らか心に余裕が出来ていた。
「……うん、これならまだ」
それどころか疲れが昇華されるのを感じる。
やはりハグのリラックス効果は絶大なようだ。
自然に身を任せた博士の体が、ゆるりと後ろに倒れる。
結果、博士の後ろから抱き着いていた花子は、更に後ろにあった背凭れと博士の背中によって板挟みにされてしまった。
「待て待て待てハカセ!」
「花子ちゃん潰れてる! 後ろに倒れるのは無し! 早く元の姿勢に戻って!」
乃良と千尋によって強制的に起こされ、博士は更に疲れを覚えたような気さえした。
●○●○●○●
背面は危険だという事で、結局花子は正面へと戻ってきた。
強く力を入れたら折れてしまいそうな胸板を、花子がか弱い力でぎゅっと抱き締める。
花子の無表情からは、下心が皆無だと断定する事は出来なかった。
「んー、ハグでもダメかー」
「なんかもっと良い方法ないの?」
「ハグよりもリラックスできる方法なんて、もう頭なでなでぐらいしか思いつかないよ」
「頭なでなでそんなに強いんだ」
千尋と乃良の会話がやけに遠く感じる。
そう感じたのは恐らく、自分の身の回りに音が一切無いからだろう。
ひたすらに博士を抱き締める花子の頭上で、ふとこくりと何かが倒れたような気がした。
何事かと顔を上げると、眼前には博士の顔。
その瞳は心地良さそうに瞑られており、耳を澄ませば微かに寝息も聞こえてきた。
「寝てる……」
「やっぱり相当疲れてたんだな」
外野の声も気を遣って、少し音量が下がる。
あれだけ騒がしかった博士の心拍音も、今では熟睡に落ち着いていた。
目と鼻の先に倒れた博士の寝顔に、花子は釘付けになる。
その気になれば、唇だって合わせられそうだ。
それでも花子は顔を博士の胸へと埋め、抱き締める両腕の力をちょっとだけ強めるに抑える。
今はただ、博士の夢が幸せになるように努めるだけだった。
●○●○●○●
部室の窓からオレンジ色の斜陽が降りかかる。
その日差しに当てられて、博士の閉じていた瞼は徐々に開かれていった。
「……ん」
歪んでいた眼鏡を、寝惚け眼と共に矯正する。
いつの間にか部室には誰の影も見当たらず、珍しく静寂に支配されていた。
「……あれ、あいつらは」
「ハカセ」
声が聞こえて、博士は目を落とす。
そこには博士の胸に抱き着いて離れなかった花子が、こちらを無垢な瞳で見上げていた。
「うわぁっ!」
寝起きの想い人に、思わず博士の声は上がる。
その声からは一切疲れを感じなかった。
「お前、ずっと俺にくっついてたのか!?」
「うん」
「あいつらは!?」
「ちょっと前に帰ったよ」
荒れ気味に問い詰めた質問も、花子は淡々と回答を返していく。
そのおかげか、博士も少しずつ冷静を取り戻していた。
「そっか……」
博士は後頭部を掻きながら、不意に花子を見つめる。
先程確認した時計から察するに、どうやら長針一周分程夢の中に眠っていたようだ。
その間花子は、ずっと自分の毛布代わりになっていてくれたのだろう。
それが堪らなく愛おしくて、博士の胸は苦しくなる。
「……ありがとな」
「?」
唐突の感謝に、花子はなんの事だか見当もついていないようだ。
それよりも花子には、気になる事があった。
「……ねぇ」
「ん?」
徐に口を開いた花子の続きの言葉を博士は待つ。
「ハカセはなんで今日寝不足だったの?」
乃良が夜遅くまで過去問を解いていたからだと言っていたが、それは彼の推測だ。
実際、博士の寝不足の原因はそれでは無かった。
「それは……」
ふと博士は、昨日の夜更けの記憶を蘇らせる。
その夜は珍しくも、博士はリビングにいた。
ろくに明かりもついていない部屋で、目の前のテレビだけが目に悪い光を飛ばしている。
『以上が、女性が男性にぐっとくる瞬間百選になりまーす!』
バラエティの司会者が、流れていたVTRに締めの一言を添える。
画面の右上には『恋愛塾』と番組タイトルの様なものが表示されており、雛壇には今を彩る女性芸能人が多数顔を揃えていた。
『皆さんはどの瞬間が男性にぐっときますか?』
『私はネクタイを緩める瞬間かなー? 締める時もビシッとしてカッコ良いけど、やっぱり緩めた時の無防備感が堪らない!』
『逆に締めらんないのも良いよね』
『分かる! ギャップ萌えね! 仕方ないから私が締めてあげるよみたいな!』
『良いなー! 俺も締めて欲しい!』
『アンタはそのまま首締め上げてあげますよ!』
『ドイヒー!』
出演者の巧みな話術で、番組は大盛り上がり。
しかしテレビの前の博士が表情を崩す事はなかった。
ただ真剣に番組を視聴するのみ。
その姿勢は、教室で授業の内容を真面目に呑み込もうとしている時のそれと完全に一致していた。
「……言わない」
「えっ」
長い沈黙の後に告げられた拒否に、思わず花子も声を漏らす。
博士の顔は紅潮しており、まるで収穫時期を迎えた林檎の様になっていた。
「言わない! お前がそんな事知る必要無ぇんだよ!」
「嫌だ。教えて」
「言わねぇっつったら言わねぇの! ほら! 俺らも帰るぞ! さっさと退け!」
「嫌だ」
「嫌だじゃねぇよ! いいから退けって! 帰れねぇだろ!」
「嫌だ」
「だからぁ!」
どれだけ言っても、花子は博士の体から離れようとしない。
もしや今日一日花子が博士に抱き着いていたのは、博士の為などではなく、単純に自分の欲望に忠実に動いていただけなのではと、そう思わせられていた。
僕もリラックスがしたいです。
ここまで読んで下さり有難うございます! 越谷さんです!
ハカセと花子の一話完結のラブコメを書こうと思いまして、今回のテーマを考えました。
しかし長い事書いてきましたから、結構やり尽くした感はあるんですよね。
間接キスとか、膝枕とか。
付き合っていない男女がし得る最低限度のスキンシップってなんだろうって考えた時に、まぁ……ハグかなぁ……?と思いまして、今回が出来上がりました。
最初はあれだけ書きたいネタがあったのに、今はどんなネタを書こうか考えるという事は、それだけ話を書いてきたという事ですよね。
そう考えると少し感慨深いです。
あまり自分ではいつもそう思わないんですが、今回に関してはハカセと花子に「とっととくっつけ」と思ってしまいましたww
物理的にはくっついてるんですけどww
それでは最後にもう一度、ここまで読んで下さり有難うございました!




